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40年をふりかえる(3)

共産党と都留市議会の「すごさ」

 新人+返り咲きの集まりでは特にテーマを決めて勉強をした記憶はありません。そのときどきの市政の課題や時事問題などを話し合っていたようです。雑談に近かったと思いますが、いま考えればそれが結束を固めるのに必要なことだったのでしょう。

私に意見を求めるわけ
 同期の最年長議員は私の父と同い歳と聞いていましたから、話し合いのなかで私の役割は「聞き役」でした。というより、私など出る幕なしというのが実際だったと思います。そして本当に色々学びました。
 ところが、話が佳境に入ったり結論に近づいたりすると、「小林さんはどう思う?」と私に御鉢(おはち)が回ってくるのです。なぜでしょうか。私が感じたのは私以外の議員が、みな戦前の世代だということです。私の次に若い議員でも47歳、15歳も年長でした。共産党が命がけで戦争に反対したことを知っていて共産党に一目置く人たちなのです。
 年配の議員たちは小林にではなく、共産党議員に意見を求めていたのです。私が「日本共産党はすごい」と実感した場面でした。

まさか、私が新人の代表?
 1期の任期中、市長が富山節三氏から高部通正氏に変わりました。高部氏が「市立病院建設」を公約に掲げ、富山氏の「東京衛生病院誘致」に勝ったのです。このとき、議会の多くは富山氏支持でした。富山市長はすでに権現原(ごんげんばら=現在は市・県営住宅)に用地を購入してありました。このため議会は高部市長と激しく対立しました。しかし論議は深まらず、事態打開のために議会代表と市長の話し合いを持つことになりました。
 このとき驚いたのは5人の代表を当選回数別に選び、さらに、9人の1期生が私を代表に選んだことでした。私を選んだ理由も「共産党だから」だったのでしょうか。このとき、私は都留市議会の民主主義のレベルの高さに驚きました。

病院誘致事業が反故に
 市長との話し合いは食事の席で行われました。高部市長は5人の議員にお酌をして回りました。他の議員は市長に東京衛生病院に話し合いに行くよう求めていました。私は「市立病院建設」でもいいと思っていたので、酒を受けながら「行けばいいじゃないですか」と言いました。市長は私の顔をじっと見て「行けばいいのかね」と聞き返しました。その後間もなく、高部市長は東京衛生病院に行き、誘致の件を反故(ほご)にしました。
 この結果を受けた全員協議会では高部市長を糾弾しようという意見が相次ぎました。私は発言を求め「代表として責任を感じる。話し合いに行くよう求めたが、誘致の話をまとめてくるようにとは要求しなかった」と言いました。すかさず、ある古参議員が「義孝議員の言うとおりだ。私たちの責任だ」と発言しました。「東京衛生病院誘致」がすべて終わった瞬間でした。議会も落とし所を探っていたのかもしれません。私はそのための「出し」に使われたのかも…。もしそうならすごい議会ですが、事実はどうでしょう。