不可解な積石

 中関下の宮崎さん宅北側から馬場部落へ通ずる道路が新設されることになり、工事に先立って発掘調査が行われました。ここは「内垣外」と呼ばれる地籍であり、中世末には林紀伊という郷士が住み、林氏の廃絶後は宮崎氏(四郎右衛門系)の居館になった(南信伊那史料)といわれます。南信伊那史料は伝承による史料が多く信用できないこともありますが、古い里道と用水がこの地籍を迂回するように通っているのをみても、中世以降の館跡であったことは間違いないと思われます。

 発掘の結果、縄文以降の遺物や住居跡が出土確認されましたが、調査地籍の中程に、写真のような石積が現れました。東西130p、南北180p(更に未発掘部分が写真左方にある)、高さは東半分が55p、西半分が80pという段差が認められます。積石の下には10〜20pの焼土がありますが、この石積は地上に積上げたものではなく、長方形の穴の中へ石を積み込んだものとみられています。

 積石の中に近世の陶器片が混入するところから、江戸時代か明治期の構造物らしいというのですが、この不可解な石積を何と判断したらよいでしょうか。  (H4・7)

表紙に戻る 総合目次 足あと 5章 愛郷 8章 さんまのメモ 更新記録