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■憲法刷新論(論文) 2005/04/23〜
 
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 今回は、テーマを「憲法刷新論」として私の持論を述べさせていただきます。
 
 最近、政界で憲法改正論議が盛り上がっているのは、ご承知の通りです。改憲派・護憲派が互いに公的な場で論議している場面は、10年前なら有り得ないことでした。それまでは、憲法論議自体がキリシタン狩りの踏み絵のように扱われていました。少しでも憲法改正の意を臭わせれば、その政治家の首が飛びました。野党側によって飛ばされるのではなく、与党側の“自主規制”によって飛ばされるのです。
 まるでテレビ界における放送禁止用語のごとき扱いではありませんか。公式には「放送禁止用語」などというものは存在しない建前になっていますが、実際には不用意な発言をして“処分”される出演者は後を絶ちません。政界における憲法論議は、そういった種類のものでした。
 それにしても、これまで護憲派の方々は日本国憲法自体に改正規定(第96条)があるのに、よくも抜け抜けと『改正論議=悪行』として扱うことができたと思います。現行法に反する改正論議をするのが“悪行”なら、永久に法改正ができないではありませんか。
 たとえば、戦後の沖縄県ではアメリカ式の右側通行が当たり前でした。これを日本式の左側通行に改めようと論議すると、護憲派の常識に従えば「右側通行ルールが施行されている状態で左側通行ルールを検討するのは道路交通法違反だ!」などと糾弾されてしまいます。
 と言っても護憲派の方々は頭が悪いのではなく、単に政治的な利害で行動している人間がほとんどです。特に護憲派の幹部連中は、テレビなどで持論を展開するときに背後関係が丸見えになります。彼らが“何”を大切に思っているかは一目瞭然でしょう。
 紆余曲折はありましたが、憲法について互いに論議できるようになった平成の日本人は幸せです。それでもまだ、狂った踏み絵の残滓(ざんし)がゴミ箱の脇に落ちているのも事実です。これを拾い上げて正式に廃棄処分するのが、私たちの役目ではないでしょうか。
目次
  1. 自衛官が憲法草案を作成《1》
  2. 基地問題(軍民混合)《2》
  3. 日本国憲法・第9条《3》
  4. 新憲法の制定《4》
  5. 中曽根康弘・憲法改正試案《5》
  6. 必要な天皇勅語《6》
  1. 公務員の選定《7》
  2. 安全保障《8》
  3. 国民の権利《9》
  4. 行政《10》
  5. 小さな王様論《11》
  6. 選挙《12》

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●自衛官が憲法草案を作成《1》
 
 
 2005/1/20、社民党の田秀夫・大田昌秀の両参議院議員が、昨年10月に中谷防衛庁長官(当時)の依頼で自衛官(陸上自衛隊幕僚・吉田二等陸佐)が「憲法草案を作成した」として、この二等陸佐を自衛隊法違反(第61条・自衛隊員の政治的行為の禁止)の容疑で東京地検に告発した。この他にも全国の弁護士26人が、同容疑で中谷氏と2等陸佐を告発している。
 田議員らは憲法草案に“軍隊の設置”や“集団的自衛権の行使”を認める条項が含まれていたことについて「シビリアンコントロール(文民統制)に関わる問題」などと言って、ご立腹のようだ。まずは下記の文面を見ていただきたい。
 
────田英夫氏Webサイトより
 
 この憲法改正案には「自衛軍」の創設や集団的自衛権行使の明文化、特別裁判所(軍法会議)の設置、国民の国防義務など非常に危険な内容が含まれており、それがそのまま自民党改憲草案大綱に反映された。吉田二佐の行為は自衛隊法第61条で禁じられている自衛隊員の政治的行為に該当するものだ。
 ところが防衛庁は、シビリアンコントロール(文民統制)原則から逸脱したこの重大
な行為に対し、調査結果の発表を昨年のクリスマスイブの夜にわざわざぶつけて、国民
の注意をそらし、「口頭注意」という極めて軽微な措置で事態の収束を図ろうとした。
こうした制服組の暴走を阻止するために、刑事告発に踏み切る。
 
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dennews/chok21.htm
 
 田議員は、憲法草案に“軍隊の設置”や“集団的自衛権の行使”を認める条項が含まれていることを問題視し、それが故(ゆえ)に文民統制を乱すので自衛隊法違反である、と主張している。
 では、吉田二佐が憲法草案に“軍隊の設置”や“集団的自衛権の行使”を禁止する条項を盛り込んでいたら、はたして田議員らは告発していただろうか。
 彼らの告発が「自衛官が憲法草案に軍隊の設置を目論む条項を盛り込むなどケシカラン!」といった理論展開になっている以上、おそらく告発は無かっただろう。もし告発をすると言うなら、今回の告発の根拠が崩れてしまうからだ。
 どうやら田議員らは、文民統制の有無が、その統制内容とは無関係に決まることを知らないようだ。次の4通りの命令関係を比べていただきたい。
1.政治家「軍隊を設置しろ!」  → 自衛官「はい、分かりました」
2.政治家「軍隊を設置するな!」 → 自衛官「はい、分かりました」
3.自衛官「軍隊を設置しろ!」  → 政治家「はい、分かりました」
4.自衛官「軍隊を設置するな!」 → 政治家「はい、分かりました」
 この例では1.と2.が正常であり、3.と4.は許されざる状態と言える。重要なのは命令内容ではなく、命令方向である。
 こうなると田議員らの目的が何であるかは明らかである。文民統制その物ではなく、“軍隊の設置”や“集団的自衛権の行使”に主眼が置かれているのだ。文民統制云々(うんぬん)は、国民の意識を別方向に誘導するための疑似餌(デコイ)に過ぎない。

 公務員が法案作成事務に参加するのは、どこの省庁でも普通に行われていることである。それが最終的には閣議に掛けられて国会へ提出され、決議が行われる。最終的に法案を許可しているのは国会である。どこが問題なのだろうか。
 
“自衛官だから”?
 
 なぜ自衛官だけは、法案の作成事務を行ってはならないのだろうか。自衛官が法案作成事務を行ってはならないとする根拠は何だろうか。たとえば、警察官も山のような法案作成事務をこなしているが、あれも警察法違反に問われるのだろうか。
 法案は政府の運営方針その物である。政府の従業員である公務員が、政府の運営方針を練り上げることが“悪行”なのだろうか。
 
“憲法案だから”?
 
 法律案なら構わないが憲法案はダメ、という根拠は何だろうか。そんなものを示せるなら示していただきたい。
 
“軍隊の設置など危険思想だから”?
 
 軍隊なら今でも日本は持っているが・・・。どこの国でも何らかの武力で国民を威嚇し、何らかの利益で国民を誘惑することで社会を統制しているのだ。近隣諸国に対しても、これと同じ原理で関係性を維持している。
 田議員が非武装中立国家の鏡として崇(あが)め奉(たてまつ)る中米コスタリカでさえ、国民は警察や裁判所による武力と経済による利益で統制されている。また、他国がコスタリカを侵略しないのは「平和主義的な話し合いに応じたから」ではなく、コスタリカ以外の国から武力制裁を受けるためだ。なんのことはない、結局は武力に怯えているだけである。
 人口400万人のコスタリカの例を、人口1億2600万人、国内総生産500兆円の日本に当てはめる田議員の発想には付いていけない。一体全体どこの国が、こんな巨大な生活空間を武力で守ってくれるというのだ。日本を武力で守れるのは日本だけである。もし日本が非武装化したら、真っ先に近隣諸国の狩場となるだろう。こんなに美味しい宝島は他に無いのだから。
 

