戦後61年、終戦記念日に思う

 私など「戦争を知らない」トップバッターの世代はそれなりに「戦後」を体験していますから、「戦争」を実感をもって学べる最初の世代ともいえます。それでも意識的に学ぶことをしなければ、戦争とは何かが自然に身につくものではありません。とくに、戦争への道がどう準備されたのかは簡単に分かるものではないようです。
 8月15日夜のNHKテレビの討論で、若い人が「戦争をリードした人たちも民主的な選挙で選ばれたのだから、選んだ国民にも責任がある」と言ったのには驚きました。すぐに年配の人がぴしっと批判しましたが、戦前に「民主主義があった」と思い込んでいる若い人がいることは事実として確認しておかねばと思いました。受験中心の教育も問題ですが、その後もせっかく社会に関心をもった青年に与えられる判断材料がいかに偏っているかを証明しています。

本来、8・15は楽しく迎える日
 本来、8月15日は、戦争が終わり平和がもたらされた日として大いに祝うべき日ではないでしょうか。たとえばこの日、NHK衛星放送では「二十四の瞳」を放映していました。これなどは、戦争の悲惨さを確認し、いまの平和を大切にしようという気持ちにさせる企画です。しかし、戦後61年もたっているのです。日本はもっと平和で豊かに発展していてもよかったのではないか、もっと普通に平和を喜ぶ企画、さらに未来志向の明るい話題が満ち溢れていても良いのではないかという思いをぬぐい去ることができません。それは別面の「かつら川」も引用している「長崎平和宣言」の「人間は、いったい何をしているのか。被爆から61年目を迎えた今、ここ長崎では怒りといらだちの声が渦巻いています」という気持ちに通じるかもしれません。
 その原因はあの「戦争」をすっきりと理解しようとしない、侵略戦争の亡霊にとりつかれた人たちが、いまだに政治の舞台にいるからです。
 今週の「しんぶん赤旗」日曜版は小泉首相の8・15靖国神社参拝を厳しく批判しています。特に、志位委員長の「談話」は参拝問題について考える際の「ものさし」となるものです。テレビや新聞でさまざまな意見、討論が展開されていますが、この「ものさし」を当てることによって、それらの意見の正否が分かります。

小泉首相の「理解力」に疑問
 「中国や韓国の批判が理解できない」「だれも心の問題に立ち入る権利はない」という小泉首相の繰り返される反論に、私はこの人の理解力に問題があるのではないか、本人が言うとおり、「理解できない」のではないかという気がしてきました。なさけない推論です。
 戦争犠牲者を悼む気持ち、たしかにこれは「心」の問題です。しかし、靖国神社に参拝するというのは「行為」です。小学生でも分かる理屈です。どこまでも「心」の問題にしておきたければ静かに自宅で黙祷を捧げるがいい。衆人環視の的となって靖国に行く必要はありません。その理解力とブッシュのポチ、平和とくらしを壊して歴史に残るつもりか。


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