長岳寺の五輪塔
〜 以下はほぼ原文です (文責さんま) 〜
五輪塔は、宇宙を形成するすべてが、空・風・火・水・地の5種類の要素から成り立っているという、仏教の「五大」という思想を表わしたもので、大日如来を本尊とする供養塔として建立されたものが、のちには大名や武士の墓標として用いられるようになったといわれます。
日本最古の年号のある五輪塔は、岩手県の中尊寺にある仁安4年(1168)のものといわれ、近くでは飯田市南原の文永寺にある五輪塔は弘安6年(1283)という刻字のある石室によって囲われており、当地方では最古のもので重文に指定されています。
私が五輪塔に関心をもちはじめたのは、昭和47年に宮崎氏調査団が結成されて、近世初頭に阿智地域を支配した宮崎諸家の系譜や事績を解明しようと、その墓石調査をはじめた時からで、それまで知らなかった伍和の宗円寺や駒場の浄久寺等に残されている、宮崎諸家の大きな五輪塔と対面して、その泰然としたたたずまいの中に秘められた郷土史のなぞ解きをはじめたころからです。
それ以来、村内にあるほぼ完全な形を保つ五輪塔23基と、残存部分の約10基を写真にとったり記録することができました。このほかにもまだあるのかも知れませんが、個人の墓地をくまなく調べたわけではありませんので、これで全部とは言いきれませんが、飯伊の町村のうちでは五輪塔や宝篋印塔の数が格別に多い村ということができます。
五輪塔の各部の名称を図によって知っていただきます。空輪を宝珠、風輪を受花、火輪を笠石、水輪を塔身、地輪を基礎という場合もあります。空輪と風輪は一石で造られているのが普通です。この図は文永寺の五輪塔の計測図ですが、各部に彫られた梵字は上から、キャ、カ、ラ、バ、アと読みます。これは大日如来の真言(呪文)といわれます。
さて、阿智村内の江戸時代及びそれ以前の五輪塔の分布をみますと、七久里1、隆芳寺1、木戸脇2、長岳寺1、浄久寺4、古料3、宗円寺4、寺尾1、備中原1、奥藤1、中平1、伏谷2、園原1、となりますが、これは私の知っている数で、まだほかに未知のものがあるように思われます。この中で被葬者がわかっているものは約半数で、その他はいずれも深いなぞを秘めています。
その中でも、最も多くのなぞを秘めているのが、写真の長岳寺の五輪塔です。この五輪塔は、先年まで市ノ沢の長岳寺墓地の中に、歴代住職の墓石と共にあったものですが、現在は日向畑(字名 城坂/じょうざか)の新しい長岳寺墓地に移されています。
塔の高さは93pで特に大型ではありませんが、その形容は古く、江戸時代以前のように思われます。あるいは上図の文永寺五輪塔(鎌倉時代)に類似する点が多いといってもよいのではないでしょうか。
しかしただ一つ理解できないのは、水輪と地輪の間にある四角形の小さな石のことです。このような六つの部分から成りたっている五輪塔は見たこともなければ文献等にも見当たりません。まさか建立した時からこの構成になっていたとは考えられませんが、円形の水輪が安定して乗っている構成は余計者扱いしてよいものかどうかと考えさせられます。
長岳寺の五輪塔
しかし、五輪塔構成の意義からみても、後に記す大日如来の真言である梵字の配置をみても、この水輪と地輪の間の平四角形の石は不用のように思われますので、写真の画面で問題の石をカットしてみたのが次の写真です。
こうしてみますと、地輪の一辺(火輪の一辺も同じ)と塔の高さの比は、2.65倍となり、文永寺五輪の2.60倍とほぼ等しくなるばかりか、空風火水地の各輪の構成比率も、文永寺五輪とほぼ等しいことがわかります。
水輪・地輪ではやや差にひらきがありますが、地輪は土中への埋もれ具合によって若干の差があるでしょうし、長岳寺五輪は写真による計測比なので若干の誤差もあります。
今ひとつ類似しているのは、各輪の四方に前述のような梵字が刻まれていることです。これは最近、この記事のために現地調査をしました折、長岳寺の住職さんから御教示をいただいたものですが、写真では地輪の面だけ刻字のあるのが見えます。
文永寺五輪塔もそうですが、古い五輪塔には各輪の四面に次のような発心門、修行門、菩提門、涅槃門の梵字があります。
長岳寺の五輪塔も、よく見るとこの梵字があります。写真に見えているのは涅槃門の五字目のアクで、この刻字は北に向いていなければならないのに、現在は南向きになっています。市ノ沢の墓地から移転する時にとり違えたものと思われます。
このように長岳寺五輪塔は形態の上からも、四面に梵字が刻まれていることにしても、きわめて古い様式をもっていると思います。文永寺の五輪塔に類似するから直ちに鎌倉時代だとは申せませんが、その道の専門家にみてもらい教示を得たいものです。
なお、長岳寺にはこの五輪塔について何の記録も伝承もないようですし、先代の山本慈昭さんも何も話してくれませんでした。これは墓石として建立されたものではなく、密教的な要素をもつ信仰の対象として造立されたのではないかとも想像されます。
(S62・8)