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◆基地問題(軍民混合)《2》
 
 
 前回の話に大田昌秀・前沖縄県知事が関わっているので、基地問題についても取り上げようと思う。

 昨今、米軍基地の配置について再編が検討されているが、どうやら日本社会の悪い癖が出ているようだ。米軍基地のような施設は、しはしば「迷惑施設」と呼ばれる。ゴミ処分場や原子力施設なども迷惑施設に含まれる。しかし、社会全体としては迷惑施設ではないのだ。それが迷惑施設に見えるのは現地だけである。
 これは身近なところでも、よく起こる現象である。ある会社で、全体の利益になる新規事業が計画されたとしよう。ところが、この利益事業は一つの部署に損失を負わせてしまい、しかも部署のトップが会社の役員になっていたりする。役員会では「総論賛成、各論反対」といった状態になる。この時の対処で社長の能力が決まると言っても過言ではない。
 凡庸な社長は、斜陽部署に配慮して利益事業に変更を加えてしまう。斜陽部署への利害調整を当該事業の内部で済ませようという魂胆だ。これは安易な逃避と言える。社長は自分が上手な利害調整を行ったと思い込んで満足し、利害調整を受けた斜陽部署のトップも満足する。
 ところが、この会社は利益事業を捨てたために衰退し、皮肉にも社長が守ろうとしていた斜陽部署ともども潰れるのだ。これを「同枠調整」と呼ぶことにする。同枠調整は無能社長のバロメーターとなる。社長が無能であればあるほど、余計な同枠調整を乱発して会社を衰退させる。
 これに対して優秀な社長は、決して利益事業を捨てない。では、損失を受ける斜陽部署はどうするのだろうか。無視して突き進むのだろうか。
 それはない。利益事業を残しつつ、斜陽部署には別枠で利害調整を行うのだ。最も簡単なのは現金をばら撒くことだが、これは一時しのぎの対症療法に過ぎず、根本的な問題解決にはならない。
 やるべきは斜陽部署を縮小・廃止し、人員を他の部署に移すことである。斜陽部署の人間が嫌っていた利益事業に関与させてもよい。これを「別枠調整」と呼ぶことにする。別枠調整は「各論反対」の部分を解決するとともに、「総論賛成」の部分を盛り上げて会社を発展させる効果を持っている。

 米軍基地についても同じことが言える。政府でも国会でも、沖縄県に米軍基地の75%が集中していることを理由に、米軍基地の本土移転について議論されている。極端な話だが、沖縄県と本土の人口比に応じて米軍基地を平等に配置するのが、彼らにとっての「本来あるべき姿」らしい。
 それなら各都道府県の人口比に応じて米軍基地を平等に配置してみるがよい。鳥取県には、莫大な税金を使って兵員数わずか200名の米軍基地が作られることになる。なんという非効率な陣形だろうか。なんの戦闘力も発揮できないではないか。これは典型的な同枠調整である。各都道府県の負担割合に配慮しすぎて全体の利益を損なっているのだ。
 米軍基地は、最も効率良く戦闘力を発揮できる陣形に配置しなければならない。これは自衛隊基地にも言えることだ。もちろん、それをやると現地に迷惑施設としての損失を負わせることになるが、決して安易な同枠調整を行ってはならない。最善の陣形を保ったままで、現地住民には別枠調整を行うべきである。とりあえずは迷惑料を払って住民に我慢してもらい、長期計画としては米軍基地の周囲から引っ越してもらう。もちろん、引越し費用などは充分に政府が補償しなければならない。

 そもそも米軍基地が迷惑施設と見られるようになったのは、航空機の墜落事故や米兵がプライベートで起こす事件などが原因である。これらを米兵の根性を叱るだけの精神論で片付けても、何の問題解決にもならない。よく見ると、ほとんどのトラブルは“軍民混合”が切っ掛けとなっていることが分かる。
 現在、沖縄県内の米軍基地は細切れとなり、計域全体に分散している。物理学の法則では、同じ体積の物体でも細かく切り分ければ切り分けるほど表面積が増えて外部との接触が多くなる。人間の集団でも同じことが言える。集団が細切れになるほど外部との接触が増えてトラブルの種が増える。
 沖縄県の米軍基地が現在のような陣形になったのは、土地収用の不徹底に原因がある。細切れの土地しか手に入らなかったのは、日本政府や沖縄県の収容担当者が地主に余計な配慮をしたためだ。つまり、担当者は同枠調整を行ったのだ。おかげで米兵は、わずか数キロ先にある基地に移動するために民間地域を横切らなければならない。航空機の空域・空路に関しても条件は同じである。
 全体の利益を損なわずに利害調整を行うには、何よりも“軍民混合”を解消すべきではないだろうか。まずは沖縄県下に分散している米軍基地を機能ごとに整理統合する。これで小さな米軍基地は消えるが、その代わり大きな米軍基地の周囲においては新たな用地収用が必要になる。
 また、米軍基地と民間地域を隔てる緩衝地域の設置を忘れてはならない。米軍基地の周囲は居住禁止地域に指定し、住民には引っ越してもらう。ただし、農作業くらいなら構わないが・・・。
1.迷惑料の支払い。
2.周辺住民の引越し。
3.そして、“軍民混合”の解消。
 これが基地問題を解決する唯一の方法である。
 

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◆日本国憲法・第9条《3》
 
 
 日本国憲法・第9条には思いっきり、分かりやすく、堂々と「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と書いている。それなのに、日本はアメリカに次いで世界第2位の戦力(予算規模?)を誇る自衛隊を持っている。第9条を素直に読めば明らかに憲法違反なのだが、それでも自衛隊は存在している。一体、なぜだろうか。
 この疑問に、改憲派も護憲派も誰も答えてはくれない。改憲派も護憲派も与党も野党も「合憲だ!」「いや、違憲だ!」と互いに罵倒し合うだけである。自民党や民主党は下手な解釈論を駆使してルールの隙間を縫っているに過ぎず、公明党は政権与党の立場にあるのでゴニョゴニョと口籠(くちごも)り、社民党や共産党などは自衛隊の解散や弱体化を狙っている。それどころか、世界中の軍隊が無くなれば平和になると本気で信じている方々さえ居る。
 それは絶対に無い。そんな理屈は10秒もあれば論破できる。
 
【軍縮のジレンマ】
 
 本当に世界中の政府が武装解除したら、この私が密かに強力な武器を大量製造して私設軍隊を結成し、世界征服戦争を始めよう。皆様の家族も親戚も、みんな私に支配されるのだ。誰も私に逆らうことはできない。
 
 世界中で私しか武器を持っていないのだから。
 
 ──以上。
 
 彼らが夢見る平和計画は談合と同じ発想なのだ。談合が成り立つ理由を知っているだろうか。民間業者と役人が一緒に悪巧みをして・・・というのは残念ながら不正解である。
 談合が成り立つのは、新規参入者が1人も現れないという保証があるからだ。たった1人でも談合に参加しない業者が現れて、他よりも安い値段を付ければ談合は破綻する。平和談合も、全人類60億人の中に、たった1人の武装論者が現れただけで破綻する。きっと、その人は世界征服に成功するだろう。自分以外に武器を持っている人間が居なければ、やり放題である。

 自衛隊が存在するのは、国民が「自衛隊は必要だ」と判断したからである。政府が“悪事”を働いて勝手に自衛隊を作ったわけではない。アメリカ軍の占領が終わった後、国民に選ばれた国会議員が多数決を行って「自衛隊法」を作り、その法律に従って自衛隊が設立された。しっかりと憲法に書いてある正式な会議(国会)で、日本国憲法・第9条に矛盾するような法律が作られたのだ。
 このような状況についてルール馬鹿の方々は何も説明できない。何も対処できない。彼らはルールだけが大事で、ルールのために生きているような人間である。改憲派や護憲派の方々にも次のような特徴が見られる。
 
〈改憲派〉
 たとえ生きるためにルール違反を犯しても「これはルール違反ではなく、認められた行為であり・・・(ゴニョゴニヨ)」と屁理屈をこね回す。根っからのルール馬鹿ではないが、他人からルール違反を指摘されることに必要以上に恐怖を感じる傾向がある。「世間体型ルール馬鹿」とでも呼べそうだ。彼らは世間の白い目を避けるために、ルールの範囲内でルールの変更を行おうとする。
〈護憲派〉
 ルールの中で「真っすぐ歩け」と命令されると、たとえ目の前に崖っぷちが迫っても真っすぐ歩き続けて、先頭の人間から順番にストーン!ストーン!と谷底に落ちていく。まさに「真性ルール馬鹿」である。「手段と目的が入れ替わる」という言葉は彼らのためにある。
 
