みのかんの銀塩カメラ研究室ちいさな一人旅>北信濃、栄村、横倉月岡周辺

こんなとこ行ってみました。

北信濃、栄村、横倉近辺
津南町、上郷地区
北信濃、栄村、横倉、月岡周辺
少しの時間があったら出かけてみよう。
近くでも心はいつでも旅人でいよう。
僕の町から車でほんの15分。県境の橋を渡るとなんとそこは長野県。これくらいの距離でも人間性や土地柄が変わったのを感じるのは何故だろう。
日曜日の朝、なんとなく足を伸ばしてみた。
持っていったカメラはプロビアの36枚撮りをつめた、京セラのサムライZ1台だけ。ハ−フ判なのでフィルムも一本だけである。



栄村中学に行く途中の陸橋の上である。この下をとおる列車は飯山線である。
何故こんな網がかかっているのかというと、ここは雪国といえば分かっていただけると思う。
雪が積もると両側から雪崩れとなり線路をふさいでしまうためである。





林の中に黄色の花を発見!
と思いきや、花ではなく枯れかかった葉であった。暖かいとはいえ確実に冬は近づきつつある。




この坂は「学びの坂」という名前がついている。
学びの〜などという名前は懐かしい響きをもつ言い方である。
思わずペギ−葉山の「学生時代」という歌を思い出す。
ちなみに僕はもっともっと若い世代です。誤解のないように。




学びの坂の途中に1輪の花がぽつりとさびしそうに咲いていた。むくげという花であろう。
まさに紅1輪である。




この「学びの坂を登りきったところに栄中学がある。
坂の上に学校があるなんていうのはロマンチックですよね。
でも、体育の授業でマラソンなんてことがあったりすると、この最後の坂はかなりきついですよね。



国道117号線をしばらく走ると、軍人の慰霊碑がありました。お国のために死んで慰霊碑が建てられても、家族は少しもうれしくなかったでしょう。ましてや亡くなった人にとっては。
田舎のことわざに「死んだ者の死に貧乏」というのがあります。結局亡くなった人が損をして、あとはあとでなんとかやっていくという意味です。




さて、萱葺きの上にトタンをかぶせた民家を発見。
こういう姿の家はこのあたりに多い。
本来は萱葺きであればいいのでしょうが、そうもいかない事情があります。屋根のかやをふきかえする職人がいなくなってきているのです。
仮に職人がいたとしても、費用がかかりすぎて、とてもできないという事情もあります。
家の中で火を焚かなくなると、萱葺き屋根は腐ってくる。石油スト−ブが普及してじろばたに火を入れなくなったのと関係してきます。薪の調達も難しいです。これも時代の流れでしょう。


国道端を見ると、里芋畑があちこちに見える。
こんななんでもない光景に幸せを感じてしまう。
というのは、名前のとおり、里にしか作れない芋なのである。寒冷地では作れない。
廃村になった村にはこの里芋は無い。あるのは山芋である。
人が住みつき、村が出来る。こんな当たり前のことさえ田舎では難しくなってきている。


栄村の青倉という集落のトンネルの入り口である。
ここに立っていると車が通過するとき、ゴ−ッとうるさい音がする。
このトンネルと新しい橋のおかげで道路事情はよくなった。反面、単に通過する村に変わってしまったことも考えなければならない。
商店街があと20年たつと無くなることは誰の目にもあきらか。車社会のなせる技である。




ケヤキの木だろうか?枯れ枝が一本ぶら下がっている。何故こんなところを撮影したかというと、不思議なのである。
こんな大きな枝が折れることがである。人間が上れるはずもないし、雪の重みで折れたのだろうか?



