9月議会報告

むずかしい哲学より現実が大事

 「最善観」という言葉があります。我が身に降りかかってくる全ての出来事は、自分にとって絶対に必然であるし、絶対に最善であると言う言葉であります。―これは私の質問に対する市長答弁の最後の一節の冒頭部分です。さらに「大学法人化は…必然であり、最善であり、天命である」とまで言っています。

国の方針を絶対化する
 耳を疑いました。法人化=国の方針を最善、天命というのであれば、地方自治を守る努力も、議会が国に意見書を上げることもまったく愚かな行為ということになります。地方行政にかかわる者の原点は憲法であり、地方自治法です。それと別に「最善観」なるものを原点に置くことは許されません。これでは市民に対しても「市は国・県の方針を天命として受け入れ、その方針の中でできる努力をする。市民も市の方針を黙って受け入れなさい」ということにならざるをえないからです。  質問で私が「流れ」に乗る危険性と政治の変化に触れましたから、市長は反論したつもりかもしれませんが、いくら答に窮しても口にしてはいけない言葉でした。

政治、国の方針は変わる
 市長が絶対とする国の方針も「変わる」ことは最近の政治を見れば一目瞭然です。高齢者の医療費負担増計画や障害者の一部負担の見直し、教科書検定の一部公開などが参院選の結果を受けた国会論戦で明らかになっています。分かりやすい政治の変化はよほど意固地にならない限り見えるはずです。

真の楽観論はどこから生まれるか
 「最善観」は哲学用語でした。「広辞苑」にも「日本国語大辞典」にも出てきません。昭和10年発行の「大辞典」にようやく「=楽天観」とありました。これなら分かります。「広辞苑」にもあります。「楽天観=楽観論=楽天主義」、私の好きな(?)カタカナで言えばオプティミズムです。生意気盛りの20代に出会った記憶があります。古い観念論哲学です。  私も楽観論の立場に立っています。しかし、国の方針を変えようのないものとして受け入れる市長とは逆に、世の中は「ジグザグはあっても進歩する」という楽観論です。社会進歩は歴史が証明しています。そして社会進歩に沿って生きようとするとき、受身でない楽観論の立場に立つことができます。

支配者の利益に屈従させる
 今の政治はアメリカいいなり、大資本の利益優先の下に置かれています。それを具体化した政策を直視しなければ市の発展は望めませんし、市民のくらしも守れません。市長の言う最善観では「税金が高い? 商売がやっていけない? 法務局・警察署がなくなった? お産ができなくなる? それが最善、天命なのです」、あきらめるしかありません。  市長にはむずかしい哲学を勉強するよりも澄んだ目で現実を見てもらいたいものです。

 

 11日付一般紙に大学法人化についての一般質問と反対討論を載せた「都留民報」を折り込みました。感想・ご意見をお寄せください。


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