 皆様なら目の前に崖迫ったときに、どうするだろうか。まともな知識と判断力があれば、少し迂回して上流の橋でも渡って、谷の反対側まで行ったら、またそこから真っすぐ歩き始めるはずだ。そして、他人からルール違反を指摘されても「はい、そうですけど何か?」と済ました顔で問い返すだろう。
 本物のルール馬鹿は、ルールを守るために多数の人間を平気で死なせたりする。ルールは人間が生きていくための道具にすぎない。服や車や家と同じではないだろうか。服が泥で汚れるのを嫌って、助けを求める数百人の人間を死なせるのがルール馬鹿である。
 私が同じ立場なら迷わず助けに行く。老若男女を問わず、ほとんどの人が助けに行くだろう。自衛隊を設立した当時の国民も、そんな気持ちだったのではないだろうか。先人たちは憲法に違反したのではなく、逆に憲法のほうを潰したのだ。
 たしかに、今も日本国憲法の中には戦争放棄の規定が書いてある。しかし、書いてあるだけである。日本国憲法・第9条は、昭和29年に自衛隊が設立された時点で、国民の意志と実力と行動によって黙殺された。現在、実質的に日本国憲法・第9条は存在しない。紙の上には書いてあるが、支配システムとしては存在しない。ここでハッキリと宣言しよう。
 
 日本国憲法・第9条は、もう死んでいる。
 
 与野党の論議は、たとえるなら50年も前に死んだ人間の明日の朝食の献立について考えているようなものである。どちらも同じくらい間抜けである。
 憲法や法律というものは、書いてあるだけではダメなのだ。違反者に罰を与えり、合法者に褒美を与える支配システムが存在し、それがルール通りに動いていなければならない。ある日、自衛官の家に警察が踏み込んで「軍人禁止法違反で逮捕する!」などと言って身柄を拘束される事件が、過去に日本であっただろうか。そんな話は生まれてこの方、一度も聞いたことが無い。
 憲法や法律が成り立つのは、紙の上に書いてある条文と、実際の支配システムが一致した時である。当時の国民が「ガードマンが居ない国なんてアホらしい」と判断して、その意志と実力と行動で自衛隊を設立したのだから、その時点で日本国憲法・第9条を守らせるような支配システムは消滅したと言える。
 
〈結論〉
 憲法とは、紙の上に書いてある文字などではなく、国民の意思と実力と行動から生ま
れる生活環境その物である。日本国民は50年も前に、軍隊が存在する生活環境を選んだ。
 現在、日本国憲法・第9条に書いてあるような生活環境は存在しない。
 

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◆新憲法の制定《4》
 
 
 今年になって、いよいよ新憲法の制定論議が盛り上がってきた。ここぞとばかりに改憲派も護憲派も「我こそは正当なり」と息を荒げているのだが、私はどちらの意見にも賛成できない。たしかに現行憲法が役立たずであるという点では改憲派の意見と一致するが、はたして“改憲”で良いのだろうか。
 もし占領中のアメリカ軍当局が日本イジメを目的に改正規定を削除させていたら、一体全体“改憲論者”の方々は、どうしていたのか訊いてみたいものだ。それでは永久に“改憲”できないではないか。現に日本国憲法の改正規定によれば、国会議員の2/3が賛成しなければ憲法改正案を提出できず、さらに国民の過半数が賛成しなければ改正できないような仕組みになっている。これはガチガチの硬性憲法と言える。当時のアメリカは、日本に“改憲”をしてほしくなかったのだ。
 “改憲”という選択肢では、一度アメリカ軍当局の意に乗ってしまうことになる。まるで瑕疵(かし=バグ)だらけの不良品ソフトを修復するために、そのソフト自身の書換え機能を使っているような状態である。この“ポンコツ”ソフトが書換え機能さえ持たなかったら・・・と思うと背筋に冷たいものが走る。
 “ポンコツ”を後生大事に抱え込んで書換えをしない護憲派の方々を見ていると、いまだに狂信的な信念で旧型ソフトを更新しない変な人々と姿が重なってくるが、操作が不自由な書換え機能を使ってプログラムを修復しようと苦心している改憲派の方々には感想の言葉すら思い浮かばない。まったく・・・あきれ果ててしまう。
 どちらの陣営も、明確な日本イジメのルールを鵜呑みにして、ハハァー!と土下座をしているのだ。改憲派も護憲派も、いつになったら自分たちの間抜けな姿に気が付くのだろうか。
 私なら迷わずプログラムを刷新(リフレッシュ)する。元の“ポンコツ”ソフトを完全に削除して、自分で作った新型ソフトをインストールするのだ。
 憲法刷新には必要な手順があるので説明しよう。

〈憲法の黙殺と制定〉
 
  1. 次回の衆議院議員選挙までに、各政党は新憲法案を練り上げておく。
  2. 選挙が始まったら、新憲法案を徹底的に有権者に訴える。
  3. 選挙が終わったら、とりあえず行政管理のために首班指名を行って総理大臣を選んでおく。
  4. 各政党は国会で新憲法について侃々諤々(かんかんがくがく)と論議し、調整・すり合わせを行う。ただし、国会が新憲法の制定決議を行うことは決して無い。
  5. 新憲法案の調整・すり合わせが終わったら、再度首班指名を行って憲法刷新を担当する総理大臣を選び直す。
  6. 2度目の首班指名で選ばれた総理大臣は天皇のところに赴(おもむ)き、新憲法の書かれた書類を発行してもらう。この書類には新憲法の条文に、天皇の御名・御璽(ぎょじ)、総理大臣の新役職名・署名などを加える。日本の古い伝統に従えば、単独で国を切り盛りする最高実務者の役職名は「太政大臣」になる。
  7. 総理大臣は一方的に日本国憲法の黙殺を宣言する。国会決議の必要は無いし、それをやる意味も無い。平(ひら)の国会議員には何の実効支配力も無いからだ。
     何も無いところから法を施行できるのは、実効支配力を持った人間だけである。よって、憲法黙殺の手続きは、日本国の実効支配者である総理大臣の立場と責任で行われれる。唯一の力の裏付けは「選挙で憲法公約を有権者に訴えて当選し、国会の論議で新憲法を練り上げて総理大臣に選ばれた」という実績である。学級会レベルの政治家の方々には、想像も付かない責任状態だろう。彼らが同じ立場になったら、きっと気絶するに違いない。
  8. 元総理大臣(※旧憲法上の身分は失われた)は、太政大臣の身分で新憲法の制定を宣言する。
 

 以上が、学級会レベルの政治家には決して行えない憲法刷新の方法である。次回の選挙では、その立候補者が現プログラムの範囲内でしか動けない改憲派・護憲派なのか、自分自身で新プログラムを作る能力を持った刷新派なのかを見極めていただきたい。
 私は“人権”や“平等”が人生の最終目標になっているような政治家には唾棄(だき)するが、新憲法案の内容にかかわらず、改憲派・護憲派よりも刷新派の政治家を信用する。その政治家が新憲法案に、まるで流行語大賞のノミネート作品のごとく「人権」や「平等」という言葉を山のように含めていたとしても、少なくとも自分自身で統治の礎(いしずえ)を築こうとしている分だけ真面(まとも)に見えてしまうのだ。
 

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◆中曽根康弘・憲法改正試案《5》
 
 
 この中曽根試案を一目見て気が付いてことがある。以前(1997年)発表された憲法試案には天皇の勅語があったのに、今回のものにはどこにも見当たらないのだ。天皇の勅語が無いのは、どういうわけか。いったい何の正当性を以て新憲法を制定しようというのか。初っ端から的外れである。
 参考までに旧試案の勅語を紹介しよう。
 
────旧試案より
 
勅語
 朕は、日本国憲法第九十六条により、国会が、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で議決して発議した改正案が、国民投票において過半数をえたことをよろこび、ここにこれを公布する。
 
