(3)
アガサがアリとイシャムに別れを告げ、ジャン‐ルイの許可書を使って学生牢を後にし、部屋に戻ってきた時、イミコはソファーのうえでぼーっとしていた。アガサにしてみれば、よくわからないけれどイミコとジャン‐ルイという友人を怒らせたということだけはわかっている。
だから、名残惜しそうなアリとイシャムに別れを告げた。そして、部屋のドアも恐る恐る開けて様子をうかがってからノックして入ったのだが。
テーブルの上にはロウソク風呂。激しい勢いでぼーぼーと燃え、中ではカエンが復活していた。
「あらら、アガタとフレイは、てっきりアラブの王族と今夜も過ごすのかと思っていました」
カエンがお風呂の中からロウをシャボンのようにすくい上げ、微笑んでみせた。
「アラブじゃねーって。バルバルだって!」
フレイは、ハタハタと飛んでいくとカエンにクレームを付けたが、カエンのほうは火の中で涼しそうな顔をしていた。
アガタの方は、フレイのように飛んで行くわけにもいかず、もじもじしながらイミコのほうへと歩み寄った。
「あ、あの……イミコ。心配かけてごめんね。あの、ありがとうね」
ところが、イミコの方は全然聞く耳を持っていない。相変わらず、ぼやんとしたままだった。
「???」
アガサはイミコの顔を覗き込み、目の前で手を振ってみたが無駄だった。
「イミコは今、妄想の中にスリップ中です。何をしても無駄ですよ」
カエンが、ロウを吹きながら言った。
そのロウは、見事にフレイの顔にかかり、まるでサンタクロースのようなヒゲ顔になった。
「うわっ! おいらにヒゲはいらねー!」
どうやら、フレイとイシャムでは好みが違うようである。
それはさておき、イミコの妄想とは……。
「それは、もちろん素敵な王子様と結婚することですよ」
カエンが笑いながら言った。笑っても、彼の場合、どこかこけしのように薄っぺらい表情なのだが。
「け、け、けっこんですって!」
アガサが素っ頓狂な声を上げると、カエンはくすくす笑う。
「イミコの場合、いつもネガティブ思考ですからね。たまに反動で極度な夢を見てしまうのです。今頃、ジャン‐ルイ・ド・ヴァンセンヌ殿と三三九度ですよ」
「さんさんくどぉ?」
アガサの声が更に裏返ったのは、驚いたからではなく、三三九度がわからなかったからである。
やっとロウのヒゲを外したフレイの顔に、カエンはぱっしっ! と、ロウの付いた手を着けた。
「でたな、オペラ座の怪人!」
「ふ、ふざけるな! このやろー!」
顔半分を白いロウで覆いながら、フレイが怒鳴った。
が、カエンは全然相手にしない。
「ジャンジャンがイミコの王子様ですから。よいではないですか、たまにそんな夢を見ても。もっとも……」
「全然、良くねぇ! おいらの顔は、隠すにゃもったいねーだろ!」
フレイはさっそうと仮面を脱ぎ捨てた。
だが、フレイの言葉を無視するのは、アガサだけではないらしい。カエンもそうだった。
「もっとも、バルバルの王様と結婚するアガタには、王子様との結婚なんて夢にも見ないでしょうけれども」
ずきん!
アガサの心臓が痛んだ音である。
そういえば、アガサは大事なことを忘れていた。
アリと結婚するということは、ファビアンと結婚できないということである。
元々とても叶いそうにない恋だったとしても、まともなお話もしたことがない状態で初恋をあきらめるなんて、とてもアガサらしくない事だった。
それが、たとえ三度目の初恋でも……。
ところが。
「まぁ、バルバル第四夫人になるのも、私なら考えものです」
一瞬、カエンの言葉がアガサの耳を素通りした。
「え? だよーん夫人?」
「ばーか、第四夫人だって! もが……」
フレイの顔に再びカエンがロウをかけて遊んだ。しかも両手でバシバシ! とである。
フレイの顔は、すっかりロウで覆われてしまった。
「十三日の金曜日。ジェイソン……」
そのような古いスプラッターな映画をアガサは知らない。だが、もごもごしながら言うフレイの言葉は、アガサにとって刃物よりも凶器だった。
「アリは、既に三人の妻がいるの! それ、おいら言ってなかったっけ?」
がーーーーん!
