40年をふりかえる(4)
時代がやらせた仕事たち…医療
高校生のころ、勉強のできる同級生と親しくなりました。その同級生から教わった言葉があります。「思い出の楽天性」です。説明されたのは「思い出は自分に都合のいい事だけが記憶として残る」でした。
言いたかったのは、私の「40年をふりかえる」も都合の悪いことは忘れているだろうということです。この連載は事実ではあってもしっかりした調査に基づいた史実ではなく、私の「思い出話」だということです。とくにそう断らざるを得ないのは40年という年月が古い話にしてしまっているからです。よく調べれば厳密な事実になるのでしょうが、いまはその時間がありません。
休日・夜間の救急医療体制
私の初当選のころ、新聞に「都留市で救急患者たらいまわし」という記事がしばしば載りました。私は一般質問でこれを取り上げました。答弁の内容は記憶にありませんが、その後対策会議が開かれました。
多分、国保運営協議会の委員や医師会代表、議会代表などで構成されたと思います。私も出席を求められました。会議が始まると、出席者が「先生方はなぜ救急患者を診てくれないのですか」と問いかけ、医師会の代表が「私たちも高齢ですから…」などと答えるやり取りがありました。
そのあと、市の職員が休日と夜間の救急診療に従事した場合の報酬の説明をしました。結果的にこの説明が医師会の先生方の気持ちを動かしたようです。医師会には、通常の診療に上乗せされる報酬についての認識がなかったのかもしれません。まもなく救急医療体制ができ、「たらい回し」の記事は見られなくなりました。
医師会の病院建設反対の理由
一応の救急医療体制ができ、1980(昭和55)年には市立の診療所が開業しましたが、安定した地域医療体制のためには市立病院を建設し、その中心的役割を果たさせることが求められていました。
高部市長が現在の位置に市立病院を建設することを決め、ある課長から土地の買収について協力を求められました。この経過についても逸話がありますが省略します。
驚いたのは医師会が市立病院建設に反対していると聞いたことでした。今では13科140床になっていますが、計画されたときの内科・外科で60床という規模は公立病院としては最低の規模で、医師会が反対するようなものではありません。しかし、調べて分かったのは市の一部幹部がある団体に運営を委託しようとしていたことでした。
私は医師会長に議会傍聴を要請し、一般質問で取り上げました。「これまで頼りっきりだった開業医の経営を脅かすような仕打ちをしていいのか」と追及しました。結局運営委託は白紙になり、医師会の「市立病院建設反対」は取り下げられました。
市立病院は都倉市長の時代に入って1988(昭和63)年末に着工、1990(平成2)年4月に開業しましたが、当時の会長さんをはじめ、医師会の幹部はみな亡くなってしまいました。時の流れを感じます。