 これは旧試案の冒頭に登場する一文だが、なんと天皇に「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で・・・」などと発言させている。賢明な皆様は、この文章を読んで気が付いたことがあるはずだ。中曽根氏は天皇に「アメリカ軍の占領下で作られた憲法の改正規定に従って各議院の総議員の三分の二以上の賛成で憲法改正したことが喜ばしい」などという珍言を吐かせようとしているのだ。
 他人様の作ったルールに支配された状態で、そのルールに示された改正規定に従って、そのルールの範囲内で憲法を改正したことが嬉しい、などとは常人であれば口に出すのもためらう屈辱の一言である。この勅語は、アメリカ軍の占領下で作られた現日本国憲法による被支配を大声で公認する恥文と言える。

 さて、ここからは今回(2005年)発表された中曽根試案について取り上げよう。
 
改正試案の概要
http://www.iips.org/kenpo-jg.pdf
改正試案の全文
http://www.iips.org/kenpozenbun.pdf
改正試案条文対照表
http://www.iips.org/kenpouhikaku.pdf
 
────中曽根試案より
 
前文
 我ら日本国民はアジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け、天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた。
 我らは今や、長い歴史の経験のうえに、新しい国家の体制を整え、自主独立を維持し、人類共生の理想を実現する。
 我が日本国は、国民が主権を有する民主主義国家であり、国政は国民の信頼に基づき国民の代表者が担当し、その成果は国民が享受する。
 我らは自由・民主・人権・平和の尊重を基本に、国の体制を堅持する。
 我らは国際社会において、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、その実現に貢献する。
 我らは自由かつ公正で活力ある日本社会の発展と国民福祉の増進に努め、教育を重視するとともに、自然との共生を図り、地球環境の保全に力を尽くす。
 また世界に調和と連帯をもたらす文化の重要性を認識し、自国の文化とともに世界文化の創成に積極的に寄与する。
 我ら日本国民は、大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意義を想起しつつ、ここに新時代の日本国の根本規範として、我ら国民の名において、この憲法を制定する。
 
(天皇の地位)
第一条 天皇は、国民に主権の存する日本国の元首であり、国民統合の象徴である。
 
第一章 国民主権
(国民主権、主権の行使方法)
第二条 日本国の主権は国民に存し、国民は国会における代表者及び国民投票によって主権を行使する。
 
 歴史を語るのは結構だが、あまりにも濃度が薄すぎる。どのようにして日本が発展してきたのか、具体的に語ってほしいものだ。文化史はもちろん、特に重要なのは政治史である。中曽根試案では天皇や国民が唐突に登場し、現在のような地位や権限を持つようになった経緯をすっ飛ばしている。
 中曽根氏は「国民主権」を美辞麗句だとでも思っているのだろうか。ここで連呼されている「国民主権」は、“多数決会”に所属する国民が1人1票ずつを投じる場面をイメージさせる。共和制国家の契約文と見紛(みまが)うばかりである。そのうち社会契約論でも持ち出してきそうな勢いだ。
 では、なぜ天皇が登場するのか。おそらく何も考えてはいないのだろう。取って付けたような天皇の説明は、本当に取って付けただけなのかもしれない。
 
 中曽根氏の理想とは裏腹に、実は日本国の主権者は日本国民ではない。日本の文化風習に従えば、今も昔も主権は“借り物”に過ぎないのだ。では、誰が主権者かと言えば、天皇を長とする族長組織である。しかも、一般国民も族長組織の一員だったりする。これは日本の歴史をひも解けば一目で分かることだ。なお、族長組織とは、昔からの血縁・家縁・地縁・商縁などの人脈関係のことである。アラブ諸国の族長組織のように、血縁関係が必須というわけではない。
 このように日本中に張り巡らされた人脈組織=族長組織が、昔はそのまま政権を持っていた。これが、いわゆる「族長政治」の時代である。
 しかし、いつしか統治の非効率さを露呈し、地方などで独自に統治を行う武士団が活躍するようになった。やがて武士団の実力は、族長組織を凌駕するまでに膨らんだ。
 そこで、族長組織は天皇の名を以って政権を武士団に渡し、日本国の統治を任せた。これは族長組織が、「政権」という巨大な財産を武士団に出資していることになる。この武士団は何回も滅びたが、そのたびに天皇の名で新しい武士団が政権の委任先として選ばれた。
 このような制度は現代まで続いている。総理大臣が就任のたびに天皇から認証をもらうのは、まさに政権委任の手続きである。だから総理大臣の権限は自分の所有物ではなく、天皇を長とする族長組織からの“借り物”と言える。この儀式によって日本人は、族長組織における旧身分を一時停止され、「国民」あるいは「有権者」と呼ばれる新身分を政府から与えられるのだ。
 こういった経緯で国民は、血筋や家柄に関係無く政府運営に参画できる地位を手に入れた。「国民」とは、生きている間だけ政府を動かせる限定株主、あるいは20歳から終身任命される役員と言える。
 一方、族長組織は議決権の付いていない残余株主である。「残余」の語句を用いたのは「国家財産の最終的な引受け先=残余財産権者」という機能を説明するためだ。政権が倒れると国家財産が一時的に族長組織に戻り、再び新政権に出資されるシステムを表している。
 なお、「株主」と言っても族長組織内での持ち分は決まっておらず、その時々の力関係によって発言権や決定権が変わってくる。よって、「族長組織全体が政府のオーナー」という曖昧な表現しかできない。これをわざわざ明文的な契約によって持ち分を固定するのは、逆に争いの元になるので注意が必要だ。
 たとえば、A家とB家の力関係が刻々と変わっているのに、持ち分の割合が契約で固定されていたら、どうなるだろうか。何の実行力も無いような小族長が、事前の契約で大きな持ち分を与えられていることを理由に、族長会議(※現在は無権力なので単なる親族同士の会合)などで大きな発言権や決定権を主張している場面を想像していただきたい。きっと、この小族長はタコ殴りにされるだろう。このような理由から、持ち分のバランスは、それぞれの力関係に任せておけば良い。
 

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◆必要な天皇勅語《6》
 
 
 中曽根氏が思い描く日本の形は平面的であり、その憲法試案には何の深みも感じられない。日本の二重構造など想像も付かないのだろう。
 たしかに国民は族長組織のルートでは政府のオーナーと言えるが、そこでは決して政府運営に参画しない。はるか昔に「族長組織の身分では政治を行わない」と誓ったからだ。天皇家が政府運営に参画しないのは、身を以て、この誓いの有効性を示すためである。天皇家が政治から身を引いているのに、その下部組織に属する名家の人間が、どうやって血筋や家柄を理由に政権を主張できるだろうか。天皇家の政治的沈黙は、族長政治を抑え込むための巨大な重石である。
 社会契約論は、個人が寄り集まって政府を設立し、もともと個人が持っていた政治的権限を付託する、という考え方を前提にしているが、日本では決して成り立たない理論である。日本の場合、政治的権限を政府に付託しているのは“個人”ではなく、“一族”なのだ。個人は家族の長に付託し、家族の長は親族の長に付託し、親族の長は一族の長に付託し・・・という具合に付託の連鎖が繰り返されて最後は天皇に到達する。そこから全ての日本人の意を汲む形で、天皇が一括して政権実務者に政治的権限を付託するのだ。
 その昔、日本では血縁関係が無くても“一族”に入ることができた。この“一族”というものは一種の生産共同体であり、彼らは血のつながりや姻戚関係、生産業務、取引などによって結び付き、地域名などを冠した同じグループ名(※苗字など)を名乗っていた。最も結び付きが弱いのは商縁で次が地縁、そして家縁、血縁と結び付きが強くなっていく。また、族長組織の上へ行けば行くほど血縁関係が重視されるようになり、最上位の天皇・皇室はそれだけが考慮されて商縁・地縁・家縁は無視される。階層によって重視される縁故の種類は違うようだ。
 結局、日本人は親類の親類の親類の・・・(中略)・・・親類の親類の親類である天皇を通じて政権を承認しているのだ。これが日本の形である。
 
 日本のような委任政治では天皇の勅語こそが最高法(第1法規)であり、憲法は第2法規になる。これは至極当然のことである。共和制を推し進める方々が良く口にする「天皇制は古臭い」「時代が変わった」などの批判は、日本人が採用している政治的権限の付託方法からすると全くの的外れと言える。
 そもそも勅語が無ければ政権者に正当性は得られない。この勅語によって日本人は、族長政治から委任政治への環境変化を実感するのだ。これらの違いを理解しなければ、誰も日本で合理的な最高法を制定することはできないだろう。
 天皇の勅語には次の要素が必要になる。

