下伊奈郡案内道中記について
〜 以下はほぼ原文です (文責さんま) 〜

  「下伊奈郡案内道中記」について概要を記してみます。
 この本は縦13.5p、横16.5p、約100頁の袋とじ本で、木版印刷。
 末尾奥付を見ますと、

  「于時嘉永四辛亥天(年)春吉辰日成就」 「飯田升形より九丁余東」 「版施 大下川底」
  「凡三百三拾三冊施之内 第六冊目」 「御用の旁へは施シ申度事、進上可仕候」
  (図版参照)とあります。

  この本は観音信仰の篤い人が個人で、いわゆる自費出版したもので、時は嘉永4年(1851)の春。「飯田升形」というのは、伝馬町の上の方で警察署への入口の十字路がわずかにくい違ったようになっている場所のことで、道路にわざと曲り角をつけて城下町の防衛に備えたところです。
  ここから東へ9丁余(約1km)の「大下川底」が出版した、とあります。これは現在の上郷町(飯田市)別府に「川底」という地籍があって、「川底辻」とか「川底堤」「川底観音」という地名がありますのでそのあたりかと思われます。又「大下」は家号か苗字であろうと考えられますが、現在上郷町に大下という姓は電話帳に見当たりません。「川底」の下に印を押してありますが、これも判読できません。

 次に印刷部数を「凡三百三拾三冊施之内」としています。「凡(およそ)」は「すべて=全部で」という意味でしょう。「施」はここでは「実施」という意味の「作成した」と解します。次の「第六冊目」は「六」の字は印刷ではなく毛筆で直接書かれていて、「ナンバー入り」の本なのです。観世音菩薩は三十三に姿をかえて衆生を救済するというところから三百三十三冊を印刷し、そのうちのこれは六冊目という意味で、この本の貴重であることを表わしていますが、同時にこの本の配布先(所有者)を明確にしたものでしょう。

 次に書かれている文章が変わっています。「御用の旁(かたがた)へは施し申したきこと、進上仕るべく候」つまり御入用の方々へは無料贈呈致します。というのです。この文章は巻頭にもあって、「斯く何向きの参廻にも用立つ記冊なり。御用の方々へは進上仕るべく候、並びに諸人へ御借し、参廻の御用に相立て、御世話ながら又御取り戻し、憚りながら失なわせこれ無く、又々余人へ御借し下さるべく候(読み下し)」と、作者が細かな心遣いの人であったことを偲ばせます。「お借し」は「お貸し」の誤りと思います。

 扉にあたるページには、「当下伊奈郡案内道中記」と標題を上下に横書した間に、

  四国第一番ハ九枚ノ所普門、同止八十八番ハ四三ノ所法蔵
  西国一番ハ二六ノ所立石、同止三十三番ハ十五ノ所瑠璃
  秩父一番ハ三二ノ所宗円、同止三十四番ハ九枚ノ所西教
  (昭和54年の百観音開帳には竜東の秩父が開帳され、この秩父は開帳されなかった。)
  坂東一番ハ二九ノ所竜岳、同止三十四番ハ廿一ノ所誓願
  薬師壱番ハ四二ノ所運松、同止十二番ハ十一ノ所長昌

文中すべて「寺」を省略していますが、この一冊で、伊那四国八十八カ所伊那西国三十三カ所伊那秩父三十四カ所伊那坂東三十三カ所伊那薬師十二カ所、合計二百カ所の第一番を記載しているページ(枚)と、止という結願寺(最終の寺)の記載ページ数を示しています。このうち、西国・坂東・秩父の百カ寺堂を一覧表にしてみました(リンク先へ)

 本文は図版のように木版印刷特有の書体で、簡略化した文字や符号のようなものもあり、まるでクイズを解くような文面ですが、一旦解読のコツを会得するとなかなか豊富な内容が記されていることに驚きます。

