穂屋の薄の句碑(芭蕉塚)

 「郷土史巡礼」に掲載の小林郊人先生の遺稿に書かれた「芭蕉塚」は、昭和44年国道市の沢バイパス工事のため破壊され、塚の上にあった句碑は一時上町の長岳寺境内に移されましたが、駒場バイパスの工事のため、長岳寺と共に昭和46年日向畑(ひなたばた)の現在地に再度移転しました。

 この写真は市の沢の芭蕉塚の上にあった当時のもので、バックに見える雪景色は曽山方面です。小林先生の文中に「丑のとし翁の百回忌にあたれば、月岡連(つきおかれん)催して駒場のから橋の上に翁塚(おきなづか)を出来(しゅったい)し……」と引用されている小文は、大正2年刊「会地村案内」にも掲載されていますが出典が不明です。宮崎兎柳の句帖も総覧しましたが現存する遺墨の中には見当たりません。「丑のとし」は寛政5年(1793)と思われます。

 また、太田中彦の「三狂庵桐羽伝」には「下伊那俳連の需(もとめ)に応じては、尾花ふくの碑を樗(あふち)の関に胎(のこ)す」とありますが、なぜ
 「雪散るや穂屋の薄(すすき)のかり残し」
の句を「尾花ふく」ととり違えたのでしょうか。故牧内雅博先生は桐羽伝を全面的に信ぜられて「宝暦年間三狂庵桐羽の建立」とされましたが、今一つ決定史料が欲しく思われます。  (S59・1)

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