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古希を迎えた機会に

思い切り甘えていいじゃないか

 今年1月24日、満70歳を迎えました。
 この4月には71歳になった同級生もいて今更という気もしますが、この機会に記念碑的に「思い」を書いておきます。これは東日本大震災を経て強まった「思い」です。引き金を引いたのはNHKドラマです。

「絆」を言葉だけにさせない
 このドラマは3月27日「ラジオ」です。主人公は「女川さいがいFM」に参加した女子高生「某ちゃん」です。見た人も多いのではないでしょうか。
 このドラマで、東京の団体が「ガレキ受け入れ反対」の宣伝をしている場面がありました。子どもの放射能汚染を心配する人たちの運動です。主人公と関わりのある人と、この宣伝をしている人のやりとりで聞き捨てならない言葉が飛び出しました。「被災者はいつまでも甘えるな…」
 脚本を書いた人の、この場面についての気持ちは分かりません。まさか被災地の人と被災地でない人たちとの対立をあおるつもりはないでしょう。大震災を風化させないための場面かもしれません。あるいは「原発」を登場させるためだったとも思われます。いずれにしても、まちがいなくこういう声があると思っているのでしょう。こうしたズバリの表現には初めて出会いました。
 「被災者は甘えてはいけないのか」 もちろん「否」です。
 一昨年末の「今年の漢字」は「絆」ではなかったのか。「絆」とは、頼り頼られる関係を認めることではないのか。「甘えるな」という言葉はその対極にあるのではないか。
 何度でも書きますが、憲法25条には「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障、及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあります。
 憲法は国に対する命令であって、国は健康で文化的な生活を保障する責任があります。ましてや被災して生活の土台をめちゃめちゃにされた被災者が、頼れるのは行政しかありません。「絆」以前の問題です。
 被災地を見た人が必ず口にする言葉は「復旧の遅れ」です。国が責任を果たしていないのです。

甘えっぱなしの人生
 70歳になった機会に振り返れば、私の人生は甘えを絵にかいたような人生でした。そもそもこの世に生まれたのが自分の意志ではありませんでした(笑)。以来、自分の意志で物事を決めた憶えがありません。なんでもまわりの人のいいなりでした。そしてそれはそう間違っていませんでした。つまらない意地を張らず、周囲に頼る、頼れば助けてくれるのが世間です。
 日本の政治は国民が頼らないから助けてくれないのかもしれません。賢い(ずるい)大企業は十二分に政治に頼っています。
 と思っているところで「人を見捨てない国、スウェーデン」(三瓶恵子著)という本に出会いました。徹底的に国民を支援する国があるのです。読んだら報告します。