 上図一行目は前ページの続きで浄久寺の御詠歌「・・や 浄キながれハ久サかたの寺」
 二行目「中関へ十五半(十五丁半)〔ヘ下リ中道内々返リ」 (この部分は次の寺の案内)
 三行目「本不動尊、同梅松」   十前ヘ近シ
 四行目「六十七番、未、長岳寺、前ヘ○り次へ」
 五行目「東十八番十一面」
 六行目「はるごとに梅松山の色そへて」
 七行目「にほへたへなる長ガ岳クノ寺」(余分な送りがなもある)

  これを順序よく解読しますと、三行目の同は駒場で、駒場梅松山長岳寺、本尊は不動明王、梵字(キャ)は弘法大師札所の略号で六十七番札所、未(西南南)向き、東は「伊那坂東」の略記で第十八番札所、十一面観世音を安置の意味、次二行は長岳寺の御詠歌です。

 次に黒地に白抜きの文章が二行半ほどあります。これはここだけに使われている手法で、特別扱いの記事です。 「父十一番千手尊、観照寺ハ乱落ニて、同木槌薬シ尊共当寺へ御預り也」 これをわかりやすくしますと、 「伊那秩父十一番札所の千手観音を安置する観照寺は、戦乱のため没落し、同寺の木槌薬師の尊像と共に長岳寺へお預かりとなっている」となります。この戦乱というのは天正10年(1582)織田勢が信州へ攻めこんだ時と伝承されています。以下、右の図版のところには、清坂堂満願寺衆生院が記されていますが、解読は省略します。

 このように二百か所の寺院堂庵について簡潔ながら要点を記し、さらにその道順についても距離はもちろん、途中に坂がある、橋がある、分かれ道があることまで記し、その距離は番号順に巡回する場合と、短距離で都合よく回わる場合とを対比しています。

 はじめに「目録」と題する序文がありますので、わかりやすくして読んでみます。
一、四国はこの梵字(キャ)を印す八十八カ所、西国は西と印す三十三カ所、秩父は父と印す三十四カ所、坂東は東と印す三十三カ所、薬師尊十二カ所、合せて二百番カ所、右は飯田町より北は山吹新田まで、南は雲雀沢、西は小野川まで、天竜川西の間、右町と前後七十六カ村の内に、古来の節勘請相定めこれあること。このように拝廻致すは誠に有難き次第、分文・書筆に尽し難き訳合なり。
 是より書き記す一条の趣意は、まず参廻に差し向えば諸事万端早速相わかるなり。何方が右か左か、となりの寺堂より廻りはじめ、左か右となりの堂寺にうち終ること。
 二百番を残らず総廻りするには、伊那四国一番よりはじめ、梵字(キャ)の番順の書き止め、西・父・東・十二薬師は間々へ付け込みに止印する。この道のり〆て千四百六十丁
 伊那四国ばかり八十八ケ所の拝廻は、大師札所の無き寺堂を除き〆て千三十一丁
 西国・秩父・坂東ばかりの参廻は、四国札所を除き〆て千三百三丁
 伊那四国ばかり勝手廻参(番号順ではない)は寺堂号の前キワにいろは順、
  いの次何枚めにろ有りの印を改め廻る、〆て千一丁

 長くなりますので以下省略しますが、この筆者は二百か所の寺堂を何回も自分の足で回ってみてこの案内道中記を作ったものと思われます。それでなくてはとてもこのように詳細な記事は書けないと思います。そして百ページ余の印刷も多額の費用が必要だったと思われますが、それを希望者には無代進呈、まさに観世音菩薩の生まれ代わりのような人です。三百三十三部作ったというのに、阿智村に二冊が残るだけで、他で見つかったということを聞いていません。貴重な伊那谷の文化遺産です。この一冊により、私は当時の巡拝について多くの知識を得ましたし、又教えられたことも多く、一冊との出会いを感謝しています。
   (H5・5)

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