太閤秀吉の天下統一によって行われた、いわゆる「太閤検地」(天正19年)は、兵農を分離する刀狩りと相まって日本の社会構造を一変させました。太閤検地帳は「青表紙繩帳」などといわれていて、村高や大名の石高を示す基礎生産高ですが、下の写真はその冒頭部分で、阿智地域の9か村名が見られます。
石高の次に村名があり、その下に村の品等が書かれています。大鹿倉はただの七石で「是は繩はづれ」と但し書きがあり、測量せずに目見当で石高を決めた異例の扱いです。また中関の石高の末尾「七勺七才」は「七合七勺」の誤筆写です。
ところで、阿智村の中心部耕地ともいえる中関と駒場の両村を合計すると丁度千石で、「関の駒場一千石」ということになります。
俗に「新野千石一平」といわれますが、新野は太閤検地で六三四石、幕末になって九七八石で、千石には達しなかったようです。 (伍和・菅野屋蔵) (H58・8)