  1. 勅語の主体者。
     ここでは天皇が勅語を発していることを明示しなければならない。勅語は天皇による一人称で語られ、皆様が良く知っている“朕”が主語の文章になる。
  2. 日本の成り立ち。
     ここでは古代日本の政治体制について説明する。昔は血筋や家同士のつながりによって成り立つ人脈組織=族長組織が直接政治を行っていた。その族長組織の長の中の長が天皇である。政治環境以外にも、この頃の文化・生活・経済などの環境についても充実した説明を行うのがよい。以後、そういった環境が如何に変化したかを書き連ねる。
  3. 族長政治の限界。
     族長組織の規模が膨らむにつれて運営が非効率化し、統治が乱れたことを説明する。平安時代の試行錯誤などを紹介するのがよい。
  4. 武士団の登場。
     中央政界の権力争いなどによって全国で治安が乱れたため、一般人が武装し、自力で統治を行うようになったことを説明する。
     武士団が勢力を増して、やがて族長組織を圧倒するまで膨らんだ。
  5. 政権の委任。
     ついに族長組織は決断し、天皇の名を以て武士団に政権を委任したことを説明する。その後は極めて安定した時代が続いた。
  6. 武士団の刷新。
     武士団が国家運営に失敗して政権を失っても、また族長組織が天皇の名を以て新しい武士団に政権を委任し、一貫して委任政治が続けられてきたことを説明する。
  7. 新しい政権委任の宣言。
     以上の経緯によって、また新しい委任政治が始まることを説明する。天皇は新しい政権実務者が大多数の国民の意を汲んだ実力者であることを認め、その人物に“太政大臣”の役職を与えて日本国の統治を委任することを宣言する。
  8. 国家目標。
     この宣言文の中で、天皇は“太政大臣”に統治委任の目的・目標を告げなければならない。これは私の好きな言葉だが、
     
    『国民が子々孫々まで末永く豊かに快適に安全に暮らしていくこと』
     
    を国家目標とするのが良いだろう。この宣言文に“人権”や“平等”、“環境権”だの“知る権利”だのといった細かなルールは必要無いし、そもそも勅語に特定の“色”を付けるのは合理的ではない。ただ、誰もが納得できるような国家目標を示せばよい。
  

 このような勅語を得ることで初めて、日本の政権者は正々堂々と政治を行えるようになる。そして、いよいよ新憲法が制定されるのだ。もちろん新憲法の中には勅語に示された国家目標が冒頭に登場し、それを達成するための細かなルールが記載される。「天皇からこういった内容の勅語をいただいたので、そこに示された国家目標を達成するために以下のルールを制定した」というのが新憲法の基本的なスタンスになる。ルールに“色”が付くのは、この段階からだ。
 

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◆公務員の選定《7》
 
 
────中曽根試案より
 
(選挙)
第三条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利であり、責務である。
2 公務員の選挙については、成年者による普通選挙、自由選挙及び秘密選挙並びに投票価値の平等を保障する。
3 選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない。
(政党)
第四条 国民は、自由に政党を結成することができる。
2 政党は、国民主権の原理を尊重するとともに、国民の政治的意思形成に協力し、民主政治の発展に努めなければならない。
(国の説明責任)
第五条 国は、国民の主権の行使に資するため、法律の定めるところにより、国務に係る情報の開示を行い、国民に対して説明責任を果たさなければならない。
 
 まずは賛成できる点について意見を述べよう。公務員を国民が選定するのは当然のことである。最近では在日外国人への参政権付与が一部の政治家やマスコミで流行っているが、彼らが決まって根拠として挙げるものに“納税”がある。「在日外国人も納税しているのだから参政権を与えるべきだ」というのが流行り言葉のように多用されている。
 なぜ納税の対価として参政権を与えなければならないのだろうか。では、税金を払っていない貧乏人は参政権を剥奪されなければならないのだろうか。逆に高額納税者には何千票も与えなければならないのだろうか。ちなみに、戦前の選挙制度では一定金額の納税が参政権付与の条件になっていた。
 参政権は納税の対価ではない。納税は政府に支払う警備料である。よって、日本政府の保護下にある人間は、保護されている収入や財産に比例して税金を払わなければならない。納税者は政府にとって客だが、国民は運営参画者である。客が店の経営に口を出すなど越権以外の何ものでもない。
 
 これらの条文で唯一問題なのは「国民固有の権利」という部分である。これでは“一部の方々”に、1人1人の国民が単独で権利を行使できるかのような誤解を与えてしまう。「国民主権」という言葉にも同様の瑕疵(かし)がある。
 公務員の選定は「国民固有の権利」ではなく、「国民が共同で行使する固有の権利」である。みんなで決議をして初めて権利が行使できることを明示しておかなければ、「俺が!」「俺が!」の大合唱を繰り返す“私民”どもが大量発生するおそれがある。こんな細かな点を指摘しなくても一般国民は「共同の権利」を理解しているが、“私民”に古くからの慣習法は通用しない。具体的に禁止をしないと、彼らは他人の領域に土足でヅカヅカと踏み込んでくるので明文化は必須である。
 

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◆安全保障《8》
 
 
────中曽根試案より
 
第三章 安全保障及び国際協力
(戦争放棄、安全保障、防衛軍、国際平和等の活動への参加、文民統制)
第十一条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に認めない。
2 日本国は、自らの平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つため、防衛軍をもつ。
3 日本国は、国際の平和及び安全の維持、並びに人道上の支援のため、国際機関及び国際協調の枠組みの下での活動に、防衛軍を参加させることができる。
4 防衛軍の指揮監督権は、内閣総理大臣に属する。防衛軍に武力の行使を伴う活動を命ずる場合には、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を得なければならない。
 
(国会承認と宣言の解除)
第八十八条 内閣総理大臣は、緊急事態の宣言を発したときは、二十日以内に国会に付議して、その承認を求めなければならない。衆議院が解散されているときは、緊急集会による参議院の承認を求めなければならない。
2 内閣総理大臣は、国会が緊急事態の宣言を承認しなかったとき、又は宣言の必要がなくなったときは、すみやかに宣言を解除しなければならない。
 
〈戦争放棄〉
 まったく・・・相変わらずの戦争放棄には脱力してしまう。これまで数十年間、9条論議のために、どれだけ外交面で辛酸を嘗めてきたことか。相手が戦わないと分かれば、いくらでも土足で他人の領域に踏み込んでくる人間が世の中には居るのだ。初っ端から“不戦の誓い”を立てるなど、とても正気の沙汰とは思えない。
 政治家は公の場で、“不戦の誓い”も“決戦の誓い”も立ててはならない。ただ、相手の出方によっては不戦もあれば決戦もある、と普段から匂わせておけば良い。それで充分である。

〈防衛軍〉
 「防衛軍」とは・・・これまた魅惑的な響きである。どこの国でも軍隊は「自衛戦争」を主張するのであり、「侵略戦争」を主張しながら戦う軍隊など聞いたことも無い。第一、誰が自衛か侵略かを決めるのだろうか。
 
“国連が決めれば良い”?
 
