浄久寺の市岡氏墓所

 市岡氏は、慶長6年(1601)から貞享2年までの84年間、上中関村の領主で、それ以前の天正年間ころにもこの地の郷士であったというが、天正時代のことは地誌類の伝記が各種各様で実態が解けません。

 上中関領主初代の理右衛門忠次は下伊那の材木奉行をつとめ寛永16年76歳で没しました。写真(浄久寺墓地)の左から二基日の宝篋印塔がその墓で、「長岳道智信士」の刻字が明瞭に読みとれます。
 長男の多右衛門定次は江戸へ出て秀忠に仕え、上中関村は三男忠重(30歳にて死)の子清次(理右衛門・瀬兵衛)が継ぎ、近江国黒田郡の代官となり出世したかにみえましたが、勤務の怠慢を理由に三宅島へ島流しにされて島で死に、領地没収となりました。

 写真の墓石はみな立派なものですが、右端(宮崎浄安)の外は何回かの調査にもかかわらず被葬者が詳しくわかりません。  (S59・7)

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