「コヒマ三叉路の死闘」にみる
兵站抜きの戦争は負け戦
家の片づけをしていて、元市職員の矢嶋力さんから頂いた著書「インパール作戦 コヒマ三叉路の死闘」を見つけました。
インパール作戦従軍記
この本は1984(昭和39)年1月14日に発行されたものです。
全体は138ページで4部構成です。「序文」に続く戦場場面「第三中隊第四小隊コヒマの戦い」、次が「第三十一師団長佐藤光徳中将離任の辞『秘史の録音』より抜粋」、その次が「ビルマ捕虜収容所の文才たちの掲示板文学」、最後が「ビルマ戦跡慰霊巡拝の旅」、そして「あとがき」です。
私はインパール作戦について詳しく知りません。ウィキペディアの説明の導入部分「補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される」というレベルの認識です。
まさに「九死に一生」の体験
しかし、30年ぶりにこの本を読み通して、小冊子ですが大変な中身に驚きました。
作戦はインパール後方遮断のためコヒマでイギリスの戦車隊を撃破するというものでした。しかし、そのために大河チンドゥイン河を渡りアラカン山系のジャングル(退却時も)を越える必要がありました。矢嶋さんの記述ではコヒマに近づくに従って敵の砲撃は激しくなり、空からの猛攻とあわせて初めから戦況不利を認めざるを得なかったようです。
矢嶋さんは強い精神力で命を守りましたが、何度も絶望的な場面を体験しています。行動を共にした戦友が何人も間近で命を落としています。この部分を詳述し戦争の悲惨さを伝えたいのですが、それは「あとがき」の次の一節に譲ります。
「…コヒマからビルマに、運よく生還することのできた戦友も、その後に続く『イラワジ会戦』に、また、シャン高原の敗走に、戦死、または病死し、終戦時、コヒマの戦闘に生き残った第四小隊員は、渥美金一郎氏(当時第四小隊長=序文を寄せた人)と二人だけになっていた。……。」
安倍首相は師団長の声を聞け
「烈兵団(師団の名前)のごとき、コヒマにおいて刀折れ矢尽き糧絶ゆるまで勇戦奮闘したる軍隊が、さらに三千名の傷病兵を帯同し、雨中の転進一百里におよび、補給を受けたるものは、わずか二日分の糧秣にすぎず。
飢餓と栄養失調、マラリア、下痢、脚気などのため途中死亡せるもの、実に五百名におよべるほか、健康者はほとんどなき状態において、なお補給せずして、兄らはバレル要塞を攻撃せしめんとする意なりや。兵団の幾名が敵陣地前に到着し得ると思考するや。」
これは師団長佐藤光徳中将の怒りの電文の一部です。兵站に責任を負わなかった司令部に向けられていますが、兵站を後方支援などと言い、「安全なところで行う」などとあり得ない想定を持ち出してごまかす安倍首相にそのまま聞かせたい内容です。戦争法案は廃案しかありません。がんばろう!