 国連など所詮は“審判の居ない子供の野球”である。選手が審判を兼ねており、判定は番長の説得力・威圧力と、それに逆らえない利害関係を持った子分たちの賛成・沈黙によって成り立つ。ようするに国連は、参加国が「俺が!」「俺が!」と己のエゴを打つけ合う会議場にすぎないのだ。国連に関係する全ての事柄は、参加国同士の利害関係によって決定される。そんなものに自衛戦争か侵略戦争かを決めてもらうほど、日本人はお人好しになってしまったのだろうか。
 
 全ての戦争は、全ての当事国にとって自衛戦争である。
 
 だから言い訳タラタラの名称など必要は無い。日本の軍隊は「防衛軍」でも「自衛軍」でもなく、ただ「軍」を名乗り、そして「軍」として行動すれば良い。

〈武力行使の国会承認〉
 国会の承認によって武力行使ができるのは一見すると正論だが、これには重大な問題が潜んでいる。

 山で遭難したパーティーが、次の分かれ道で右へ行くか左へ行くかを多数決で選ぶ場面を想像していただきたい。分かれ道が1つしかなければ多数決も上手くいくだろう。では、分かれ道が3つも4つもあり、その手前で多数決を繰り返したら、どうなるだろうか。
 このパーティーは十中八九全滅するだろう。すべての参加者が次の多数決で右の道に投票するか左の道に投票するかのみを考えるようになり、誰一人としてコースの全体像を思い浮かべて長期計画を練り上げる人間が居ないからだ。
 たとえ熱心な人が長期計画を練っても、連続で自分の意見が通る保証は無く、参加者は次第に短期思考に支配されるようになる。そして、命を賭けた地獄の強行軍が始まる。
 まさに「火事場で多数決」の発想と言える。火が燃え盛っている前で消防士たちが集まり、右からホースを回すか左からホースを回すかで多数決を行っているようなものだ。「間を取って真ん中」という結論でも導き出すつもりだろうか。
 組織の執行部門は、多数決で物事を決定してはならない。必ず決定は個人が行うべきである。特に緊急事態の処理においては絶対である。総理大臣の決定が気に入らないからと言って、国会が行政命令を下すなど言語道断である。とても元軍人の発想とは思えない(※中曽根氏は旧帝国海軍・少佐)。気に入らないなら総理大臣の首をすげ替えれば良いではないか。そこで、中曽根氏には次の言葉を贈ろう。
 
 国会は指揮棒を握るべからず、国会は指揮者の人事を握るべし。
 
 武力行使を国会議員の多数決で決めたいと言うなら、せいぜい自己満足に浸ればよい。平等を達成すること自体が人生の最終目標になってしまった方々にとっては至福の一時(ひととき)だろう。
 だが、もし私が日本に野心を抱く敵国の大将なら、真っ先に国会議員を皆殺しにする。こんなに殺しやすいソフトターゲットはない。彼らを殺せば、日本は武力行使決議もできずに混乱の一途を極める。その隙を狙って、敵は日本に大打撃を与えるはずだ。すべては平和ボケした学級会レベルの政治家や有識者たちのおかげである。
 

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◆国民の権利《9》
 
 
────中曽根試案より
 
第四章 国民の権利及び義務
(法の下の平等)
第十六条 すべて人は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、住所又は社会的身分により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない。栄誉、勲章その他の栄典の内容は法律でこれを定める。
4 栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
 
 中曽根氏の理想は分かるが、残念ながら国民同士を不平等に扱わざるを得ない状況もあるのだ。こういった条文を不用意に連発すると、平等の達成自体が生き甲斐になっているような人間を大量生産し兼ねないので、取り扱いには注意を要する。どんなに国民が不幸になっても平等さえ達成されれば良い、どうせなら国民が平等に不幸になれば良い、という狂信的なマルクス教が社会に及ぼす損害は無視できない。彼らは平等を達成するためなら平気で国を衰退させたりする。
 たしか上智大学教授・渡部昇一氏の発言だったと記憶しているが、次の言葉を紹介しよう。
 
「女性には美人も居れば不美人も居る。これが不平等だからと言って、不美人を全員美人に作り変えることはできないが、その反対は容易い。生まれてきた赤ん坊の顔に全員、焼きゴテを押し当てればよいのだ」
 
 何でもかんでも結果が平等にならなければ気が済まない、そんなマルクス教の成れの果てを表す言葉としては至言である。わずか数行の文章でマルクス教が論破されている。
 すべての社会制度は“目標有りき”で作られなければならない。「国民が子々孫々まで末永く豊かに快適に安全に暮らしていくこと」を国家目標として掲げ、そのために国民同士の平等が必要ならば平等に扱えばよいし、不平等が必要ならば不平等に扱えばよい。どこぞのマルクス信者のように、最初から最後まで絶対的な“平等有りき”であってはならないのだ。
 憲法に平等規定を加えたければ、まずは明確な国家目標を盛り込み、そのための手段の1つとして明記すべきではないだろうか。それと同時に、国家目標を達成するためには必要に応じて国民同士を不平等に扱う可能性があることを示唆しておかなければならない。これなら絶対平等主義=結果平等主義の蔓延を防ぐことができる。平等政策も不平等政策も、それ自体は“手段”であって“目的”ではない。
 たとえば、政治参画に限って言えば、現在の日本国民は平等にしたほうが得である。国民の大多数は充分な政治能力を持っており、差を付ける理由が見当たらないからだ。この先、国民の政治能力が衰退して愚民化すれば話は別だが・・・。現時点で、血筋や家柄が低レベルであるとの理由で政治的な権限を抑制したら、日本は天才を失うことになるだろう。
 
────中曽根試案より
 
第四章 国民の権利及び義務
(家庭、家族関係における個人の尊厳と両性の平等)
第二十八条 家庭は社会を構成する基本的な単位である。何人も、各自、その属する家族の維持及び形成に努めなければならない。
2 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚するものであり、国家はこれを保護する。
4 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
 
 私が特に危険だと思っているのは、第二十八条にある婚姻関係についての記述である。中曽根氏は当たり前のように婚姻の平等を謳(うた)っているが、婚姻関係を平等にすれば全国民が幸せになると本気で考えているのは、毎度お馴染みのマルクス信者くらいである。一般国民はというと、こういった平等ルールを“踏み絵”にされて怯えているだけである。
 どんなに分不相応な輩(やから)が自分の領域に踏み込んできても、その者が「平等」の呪文を唱えれば誰も何も文句が言えない。どんなに無能な人間でも平等ルールによって自分の横に立ち、そのためにこちらが肩身の狭い思いをしても苦情を申し入れることは許されない。それこそ差別のレッテルを貼られて糾弾されてしまうだろう。
 最近、よく政界でも「夫婦関係の平等」が論議されているが、昔から疑問に思っていたことがある。一体全体、誰が任意団体としての“家庭”の代表者なのだろうか。おそらくマルクス信者の方々は、判で押したように「夫婦が2人とも平等に代表者」と答えるだろう。
 では、セールスマンが家に商品を売りに行ったところ、夫婦の意見が対立していたら、法的にはどちらの意見が優先されるのだろうか。特に夫婦が両方とも購入を了承しており、求めている商品の色だけが違う場合は厄介である。夫の意見で商品を送ったら妻に返品され、妻の意見で商品を送ったら夫に返品されかねない。
 代表者の並立は理想体制でもなんでもなく、その実体は指揮権の未整備によって周囲に害を撒き散らす無責任体制に他ならない。どのような団体にも、必ず最高責任者が必要である。こんなことを言うと、すぐに「女性への差別」などと言われて糾弾されそうだが、私の持論では代表者は男女のどちらでも良いと考えている。ただ、部外者としては、どちらの指揮権が“上”なのかを表示しておいてほしいのだ。
 
 そもそも結婚など個人同士の民事関係に、平等など有り得ない。個人個人で状況が全く違うのに、どのようなマジックを使えば、いつでもどこでも誰でも彼でも1対1の平等な契約が成り立つというのだろうか。それを「平等であってほしい」と願望し、「平等に決まっている」と妄想し、やがて「平等である」と狂信してしまったマルクス信者に気を遣う理由など微塵も無い。
 中曽根氏が知らず知らずのうちに呑まれているマルクス教の論理には、結婚に関して根本的な誤りがある。これは「大ポカ」とも言えるほどの代物だ。
 
