(2)
精霊に起きている悲劇――もしくは報いというのか――はさておき、ジャン‐ルイの話は続いていた。「妹は体が弱いから、僕はできるだけ側にいてあげて、家に帰る時もお土産を欠かさないんだけれどね。妹は、僕よりもファビに会えるほうがうれしいようで……。夏休み・冬休みのたびに、今回みたいな気分になるんだよね。それを思い出した」
イミコは驚いて飛び上がった。
「ファビって! あ、あ、あのファビアンですかぁ?」
足の下のカエンにはますます被害が及んだが、この場でそれに気がついているのは、カエン当人だけだった。
イミコの驚きはもっともである。
火のソーサリエと水のソーサリエが、家族ぐるみでおつきあいがあるなんて、すごい事なのだ。
「ファビは、火の魔法も使いこなせる天才だから問題はないよ。それにね、妹には精霊がいないから。家族で唯一の普通の人なんだ」
ジャン‐ルイは、少しだけ肩をすくめた。
「なんかね、兄の僕なんかよりも、妹もファビを頼っちゃって。ファビの好意はありがたいけれど、兄としては妬けてくるんだよね」
兄が妬けるほど、アガタとファビアンは仲がいい。
ということは、もしかして……ってことで、それはもしかして……ということで、つまるところ、アガサの恋は片思いということになるのかも知れない。
そう考えると、アガサのことを『ばか!』と怒鳴ったイミコであるが、少しだけアガサに同情を覚える。
いや、むしろ、これで心おきなくアリという新しい恋人とおつきあいできるのかも? とも思う。
「私、ファビアン・デ・ブローニュさんって、とても冷たい人だと思っていました」
イミコの素直な感想に、ジャン‐ルイは、あはっと声を上げて笑った。
「氷の王子なんて、学校ではクールに言われているけれど、ファビはあれでも優しいところがあってね。休暇中は自分の家にいるよりも僕の家で妹の世話をしていることのほうが多いくらいだ。アガタが寂しがるといけないとか言ってね」
「さ、寂しい……」
その話を聞いて、イミコは急に悲しくなった。
なぜって、自分のことを重ねたから。
「わ、私……。妹さんが寂しいのわかります。だって、私の家は何故か私だけがソーサリエで……。みんな、私だけおかしいって白い目で見て……」
回りで自分だけが違う存在であるなんて……。
それは、なんて悲しいこと。
学校ではいじめられるし、泣いて帰っても家族はかまってくれない。
どうせ、おまえがおかしいからお友だちができないんだよ、と毎日のように言われ続け……。
それで自信満々の子になるはずがない。イミコは、自分もすっかりその気になってしまったのだ。
あげくの果て、イミコは十二歳の誕生日の放課後に、学校の屋上から飛び降りた。
あの日の透き通るような青空を思い出す。見上げれば、涙がにじむほどまぶしかった。
思い出がどんどん蘇ってくる。
靴を揃えて置いた時の何ともいえない虚しさとか。
必死に登った柵の冷たさとか。
思えば、あの二メートルはあるだろう金網を、逆上がりもできないイミコが乗り越えられたのも、もう死ななければ生きていけないという強い意志が働いたからなのだ。
もちろん、死んだら生きてはいないのだが。
突然、イミコは「わーん!」と声を上げて泣き崩れてしまった。
何がおきたのかわからず、さすがにジャン‐ルイは途方に暮れていた。でも、もっと困っていたのは、さらに涙で弱らされているカエンだったのだが。
「イ、イミコ? 僕、何か悪い事でも言ったかな?」
「ううううんっ! ただ……あまりにも悲しくて、かわいそうで……」
どんどん進む妄想は、ひとりぼっちが多かった内気なイミコの楽しみのひとつ。
イミコは今、頭の中で、ジャン‐ルイの妹のアガタになっていた。
生まれつき体の弱いイミコは、家族に邪険にされ、薄暗い部屋の湿ったベッドのうえで、枕を濡らしながら日々を過ごすのだ。
部屋は座敷牢である。元々はミソでも置いていた蔵だったかも知れない。ミソくさい。
本当のアガタならばフランス人であり、どのように不幸でもミソくさい部屋にいるはずはないのだが、そこはイミコの妄想であるから、お国柄は無視である。
イミコの置かれた状況は、それだけで充分気が狂いそうなのだが、それだけではない。
黒猫が常に嫌な声で窓の向こうで泣いているのだ。その影は、満月の光に照らされて大きく映り、イミコを震え上がらせる。
窓は、高窓で覗く事も出来ず、そのうえ、鉄格子が入っている。イミコが脱走して、世間様の目に留まると、家族の恥になるからだ。
体の不自由なイミコが高窓から脱走するはずはないのだが、あくまでもこれはイミコの妄想であるから、そのような矛盾も矛盾ではない。
つまり、イミコは世界で一番不幸でかわいそうな女の子と同化していた。
そして、その不幸な女の子に手を差し伸べてくれるのは……。
「妹のことで泣いてくれるなんて……君は優しいんだね」
ジャン‐ルイは心動かされたようだった。
「ありがとう。でも、僕はきっと、妹も元気になれるって信じている」
すっと差し出される手。それは、ジャン‐ルイの手だった。
この後、イミコがほわんほわんに舞い上がっていたのは、説明する必要もないだろう。
だが、イミコがカエンのことを思い出したのは、帰りにエレベーターの魔法を使おうとした時である。
カエンはぺったんこになったまま、イミコの靴に貼り付いていたのだ。まるで困ったチャンが捨てた駅のホームのガムみたいに。