ここに掲げた写真は、中関村の農民が領主に田畑の検地(測量)をして下さいと嘆願して、8年目の宝永5年(1708)にやっと実現した検地帳です。しかし、この表紙には「検地帳」とは書いてはなくて「田方水帳」と書かれています。
「水帳」とは、水田に水は不可欠のものだから「水帳」といったのではないかと考えがちですが、ごらんのように「畑方」も「水帳」です。広辞苑には「御図帳」すなわち「図帳の尊敬語」の当て字と解説していますが、検地帳にはさまざまな呼び方があり、「御縄帳」「御縄打水帳」あるいは「地押帳」「地詰帳」などといわれ、地押・地詰は田畑を片端から残らず調べたことを意味します。
検地帳の中でも、太閤秀吉の命によって行った天正年間の検地帳を「青表紙の縄帳」「青表紙検地帳」「太閤検地帳」などといい、飯伊に残るのはすべて写本です。
(H7・1)