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2度目の被災地支援A
宮城県山元町のこと
私が山元町(やまもとちょう)のことを知ったのは昨年11月末、わずか5カ月前のことで、全日本民主医療機関連合会(民意連)発行の「被災者に寄り添う医療 震災最前線の絆」という本によってでした。
この本の山元町についての記述で、被災直後の状況について思い浮かべていただけると思います。
被災直後、私たちが心配したのはテレビに映らない被災地、被災者のことでした。
「連絡の取れない少数の人たちがいないだろうか。その人たちが心細い思いをしていないだろうか。腹をすかしてないだろうか」
そんな思いが胸を去来しました。そして本当にそんな町があったのです。
東日本大震災の中で、町民の4・6%、660人以上が死亡した山元町は、宮城県最南端に位置する。
太平洋に面したこの地域は周りに山や大きな建物はない。そして、大津波に飲み込まれて壊滅状態になったことすら、当初は知られず、したがって支援隊もほとんど入らずの状態が続いていた。
支援が遅れた町
冒頭のこの部分を読んで「東日本大震災復興支援地図」(昭文社)を見てみました。この文章のとおり、山元町の南は福島県の新地町(しんちまち)、北は亘理町(わたりちょう)です。さらにその北は岩沼市で、岩沼市の最北は名取市と接し、そこに仙台空港があります。山元町の西は角田市ですが、その間には標高200メートルから300メートルの山並みが横たわっています。市と町を結ぶ道路は2年ほど前に建設されたという角田山元トンネルの県道272号線です。
支援隊は都市部から周辺の町村に入らざるを得ません。その常識と山元町の地理的条件が「支援隊もほとんど入らず」という悲劇を生んだと思われます。
亘理町はイチゴの産地で農村風景が広がります。岩沼市から入った(おそらく県外からの)支援隊はその奥にもう一つ町があることに気がつかなかったのではないでしょうか。
住むか壊すか…一年たっても
除草の手伝いをした家から見える範囲で二つの現実がありました。
上の写真は立派な家でした。しかし、誰も住んでいません。下の写真は私たちが到着した日に壊し始めました。そう古くない品の良い平屋建てです。住むか壊すか、判断に苦しむ人たちがいることを知りました。業者も足りないそうです。