 平等な婚姻関係で幸せなれるのは、もともと同じレベルの人間同士だけである。
 
 ここで言う「レベル」とは、資産はもちろん、容姿や知力、肉体、健康など有りと有らゆる魅力を総合したものである。これは少し考えれば分かることだが、レベルに差のある人間同士が平等な条件で結婚すると、高レベルの人間は大きなストレスを抱えたまま一生を送らなければならない。金持ちと貧乏人が結婚した場合に、どれだけ金持ちの親族一同から罵倒され続けることか。その苦痛は計り知れない。
 すべては、ギブ&テイクが成り立たない婚姻関係を結んでしまったことに原因がある。全国民に平等結婚を強制するのは、たとえるなら資産100億円の大企業と資産1億円の中小企業を1対1で平等合併させるようなものだ。誰がどう考えても不合理である。これがマルクス信者の撒き散らす妄想の正体である。
 よくマルクス信者は資本主義の不平等を説明するときに、金持ちの家系は末代まで金持ちであり、貧乏人の家系は末代まで貧乏人のままであり、資本主義は階級固定をもたらすと主張する。とても皮肉な話だが、なんと彼らが推し進める平等結婚を貫くと、金持ちは金持ちとしか幸せな結婚ができなくなり、貧乏人は貧乏人としか幸せな結婚ができなくなり、彼ら自身が“悪”と評する階級固定が達成されてしまうのだ。貧乏人の中で例外的に金持ちと幸せな結婚ができるのは、絶世の美男美女くらいだ。
 もし不平等な婚姻関係を認めれば、貧乏人は誰にも気兼ねすることなく金持ちにプロポーズできるようになるだろう。プロポーズの言葉は、
 
 「自分は共有財産の10%しか要(い)りません!」
 
 ・・・である。金持ちのボンボンもオジョウも頬を赤らめて快諾するに違いない。もう以前のように親族一同に罵倒される心配は無いのだから。
 真面(まとも)な人間であれば、社会制度でオマケをしてもらうと多少は恥じて大人しくなるものだが、一部の輩(やから)はオマケをしてもらっていることが当然であるかのように踏ん反り返り、一般人に横柄な態度を取る。そういう人間が現れたら「ああ、そうですか」と言って、お引取り願えばよい。彼らには優しく出口を教えてあげよう。
 民事関係が平等ではなのに平等結婚を無理強いする輩(やから)が現れたら「ああ、そうですか」と言って、プロポーズを断ればよい。彼らには一生涯の独身生活をプレゼントしてあげよう。

〈結婚は個人の権利?〉
 マルクス信者と、その意見に流された純粋で真っ直ぐな国民が何万回お経のように唱えようとも、結婚は断じて個人同士が行うものではない。法律上の建前はともかく、実態は全く違うものだ。
 もし本当に結婚が個人同士の専権事項だと言うなら、実家の家族への保護義務や相互扶養、相続関係をどう説明するのか。キラキラしたお目々で「結婚は両性の同意によって・・・」と訴えたところで、実家の家族が身の危険に晒されれば守らなければならないし、生活に困れば食事を与えたり、逆に与えられたりする。また、死ねば遺産相続が行われる。家族に無断で結婚した結果、夫婦の生活が破綻すれば、それを助けるのは結婚に同意していない家族である。なんという不合理だろうか。
 自分勝手に家族の食い扶持のバランスを崩しておいて「個人の権利」を訴えるとは・・・冗談も休み休みに言ってくれ。たとえるなら、ある民間企業において他の株主に無断で新株を発行し、それを好きな人にプレゼントして山のような配当金を与えてやるようなものである。
 家族に無断で結婚したいなら、すべての保護関係・扶養関係・相続関係を断ち切るべきである。制度上も、そのようにすべきである。ようするに、ちゃんと手続きを踏んで分社化すればよいのだ。それが嫌なら、家族の同意を得て結婚すべきである。
 

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◆行政《10》
 
 
────中曽根試案より
 
第六章 内閣総理大臣
(行政権、国会への責任)
第七十三条 行政権は、内閣総理大臣に属する。
2 内閣総理大臣は、行政権の行使について、国会に対し責任を負う。
 
(内閣総理大臣の職務権限)
第八十一条 内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本方針を定め、これについて責任を負う。
2 内閣総理大臣は、法律案、予算案その他の議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告する。
3 内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督する。
(国務大臣の職務権限)
第八十二条 国務大臣は、法律の定めるところにより、主任の大臣として行政事務を分担管理する。
2 国務大臣は、内閣総理大臣が定めた基本方針に基づき、自らの責任において、自己の分担する行政事務を行う。
 
 行政権を「内閣」ではなく「内閣総理大臣」に帰属させるのは大賛成である。ただ、中曽根試案では、現行制度で行われている内閣合議制をどうするかは明記されていない。あと一言「内閣総理大臣が単独で決済する」と付け加えていただきたいものだ。部下の大臣や長官、役人が総理大臣に意見を述べるのは一向に構わないが、指揮命令だけは上から下への一方通行でなければならない。それが担保されていないと、戦中の大本営のごとき決定者不在・責任者不在の井戸端会議になりかねない。
 一部の政治家や有識者の主張によると、大本営は“悪”の独裁政権のご本尊のように言われているが、実際には真逆の構造を持っていた。誰も独裁できなかったからこそ政府・陸軍・海軍の連携が上手く取れず、後半はチグハグな戦い方になったのだ。
 これは縦割り構造の典型例として知られているが、その原因を正しく追究した人間を私は見たことがない。誰もが役人の根性の悪さを責め立てる精神論を並べるばかりで、一体全体どのような解決策を導き出せたというのか。
 
 そもそも“縦割り構造”とは何だろうか。役所同士が連携しないことくらいは誰でも知っているが、要点をまとめると次のような状態と言える。

 どの省庁も自分が支配する所管業界に固執し、その業界が関連する全ての事柄を自分の管理下に置こうとする。それでいて他の省庁の業務には一切関与せず、また、相手の関与も許さない。結果として各省庁が同じような種類の事業を行おうとするから、平気で2重投資、3重投資が繰り返されることになる。国土交通省が管轄する「国道」の横に農林水産省が管轄する「農道」を作ったり、一般空港の横に農道空港を作ったり・・・もうギャグでやっているとしか思えないような大型事業を、役人たちは大真面目な顔で続ける。保険も年金も金融機関も、ついでにギャンブル会社までも各省庁で並立している。

 他にも、縦割り構造の弊害が語られるものとして大学運営がある。医学系の大学で“科”同士の連携が行われずに患者を危険な目に遭わせたり、教授会を舞台に権力闘争を繰り広げたりと、こういった構図はテレビドラマの題材になるほど有名である。
 では、なぜ内閣でも教授会でも、同じような縦割り構造になってしまうのだろうか。私は関係者を“生物”として観察し、それらの登場人物にどのような利害が働いているかを考えた。とりあえず見てくれの共通点を探してみたところ、興味深いことが分かった。どちらも次のような構造を持っていたのだ。
 
 「部下が寄り集まって会議を開き、決議を行い、組織全体の運営方針を決定する」
 
 一見すると何の変哲もないことのように思える。役所でも、会社でも、学校でも、どこでも行われている一般的な組織運営である。斯(か)く言う私の母は元大学助教授で、毎年決まった時期になると学長選挙の投票用紙を家に持って帰り、誰に投票するかで悩んでいた。
 ある時、私が大学のオーナーについて訊ねると、母は『何を訳の分からないことを・・・?』と言わんばかりに呆気に取られていた。
 大学運営は全面的にオーナーが制御し、まずは平(ひら)の役員を選び、そられの役員が代表役員(学長)を選び、代表役員が執行役員(教授など)や従業員の人事などを掌握するようなシステムではないのか?
 その質問の意味が、母には伝わらなかったらしい。母にとっては、自分たちが学長を選挙で選ぶことが「崇高なる理想の民主主義」だった。
 本当に、そう言えるだろうか。大学運営の仕組みを、政府運営に当てはめて考えれば分かりやすい。高級官僚が寄り集まって会議を開き、総理大臣を選んでいるようなものである。どこが「民主主義」なのだろうか。まるっきり軍事政権ではないか。国民は、どこへ行ってしまったのだろうか。
 