橋の上から北側を望むと橋がみえる。緑の中に赤い橋。これは絵になる。
しかし手前の電線が邪魔である。写真を撮るときにいつも思うことであるが、日本という国は効率重視で景観ということはまったく考えていない。
新潟県、柏崎市の原発は東京のために作られた発電所である。鉄塔は1基一億円という話しをきいた。
原発が安全ならばどうして東京近辺に発電所を作らないのかといいたくなる。
この原発の送電線と鉄塔も景観の邪魔である。絵ならば書かなければいいのだが、写真はそうはいかない。



橋の上でカメラを構えていると、ちょうどよいところに列車が通過。飯山線は1日に何本も通らないので、これはめったにないチャンスである。
このあとは多分2時間以上待たないとこの線路を列車が通過することはないだろう。


列車が走り去った後、そのむこうを見ると、雄大な千曲川が流れている。ここから2〜3Kmも下ると、県境の橋の下から向こうは信濃川と名前が変わる。
小学生の頃、社会の授業で「日本で一番長い川は信濃川です」と教えられて自慢に思ったことがある。しかしその誇りは、あるとき傷つけられた。
本当は千曲川の長さを合算した長さだったのである。



ここは、JR飯山線横倉駅である。飯山線はほとんどの駅が無人駅である。ではどうやって切符を買うのかというと、何の事は無い、ワンマンバスと一緒で、車両に乗り込んだら整理券を取り、降りるときに清算する。
無人駅は寂しいものである。かつてはここにいくつかのドラマが存在していたはずである。そして人がいなくなった後の駅は、ことのほか情緒があった。しかし、今は永久に寂しい。



横倉集落郊外?にある公園脇のグランド。草取りをする人もいないらしく、グランド内では除草剤をまいたあとがある。
ここでたまには運動会やゲ−トボ−ル大会が行われるのだろうか。
丸太のベンチが妙に寂しい。


ここから下は千曲川が流れている。
なんか一句できそうな千曲川のほとり。

秋の日に  止まる景色や  千曲川

失礼。


人は誰もいないのに、この花だけはにぎやかに咲いていた。

「そろそろ寒くなったね」
「うん、私達ももう枯れてしまうね」
「早く種をつけなくちゃ」

そんな声が聞こえてきそうである。



ここも公園である。
草取りや整備は老人会の人たちがするのだろうか?
日曜日のお昼近くなのに、人は誰もいない。
どこかでお昼を買ってきてここで食べようかとふと思う。
でもコンビニまではまだ遠い。



とある村のはずれでナチスのかぎ十字を発見。
これはいわゆるお堂であろう。
昔の葬儀用具が保管してあるに違いない。
このお堂も元は萱葺き屋根だったと思う。そのままなら情緒はあるのだが、時代はそれを許さない。

野仏を発見。
また一句でてくる。

秋草の  なかで語らう  地蔵かな

ご粗末!!



いかにも信州らしいのどかな光景。
などと言っていられるのは、僕がよそものだからで、実際には、稲刈りで忙しい。今日じゅうにあそことあそこの田んぼを刈って、はぜにかけないと、、、などと考えているのだろう。



留守にしていますという黒板。
東京なら、泥棒さんに入ってくださいと言っているようなもの。
のんびりしていていいですよねぇ。




鉄道の貨物を利用した物置。
これは便利だろうなぁ。
赤錆がまわりの緑と妙にマッチしている。


トンネルである。
そう、言わなくても見れば分かりますよね。
問題は、この線路である。
昔、まだ国鉄だった頃、汽車のトイレは、この線路上にたれ流しだったのである。だから線路上を歩くと、うんこやおしっこが落ちていたのです。
今考えると、とても信じられませんよね。


だどたどしい文字のポスタ−。
文字を書けるということは小学一年生くらいかな?
この子供たちが、大人になって東京に住んだとき、都会のあかずの踏み切りの前で、このポスタ−を書いたことを思い出して欲しいと思う。
人は何かを捨てることで大人になっていくものである。たとえそれが大切なものであっても、捨てなければ大人になれないのである。
君達の未来に幸いあれと祈る。




