今泉先生のメールに学ぶ3

「文明とはなにか」を考え

 (前号より)
 文明というものは、アメリカ先住民やアイヌにそうであったように本当に残酷ですね。現代文明もますます野蛮になって金に換算できないものの価値に気付くことができません。クマにであって、クマを目の前にして考えはじめるのではなく、ふだんからクマについて、人間が自らの醜さに気付いていけるような議論を重ねていくことが大切ですね。車に乗るということは、クマ以上のエネルギー消費をしているのであって、自分の方がはるかに暴力的な存在なのだと誰でも分かるはずですし、権力者がどれほどのエネルギー消費をしていることか、クジラをはるかにこえるのは間違いありません。

私はクマを含む大型獣がいつでも過ごせる農場と森をつくって、くらすことを考えています。イヌをペットにする人が個々の犬を深く理解し共にくらそうというのなら、野生動物にも同じように接する人がいて不思議ではありません。私はいまの日本が野生動物にであえる自然をもつように変わってとてもよかったと思う数少ない人間だろうと思いますので、そのようなくらしをして、自然や動物とともにくらすことの価値を伝えることが私の仕事になる、と考えています。

この秋から岩手で過ごすことが多くなっているのですが、それはそのためです。岩手は都留と違い、農地を持つことが金になる、というふうにはならなかった地域で、その逆ですね。私はアメリカでゴーストタウンをたく
さん見てきたのですが、岩手も同じ状況です(都留も土地の産業のほとんどがつぶれ、人は住んではいてもゴーストタウン的な性格をもっていると私は見ています)。ニューメキシコのゴーストタウンについての本を書いたリンダ・ハリスは、ゴーストタウンは生きているといい、町が経済的な繁栄にあるからといって「生きている」とはいえない、という意味のことをいっています。ゴーストタウンは死んだ町のようで、実際には、本来のくらしのありように気付いた人が残ってくらしている、といっています。それは繁栄の時代のよい面、悪い面のどちらをもみすえて、今を生きることができるからでしょう。

畑でのイノシシとの出会いは、不幸な出会いであったとしても、貴重な、価値ある出会いでしたね。人間が動物の魂にふれる、ということ自体に、私は深い意味があると思っています。じっさい、三日も気が滅入っていたということは、そこに深い意味があったからですね。私はそのような出会いの一つひとつが、野生動物が人間に伝える、ぎこちない真に含蓄のあるメッセージなのだろうと思います。私も自分の出会いを求めて果敢に畑仕事にとりかかります。

 

 この文章には先生の自然観の神髄があると感じ、公表したいとお願いしました。先生は快諾され、またも長い手紙を下さりました。

 

 私のメールを評価してくださり、ありがとうございます。         (つづく)


back index next