江戸時代の中関村は、阿智地域の中でも石高・戸数・人口ともに標準的な村です。その歴史的経過も、天領になったり私領になったりで変化があり、戸口史料も寛永19年(1642)という古い史料が残っていて、研究する上でも興味深いものがあります。
その寛永十九年の「人数改帳」に「庄屋忠兵衛」と記されてありますので、これが江戸時代初期の中関初代庄屋であったものと推測されます。宮崎氏系図によりますと、この忠兵衛は中関宮崎家の初代四郎右衛門の子で、「病身ニ依リ仕官ヲ辞シ中関ニ住ス」とありますが、他の史料では福与・部奈(現松川町)の代官等を二十年にわたって勤めていて病身とは思われません。
写真の右の大きい墓石が忠兵衛の墓で延宝2年(1674)没、左が同家初代四郎右衛門の墓で正保元年(1644)没と刻字されています。 (H8・3)