| 前へ | Top |2007年〜 | 次へ |
40年をふりかえる(5)

早かった市長の反応

 この連載を始めるにあたって記憶を頼りに関わった仕事を上げてみました。50項目ほど上げることができましたが、そのうち1期目の仕事が2割に及んでいました。当時、ある先輩が「1期目が、一番仕事ができた」と言っていましたが、振り返ると私もその通りだったと感じます。その中には大学に関することが多いことが分かりました。

何と「ピアノ使用料」
 昨年3月、この「手紙」のNo.1224に都留大の地方交付税の事を書きました。私が初当選した1975(昭和50)年には都留大の経費のうち、市の一般会計から繰り出すお金の財源は国から来る交付税になっていました。厳密には市も財政力指数に従って一定の負担はありますが、それでも市の負担は相当軽くなりました。この交付税措置はその前年からだったようです。それ以前はまさに身を削ってひねり出すお金でしたから、一般会計の負担は大変でした。大学の側も少ない予算のやりくりに苦労していたはずで、ギリギリのところまで学生に負担を求めていました。
 その学生負担は私が当選した時にも継続されていました。いろいろな負担があったと思いますが、いまは思い出せません。ただそのシンボルとして印象に残っているのは「ピアノ使用料」でした。
 私は一般質問で学生負担について取り上げ、ピアノ使用料などの廃止を求めました。これはすぐに実行されました。
 後日、市の職員から「交付税が来るようになったときに廃止すべきだった。うっかりした」と打ち明けられました。率直な打ち明け話に感心したものでした。

残った市民会館使用料
 ところが残った問題がありました。当時の市民会館の使用料です。都留大の管弦楽団などが市民会館をよく使っていましたが、そのたびに使用料を徴収していました。このことで、私は当時の富山市長と直談判しました。
 私は市長との直談判は基本的には「しない」と決めていました。「慣れ合い」を恐れたからです。その後も市長との直談判はおそらく1人の市長と2〜3回だったはずです。
 しかし、市民会館使用料は「ピアノ使用料」問題を取り上げた後に残った課題で、同じような質問をするのはあまりスマートではありません。ということで市長室での直談判に及びました。

ヒザを打った富山市長
 私は「大学に音楽ホールがないから市民会館を使うのであって、音楽ホールがあれば当然使用料は取らないのではないか」と訴えました。このときの富山市長の対応は忘れられません。隣室の庶務課長を呼び「小林議員の言うとおりだ。学生から使用料を徴収するのは止めよう」と指示したのです。
 市長の指示は、規則などの改正が面倒だったのか、一旦使用料を徴収し年度末に返還するという方式で実現しました。しかし、このときの富山市長の対応は、私の眼には教育者としての見識と「納得すれば実行」する姿勢の象徴と写り、強く記憶に残りました。