カラ橋と橋連中

 伊那街道が阿知川を渡る地籍は、江戸時代を通じて現在の長塚橋付近で、通称「カラハシ」と呼ばれていますが、阿知村時代(明治8〜14年)には300mほど上流につけかえられたようです。明治12年に村から長野県権令にあてた「道路橋梁新築願書」に「木橋壱ヶ所但長三十四間、幅九尺」とあり、その橋の名は「逢地橋」とあって、同時に提出した目論見帳(予算書)には「阿知川橋」と記されています。しかしこの橋は2年後の明治14年9月「稀ナル洪水ノタメ落橋」してしまいました。

 中馬街道にある重要な橋ですから、すぐ仮橋をかけて再架橋の計画を立てていますが、この橋は古来から橋銭(通行料)を取っていて、それに関係したグループがいたと推測されます。下の写真は元カラ橋の畔にあった馬頭観音碑の左側面で、「橋連中」の刻字があり、これが橋銭をとったり洪水で流された橋の復旧を請負ったりする橋グループの原形と思われます。この碑は寛政7年(1795)建立、現在は長岳寺門前に移転されています。  (S59・3)

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