 大学のオーナーは、どこへ行ってしまったのだろうか。
 

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◆小さな王様論《11》
 
 
 今の内閣では、まさに部下であるはずの各大臣が寄り集まって会議を開き、決議を行い、政府の運営方針を決定している。この決定には、上司であるはずの総理大臣でさえ逆らうことはできない。部下が上司に命令を下して、それを「民主主義」とは片腹痛い。
 このような“部下決議”こそが、縦割り構造の根本的な原因ではないだろうか。総理大臣の立場から見ると、自分の意見を通すためには必ず議決権者である各省庁のご機嫌を取らなければならず、何か大きな事業を行おうとするときの負担配分や、予算配分などについて全員の顔色をうかがいながら計画を練らなければならない。もし各省庁の了承が得られなければ、事実上の拒否権を行使されてしまうからだ。
 これによって政府内部に、命令の自己完結性が形成される。自分で出した命令が1周回って自分のところに戻ってくると、またそこから命令が発せられるような仕組みだ。命令が同じ場所をグルグルと循環しているのが分かるだろうか。
 この循環構造があるために、外部からの命令は相対的に薄められる。
 
【命令の自己完結性】
                   
   ┌─(国会決議)──議員←┐   
   ↓            │   
  総理大臣←┐        │   
   │   │        │   
 (命令)(閣議)     (選挙) 
   ↓   │        │   
  各省庁──┘        │   
   │            │   
   └─(行政指導)─→国民─┘   
                   
 
 
 すると、政府は国会からの圧力よりも各省庁からの圧力を強く受けるようになり、やがて大部分の決定が各省庁の利害に左右されるようになる。まるで民間企業同士の株式の持ち合いである。複数の民間企業が互いに株式を持ち合うことにより、そこに命令の自己完結性が生まれ、外部株主からの命令を排除できる仕組みだ。団体運営に関して外部から命令を受けないような存在は、言うまでもなくその団体のオーナーである。この時点で、各省庁は政府の事実上のオーナーとなる。
 その証拠に、どこかの省庁の予算が5%増やされると、他の省庁も挙(こぞ)って予算の5%増額を要求するではないか。これは、拒否権を盾にした威圧の結果である。ようするに、各省庁は配当金の増額を求めているのだ。一部の株主への配当金が5%増やされたときに、他の株主が配当金の5%増額を要求するのは当たり前の話である。だから、いつまで経っても各省庁の予算配分は変わらないのだ。
 各省庁が内閣に対する議決権を保有することで命令の自己完結性が生じ、内閣が外部からの命令を受けにくくなり、各省庁がそれぞれ縄張りを形成して独自に動くようになる。これが縦割り構造が発生する仕組みである。
 戦前・戦中の日本では政府・陸軍・海軍の3者が並立し、それぞれが“小さな王様”と化していた。たとえ全軍の能力を生かした最善の作戦が立案されたとしても、やれ陸軍の負担が大きすぎるだとか、やれ海軍の負担が大きすぎるだとか、陸海軍は共同作戦において互いの持ち分を主張し、それぞれの負担を割り振った。実は、彼らには「日本軍」という共同意識が無く、意識の主体は「陸軍」、ならびに「海軍」という独立した団体だったのだ。これらの団体を内閣から独立させてしまった要因は、その力の根源である内閣への議決権に他ならない。
 ここで少しばかり外国の例を挙げるが・・・その昔、ヨーロッパ諸国では国王や地方領主が寄り集まって会議を開くと、国王は地方領主同士の紛争の調停役に徹したそうだ。国王と地方領主の間に絶対的な上下関係は無く、国王と言えども元々は地方領主の筆頭格に過ぎなかった。
 この団体には、国王自身も含めてそれぞれの力関係に応じて曖昧な形での持ち分が存在し、戦争など負担が必要なときはその割合で拠出し、逆に利益がもたらされれば同じ割合で見返りを求めた。今の内閣と見紛(みまが)うばかりの組織形態である。古今東西、縦割り構造の発生原理は変わらないようだ。

 そう考えると、行政機関の縦割り構造を壊すのは意外に簡単である。“部下決議”を撤廃し、行政命令は例外無く上司によって下されるようにすればよいのだ。これで命令の自己完結性は崩壊し、各省庁は内閣への持ち分を主張できなくなる。いくら部下である各省庁が持ち分を主張したところで、すべての決定権は上司である総理大臣が握っているのだから、必要に応じて組織編制や予算配分、業務命令の引受け先を変えることができてしまう。そうなると、もはや部下による組織防衛は全く無意味なものとなる。
 部下が意見を述べるな、と言っているのではない。意見を述べるのは自由である。国家運営のために部下が上司の意見に反対し、自分の意見を述べるのは良いことである。上司と部下が定期的に会合・会議を開き、侃々諤々(かんかんがくがく)と論議をするのは大きなプラスになるだろう。しかし、最終決定権だけは上司が握らなければならない。この決定に部下が参加することは許されない。
 応急処置としては、各大臣を政務官に一段格下げしておいて事務次官よりも確実に上位の決定権を与え、代わりに各大臣の椅子を総理大臣が1人で占拠するという裏技もある。このやり方なら、内閣における命令の自己完結性は瞬く間に解消される。また、事務次官が出しゃばらないように、「政務官」を「政務長官」と改称するのも良いだろう。
 

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◆選挙《12》
 
 
────中曽根試案より
 
(内閣総理大臣の推挙)
第七十四条 総選挙は、衆議院議員選出と内閣総理大臣推挙のために行われる。
2 政党は、総選挙に際し、内閣総理大臣候補を明示しなければならない。
 
 総選挙で「内閣総理大臣候補」を明示して戦うのは無意味である。どの政党が勝ち、どの政党が負け、単独政権なのか連立政権なのかも分からない段階で、どうやって具体的な個人名を出せるのだろうか。それが実現する保証が、どこにあるのだろうか。連立相手が拒否したら終わりではないか。総理大臣は、これまでのように選挙後の論議と調整によって決めるべきである。それ以外に、有権者も議員も安全に妥協できる道は無い。
 実際に選挙を戦い、国会における各政党同士の力関係はもちろん、党内派閥の力関係を見た上で首相候補を決めるべきる。たとえば、ある政党内に、政策A1に賛成の派閥A2と反対の派閥B2があったとしよう。この政党は派閥A1の代表者A3を首相候補に指名して選挙を戦い、見事に過半数の議席を獲得したが、派閥A2は不人気で首相候補であるA3氏自身しか当選できなかった。それでも馬鹿の一つ覚えみたいに、A3氏を首相にすべきなのだろうか。そんなことをしたら日本が引っ繰り返ってしまう。首相候補の事前指名制度は、そういった代物である。
 おそらく中曽根氏の頭には、かねてからの悲願である首相公選制の残滓があるのだろう。本人としては忘れようとしても忘れられない元恋人のようであり、今でも己の思いを憲法試案の隙間に捩じ込もうとしている。「首相公選制」と書く正当性が見つからないから、国民に首相公選制の雰囲気を体験させて日本人お得意の“成行き”で夢を実現しようとしているのだ。書けないなら、姑息な手段を使うべきではない。

〈まとめ〉
 
 
 憲法は国の根幹であるが、そこに文章として書いたから国の根幹が生じるのではない。もともと存在している国の根幹を、文章に書き起こしたものが憲法である。それを私は単純に「国民の意思と実力と行動から生まれる生活環境」と呼んでいるわけだ。国民が馴染んだ生活環境をそのまま憲法として制定すれば、多くの国民がストレスを感じること無く暮らしていけるだろう。逆に、生活環境を乱すような憲法を定めれば、日本に未来は無い。
 この先、どのような人物が日本の最高法を制定することになるか私には分からないが、それでも1つだけ断言できることがある。
 
 いかなる最高法も、法に基づいて作ることはできない。
 
 もし最高法を作るための法が存在するなら、それこそが本当の最高法になってしまう。
 結局、最高法を制定するのは実効支配者なのだ。そして、実効支配者は国民がストレスを感じないような最高法を用意しなければならない。たとえ独裁者であっても民主的に選ばれた代表者であっても、何よりも国民の欲求を満たし、暮らしやすい生活環境を整備しなければ政権は短命に終わるだろう。見るからに法治の概念とは違うものである。
 そう考えると、はっきりとした箇条書きにできない国民の念のようなものが、真の意味での最高法であると言えないだろうか。日本では普段の小事においては選挙を通じて、国が傾くほどの大事においては“一族”=天皇を通じて、国民は形にならない念を集約し、政治に反映させているのだ。
 これが私の知っている日本の形である。
 
 
────以上。
 

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