みのかんの銀塩カメラ研究室ちいさな一人旅>津南町、上郷地区

こんなとこ行ってみました

北信濃、栄村、横倉近辺
津南町上郷地区
津南町、上郷地区(羽倉寺石)
少しの時間があったら出かけてみよう。
近くでも心はいつでも旅人でいよう。


十日町から小千谷地区にかけての震災にあわれた皆様方には心よりお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。
せめて今年の冬は積雪の少ないことを願ってやみません。

 僕は時々カメラを持ってぶらりと出掛ける。カメラを持つと僕の目は旅行者の眼となる。
 昨年度は市町村合併と災害で明け暮れた年であった 。同じ文化と生活圏をもつ栄村、津南町、中里村、川西町、松之山町、松代町、十日町市はあらたに3つに分断された。しかしこの7市町村は 、豪雪の中で秋の野沢菜と春の木の芽を食すという点ではまったく共通している。道は続いている。川も途切れることはなく流れている。しかし人間だけが、そこに境界線を引こうとする 。世界中の人々がこの境界線のためにどれだけ争ってきたのだろう。
  今回 、そんな思いを抱いて、津南町の上郷地区を歩いてみた。ご存知のように、上郷地区は長野県と新潟県の県境である。
  いつものことであるが、どのカメラを使うかで迷ったが、16年前に発売された異色のハ−フ判カメラ、京セラ サムライ 4倍ズ−ムを持ち出した。
この標識の向こうは新潟県 。こちらは長野県である 。わずか一歩で両県をまたにかけてたたずむことができる。
行政がどんなに仕切ろうとも 、人の心は仕切ることができない。
ここでは豪雪という悪条件の中で共に助け合いながら生きてきた二つの村には事実上の県境はない。
この橋を渡りきると新潟県。渡らなければ長野県である。
そこでちょっと疑問が生まれてくる。この橋はどちらの県に属するのだろう?
この端の下を流れる川の名前は、右手が千曲川、左が信濃川となる。
この川に棲息する魚たちにも県境はあるのだろうか(笑)。
この石碑が、新潟県と長野県の境界石である。
2年前、信州秋山郷の子供が、新潟県の津南高校にどうして入学できないのかと長野県知事に陳情した。田中知事はすぐにその問題を解決してくれたそうであるが、まったく行政というものは面倒なものである。
大根畑である。すっかり大根の取り入れも終わり、ぐったりとした大根菜が打ち捨てられている。昔なら家畜の餌にするため大事に持ち帰ったのであろうが、今ではウサギや牛馬を飼う家はほとんどない。
ここにきてリサイクルとかスロ−ライフなどという言葉が注目されているが、昔はそんなことは当たり前のことであった。
お金がなくても生活できるシステムは、高度経済成長の中で捨てられてきた。
今の時代、先人の培ってきた生活システムを見直さなければならない時期が来ていると思う。
かつて人々の夢と希望と挫折を載せて走り続けてきた飯山線は、今は静かな時の流れに身を任せている。
昭和40年代後半であろうか?集団就職という言葉が存在した。この飯山線に揺られて、どれだけの若者が都会に出ていったのだろう。
それは本当に希望であったのだろうか。
働いてお金を稼いでふるさとに錦を飾る。みんながそんなふうに夢を見ていたのだろうか。何が本当の幸せなのだろう。田舎と都会という選択肢の中で僕は田舎を選び帰ってきた。
これから巣立つ若者たちもこの選択を迫られることになるのだろう。しかし、どちらが正しいかは本人の心の中にしかない。
飯山線、寺石地区の踏切である。この遮断機は一日何回下りるのだろうか。
ひとつひとつの踏み切りに名前がついているのをご存知だろうか。僕は初めてそのことに気がついた。当たり前のことではあるが、歩いて見なければ気がつかないことが沢山ある。
井上陽水の古い歌に「あかずの踏み切り」というものがある。僕は遮断機が下りている踏み切りで待たされるたびに、いつもこの歌を思い出す。
田舎にはあかずの踏み切りなんてものは存在しないが、待っている時間というものは不思議と過去の時間がよみがえってくる。
踏み切りを通り過ぎると、大根つぐらを一生懸命作っている人に出会い、この地区のことや農業のことなど、いろいろとお話を伺った。
「勤めているときには忙しくてわからなかったけど、こうやって定年になってみると、昔の人のやってきたことがいかに大切なことか実感としてわかるよ」と話してくれた。
大根は3月くらいまでなら、ナイロン製品でも保存する事ができるが、この大根つぐらは5月の連休明けまで、保存することができるそうである。
「昔の人の生活の知恵はたいしたものだよ」と何度もうなずいていた。
この作業場の中を覗くと、屋根裏には藁が沢山積んであった。右側には丹波の黒豆が干してある。
間口は5間もあろうという広い作業場である。若手の車も含めて4台も車があるので、冬期間は車庫として利用しているとの事。ただし、この作業場、シャッタ−などというものはない。盗んでいくようなものは何もないから心配はいらないのだそうである。
「写真なんて撮んなて!しょうしいっけに」と嫌がるのを無理に撮影させていただいた。
お忙しい中、30分も付き合っていただき、本当にありがとうございました。
切り干し大根が干してあった。この地方では何のこともない光景であるが、カメラを持って歩いてみると、まったく違う視点でとらえてしまうから不思議である。
この大根を干した人は、おばあさんと嫁さんのどっちかな?とか、昔はお店をやっていたんだなぁとか、ファインダ−を通してみるといろいろと疑問がでてくる。
今の時代、切り干し大根もス−パ−へ行けば買える時代になったが、やわらかさと栄養価の高さでは、やはり自家製に軍配が上がる。
こんな当たり前の写真が、将来貴重な写真にならないことを祈るばかりである。
軒先に干されている白菜である。今年は秋野菜が高騰していると聞くが、この地方ではそんなことはまったく関係がない。白菜、大根、キャベツなどは春までにはいくつか腐ることを前提に、沢山貯蔵する。
野菜の貯蔵と、雪囲いの作業が終われば、あとは初雪を待つばかりである。
淺川マキの古い歌に「不思議な橋」というものがあった。この橋を渡った人は帰らないという歌である。記憶があいまいではあるけど、出征の兵隊を見送るという、反戦をテ−マにした歌であったと思う。赤い橋を見ると、その歌を思い出す。
橋は人と人とをつなぐものであると同時に人と人とを隔てるものでもある。これもまた境界線の役割を果たすわけでもある。
橋を渡っていろいろと便利な文化が入ってきて、そして新しい文化を知る事で、若者が村から出いった。
できればこの道をまっすぐに行き、穴山集落に向かうつもりだったが、災害のために通行止めであった。津南町は台風も地震も一部を除き被害が少なかったが、十日町から小千谷地区にかけての震災は僕の予想をはるかに超えていた。今までは、雪は沢山降るけど、台風も来ないし地震もないので、この辺はいいところだと自慢していたことが見事に裏切られた。

最後に、十日町から小千谷地区にかけての震災にあわれた皆様方には心よりお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。
せめて今年の冬は積雪の少ないことを願ってやみません。

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