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40年をふりかえる(2)

新人が多かった議会

 初立候補当時、私は国鉄労働組合大月駅分会の役員に選ばれていました。また、先週も書きましたが、党郡内地区委員会の非専従の常任委員も勤めていました。地域との付き合いもいきおい大月市が中心で、都留市のことはよく知りませんでした。ましてや急な立候補でほかの候補者のことなどほとんど知らないまま選挙に臨んだのでした。
 定数22に対して24人が立候補し、私を含む新人9人は全員当選しました。立派な街頭演説をしていた現職議員が落選したのに驚き、選挙の難しさを痛感しました。

議長選挙を「勉強」する
 当選してすぐ、同期の議員から「勉強会を立ち上げるが入らないか」と誘われ、断る理由もないので入りました。新人全員に返り咲きで5期目のW議員が加わり10人の会ができました。しかし、それは議長選、副議長選対策の集まりだったことをあとで知りました。そして、議会の派閥はほとんど議会人事が中心課題であることが分かりました。
 臨時議会が開かれ、最初の議長選は誰からも声がかからなかったので考える必要もなく自ら立候補しました。しかし、しっかり根回しがされており、3期目の議員が21票、私は1票でした。問題はそのあとの副議長選で、私を含む10人の会から最年長の新人議員が立候補しました。定数22のうちの10人ですから、当然勝てないと思っていたら、なんと半数の11票を獲得しました。くじ引きで敗れましたが、古参の議員の中では「誰が寝返ったか」と話題になったようです。
 この新人+返り咲きの集まりは、返り咲き議員が議長になって、2年余りで解散になったように記憶していますが、私を除く9人全員が他界した今となっては確認のしようもありません。

協定書のもたらしたもの
 翌年6月、返り咲き議員から議長選に立ちたいので応援してもらいたいと要請がありました。私は党機関と相談し、「協定書に署名すれば応援しよう」と答えました。内容は簡単で、議長は(1)公費で飲み食いをしない(2)議会を民主的に運営する(3)候補者はW議員とする、これだけです。
 ところが、W議員がこれまで後輩の議員に先を越されて議長になれなかったのは何か武勇伝があったからのようで、私が議長選で応援すると聞いたI課長から「世間は、小林議員は脅されたんじゃないかと思うのでは」と忠告されました。私は協定書を示し「あいまいな形では応援しません」と答えました。
 しかし、この年、W議員は根回しに失敗して議長選の日に欠席してしまいました。私は「公党と協定を結んでおきながら負けそうだから休むとはどういうことか」と詰問しました。W議員は「息子の手術の日と重なり女親がいないから付き添わなければならなくて…」と釈明をしました。
 翌年、協定書を再確認してW議員は議長になりました。W議員はこのとき全会一致になったのがよほど嬉しかったようで、6年後、すでに引退していましたが、私の補欠選挙に駆けつけて挨拶をしてくれました。