「オウチ」=凹地 説
〜松崎 岩夫先生の説〜
松崎岩夫先生は、信濃古代文化研究所を主宰される、古代史・地名の研究者です。『長野県の地名とその由来』・・@、『長野県の東山道』・・Aなどの名著があります。
さて、著作@に、「アチ」は窪地や崖地と見ると現地に適合すると書かれています。この件に関して、2002年度柳田国男記念伊那民俗学研究所総会において、「下伊那の地名、その由来」と題して詳しく述べておられますので、概略を引用します。
今の阿智村の「阿智」という字もあるし、それから「会地」と書いて、オオチと呼ぶ。
それから神社に阿布知神社、立派な石碑がありましてね、古いような神社ですよね。
そのオオチ、オオという発音、これどうですか、古い字で凹凸という字があるでしょ。
この字はちゃんとした日本字ですけど、オオチです。
凹地とはどこにあるか、神社があるところは凹地でない。
・・・おおしな坂という坂がある。これをおおちの坂ともいう。通称おおちの坂。
この下は、旧駒場の大きな段丘のところで、昔の阿智は本当に窪地です。
あそこに立って見て下を見てください。そうすると非常に窪地です。
一つだけではあてにならない。たとえば東京に行くと王子という所がある。
東京の王子も、字は違いますよ。王子だから窪地ということなんですね。
阿智もそれでオウチは崖と窪地。
そしておおしな坂は信濃の国の語源の、シナというのは段丘のことです。
これはほうぼうのシナの語源はみんなそうです。
所々省略しましたが、要点は上記の通りです。
まず、安布知神社の名前は江戸時代後期の文化元年(1804)からですから、古そうに見えて実は新しく、「あふちの関」に因んで命名されたと見られます。
次に「会地」も、明治22年(1889)に駒場村と春日村が合併した時に、「あふちの関」に因んで「会地村」となってからですので、すべては「あふちの関」の故事に遡ってしまいます。
それでは、「あふちの関」とは一体何だったのか?というと、はっきり文献に残ってはおらず、平安時代の和歌に3首見られ、能因歌枕にも取り上げられているという状況証拠のみです。
貞信公記という記録には、平将門の乱の際にウスイ、キソ、ミサキ(身崎)に関を設けたが、解除してよいことになったという話が見えます。
地形・地名から見て「ミサキ」=御坂(ミサカ)だろうと言われています。
御坂の麓が阿智駅なので、「ミサキの関」=「アフチの関」であり、「アチ」駅付近の事を言うのだろうと推測されるだけです。
次に、「大品坂」を「オオチの坂」というのは明治時代の土地台帳の引用でしょうが、江戸時代の検地帳(延宝年間)では、単に「大品」つまり「大きな坂」となっています。「オオシナ」=「オウチノ」と考えて、自分の土地に「逢地の坂」と命名した人が明治時代にいたのでしょうが、実際の通称とは認められていません。別に「大品」も土地台帳に見えます。
更に、肝腎の「凹地」とは一体どこを指すのでしょうか? 確かに、大品坂から阿知川を見ると流れは遙か下です。しかし、今見える旧駒場(下町や栄町)の街並みは、明治以後に道路を造ってからできたものです。それ以前はせいぜい藪だったところです。
東山道阿智駅に関係すると思われる会地地区の中心地は木戸脇から南に広がる関田や中関で、ここには古墳もありました。台地の上の平らなところなので、わざわざ「凹地」などという地名を代表して付ける理由がありません。
松崎先生の視点自体は素晴らしいと思いますが、現地の地名の新旧をもう少し考慮する必要があると思います。 (文責 さんま)