旅立ち Abreise
 1990年2月21日


出発前 エーリッヒ・ホーネッカーに逮捕状が出たりとか、外から見ているとなかなか緊迫した状況の中・・・
成田にて 軍事施設みたいな異様な雰囲気・・・
ドイツに着くまで なんですかこの配線処理は。小学生の電気工作・・・

出発前

 というわけで、たいした準備もせずに出発となりました。折しもドイツ民主共和国国家評議会議長を解任されたばかりのエーリッヒ・ホーネッカーに逮捕状が出たりとか、外から見ているとなかなか緊迫した状況の中、あんまりのんきなのではないかと我ながら思いましたが。
 一応、東京の東ドイツ大使館ものぞいてみたものの、入国方法について担当の女性は無愛想な声で「今までと変わりありません」とけんもほろろに繰り返すばかりで、まったくとりつく島もありません。 えい、ままよ。行ってみりゃなんとかなるだろ。 

成田にて

 とりあえず出国するにはここから飛行機に乗らねばなりません。まだ成田エクスプレスなんてこじゃれた名前の列車はなかったので、ふつうに総武線の成田行きに乗り、成田からはこれまたふつうの路線バスで空港まで向かいました。
 しかし成田周辺って、国際空港があるとは思えんような田舎なのですね。東京から遠ざかるごとにだんだん家並みが途絶えてきて、本当にこのルートでよいのかと不安になりました。
 ようやく空港が見えてきたと思ったら、今度はゲートのえらく手前でいったんバスを降りろという。手荷物検査をやるんですと。いきなりきな臭い。当時私はひげづらで、荷物の中にも甘納豆(なぜか母親が持って行けというのだ)など変なものが満載されていたので、大変緊張しました。周りには金網で窓を覆った警備車や、ジュラルミンの盾を構えた機動隊員の皆さんが並んでいて、軍事施設みたいな異様な雰囲気。空港ってどこもこんなですか?わたしはこのとき飛行機に乗るのは初めてだったのでわからなかったのですが、以後旅先のどこでもこんなものものしい警備の空港はありませんでした。東ドイツやソ連の空港だってこんなではなかった。成田が評判よくない理由の一つがここにあるのですね。

ドイツに着くまで

 何とか無事検問もすんで、空港構内に入りました。

イリューシン62型 これが私の乗った飛行機。尾翼近くに配置された4発ジェットエンジンが特徴的な、アエロフロートのイリューシン62型というやつ。航続距離が短いせいか、成田からドイツまで直接飛ばず、モスクワで1回着陸して給油する必要があるのです。
 成田から乗っていた客室乗務員は、スチュワーデスというより収容所の女看守ってなかんじの堂々たる体躯のおばさん。客をお尻で圧迫しながら狭い通路を移動しておられました。
 ところが、モスクワで便名がフランクフルト行きになるとふつうのお姉さんに交代いたしまして、ヨーロッパ行きだからって差別するなと言いたくなりました。
 モスクワ・シェレメチェボ空港で飛行機から降りて休憩しましたが、構内の照明がえらく暗くて、わびしさを感じさせました。さらには、こんなものまで・・・(次の写真)
温風乾燥機 さすがに大国の表玄関らしく、空港のトイレでは手を洗って温風乾燥もできるのです。
 だけどねえ、なんですかこの配線処理は。小学生の電気工作か。大国のやることは何でもおおらかね。さすがこのあと2年で崩壊するだけのことはあります。
 そういえば、写真を撮るのは忘れましたが、トイレの便座も半分くらいなくなっていたなあ。このあたりの事情は椎名誠「ロシアにおけるニタリノフの便座について」に詳しいけれど、あれでも国家が成り立つんだったら、僕らだってもう少しいい加減に生きても大丈夫か。
終わらない夕焼け 飛行機はひたすら西に向かって飛ぶので、いつまでも夕焼けが終わりません。太陽を追っかけているかたちです。従って、11時間以上と大変長時間飛行しているにもかかわらず、ドイツには日付が変わらないうちに到着するということになります。
 女看守はそのとき飛んでいる場所の現地時間にあわせ、次々とエサ(というにふさわしい機内食。または宇宙食か)を出してきます。食わされながらじっとがまん。なんだか毛布も一人一枚は用意されてない様子。おまけにふつうの航空会社では機内で飲むあらゆる飲み物がただなのに、アエロフロートではアルコール類については別料金を取られる。酒を食らってさっさと寝るつもりだったのに、だめね。
 そういえば、この便の座席は全部自由席でした。禁煙席も喫煙席もごっちゃごちゃ。なんだそりゃ。やはりおおらかというかいい加減だ。
機内食包み紙 機内「宇宙」食の包み紙。確かデザートとして出たお菓子だったと思いますが、ぼろぼろのパイ皮をキューブ状に固めたものだったと記憶しています。それにしてもこの絵は何を意味しているんでしょう。

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