山菜取り禁止と入山禁止の立て札。
山菜取りが禁止になるのは無理もない。
畑のものでも関係無しに盗んでいく人が多いからである。
採るだけ採って、置いていくのはゴミばかり。



朝顔のつるがからまり、電線に伸びている。
ここまでびっしりと付いていると情緒がない。

昔、千利休が豊臣秀吉に朝顔を見せるとき、1輪だけ残してあとはみんな摘んでしまったという話しがある。

しかし朝顔にしてみたらたまったものではない。人間に鑑賞されるために咲いているのではない。
これは自然の摂理。
来年にそなえて、子作り、種作りである。



これまたびっしりとつるのからまった住宅と車庫である。
西洋の石作りの建物ならいいのだが、日本の木で作られた家にはあまりよくないと、ある建築家から聞いたことがある。
しっかし、、ここまで絡まっていると、お見事!



線路脇の住宅。壁は板張り、屋根の下は壁塗りの漆喰。
一昔前は当たり前だった、こういう家の作りも今は珍しくなってきた。
ましてや萱葺きの家などは、僕の子供たちの年代から見れば江戸時代なのかもしれない。
昭和は遠くなりにけりってとこか、、、。


農協の倉庫。
建築当事はモダンであったろうこの建物も時代の波にさらされて、なんとなく懐かしい風景のカテゴリ−に入った。

この感じからすると、収穫の米の一時保管なのであろう。






農協倉庫の脇を観察してみると、この建物、鉄筋コンクリ−トではなく、木造モルタル塗りであることが分かる。

人に歴史あり、建物に歴史ありである。



蔵を発見。といっても田舎ではそこらじゅうにあるのだが、手前にはぜがかかっているので、これは絵になる。

ここだけを切り取ったので、20年前の写真といっても通用しそうであるが、実はその横には近代的な住宅が建っていたりする(笑)。


これまたなつかしい学校の校舎である。今は共同の農作業場になっているみたいである。

こういう校舎を見ると、なぜか「どうとく」とひらがなで書かれた表紙の教科書を思い出す。
その表紙には、一昔前のイラストが書いてあり、沢山ある教科書の中で、いつまでたってもその教科書だけ新しいのである。算数や国語はぼろぼろなのにね。




これも農業の作業所。
稲が干してある横の作業場の中では、稲の乾燥機の音が聞こえていたりするのです。
新旧織り交ぜて秋の風物。


コンバインで刈り取る光景です。
昔、僕の母が若いとき、腰を曲げ、稲刈りで苦労しながら、この稲が籾になって出てきたらどんなに楽だろうと考えたことがあるそうです。そしたらその2年後には、バインダ−が登場し、その後すぐにコンバインが登場したそうです。
日本の農業の近代化はバタバタと進んだようですが、同時に農作業で子供たちが手伝う仕事がなくなりました。これはいいこなのかどうか考えてしまいます。


おっ!ついに発見。
萱葺きにトタンをかける普請である。
このまま萱葺きでいて欲しいと思うのは、都会に住む人のエゴイズムです。
この家に住んでいる人はきっと言うでしょう。
「だったらお金を出してください」と。
萱葺きを維持するということはお金がかかることなのです。



こちらは萱葺きトタンがけの完成図です。上の写真も雪が降る前にはこうなります。

さて、その手前のコンバインによる刈り取り、もう少しで終りますが、朝早く始めたのかと思いきや、刈り取った後の藁を見てください。青いところが少ないですよね。つまり昨日の刈り残しを今朝始めたということです。経験者はそういうところをよく見ています。


さて、この旅も終りです。この写真は稲ではありません。これが「粟」というものです。

このあたりは写真を撮るにはいいところです。一昔前の風景がそのまま残っています。

僕の写真撮影のフィ−ルドの中では大事な場所です。北信濃、新潟との県境の栄村。横倉、月岡集落の近辺でした。
機会があれば寄ってみてください。ただしコンビニはありません、ご注意を(笑)。