そんなの、聞いていないよ!
アガサは怒りで頭が爆発しそうだった。
「だ、だ、だ、だいよんふじんですってーーーー! ひ、ひどーーーい!」
アガサ・ブラウン十二歳。まだ、花もつぼみのカチカチの少女である。
だが、今カチカチといっているのは、アガサの歯ぎしりである。
うら若き乙女に、ハーレム入り?
道理で簡単にプロポーズしてくると思った!
涼しい顔して、アリはとんでもないプレイボーイだった。
「ひどくはありません。バルバル人は、その経済力に合わせて何人でも妻を娶る事が出来るのですから」
「それを確認しないねーさんが悪いの! アリのせいにするのは、責任転嫁だぜぃ!」
やっとロウを外し、まるでデスマスクのような面持ちになって、フレイはぜいぜい怒鳴った。
精霊のお説教は、もうたくさんのアガサである。
「私が悪くたって何だって、乙女心が傷つくじゃない!」
「誰が乙女?」
カエンとフレイの声が珍しくきれいに揃った。
「ごほん! とにかく、結婚に対する冒涜よ! 夢が壊されたわ!」
アガサは顔を真っ赤に染めながら、大声を出した。
「結婚はそんなに甘くはありません」
「結婚はそんなに甘くはねーよ!」
微妙にずれたが、再びカエンとフレイの声。さらにフレイの追い打ち。
「もとはといえば、結婚に妙な妄想を抱くねーさんが悪いの!」
確かに、ファビアンに夢中になっているアガサがアリのプロポーズをはっきりと断らなかったのは、結婚に夢をみたからである。
誰だって、突然絨毯に乗った王様が現れ、しかも美貌の持ち主で金持ちだったら、結婚の二文字に飛びついてしまうことだろう。
叶いそうにない厳しい恋――しかも、まだ知り合いにもなっていないような状況の冷たい王子様よりも、転がり込んだ夢のような優しい王様との結婚を考えても無理はない。
アガサが、バルバルの王宮でお菓子の家に住む自分を空想してしまったとしても、やむをえないことなのだ。
しかし、その主張をしたところで、精霊二匹対アガサ一人では、言い含められて終わりである。
「ええ! どうせ豪華絢爛幸せな結婚を夢見た私がばかばかばかばかーなのよ! 結婚は甘くはない!」
「ひどいわ! そんな……!」
思わずアガサは固まった。
今までぼんやりしていたイミコが、突然アガサの言葉に反応したからだ。
「結婚が甘くないってことは良く知っているわ。でも、ちょっとだけ夢を見たかっただけじゃないの。ひどいわ……」
ソファーのうえでイミコはしくしくしていた。
「え? あの? イミコ……」
慌てるアガサに、精霊二匹はニマニマしている。
「やったー」
「アガタが泣かせた」
「私は知りません」
「おいらもしーらねっと!」
どうやら幸せなイミコの結婚の夢は、アガサの怒鳴り声とともに醒めてしまったのだ。
こうなると、元々ネガティブ思考のイミコのこと、反動でいきなり落ち込むのである。
「朝食は青のりと玉子とネギを刻んだ納豆が一番だと思うのに、ジャンジャンは嫌いだって言うかも知れない。私、どうしたらいいの?」
「う……。それを悩むのは、気が早いような……」
「それに、私、紅茶よりも緑茶が好きなの。ジャンジャンは嫌いみたい。そんな事が積み重なって、離婚することになったら……」
結婚するよりも先に離婚の心配をしているとは、さすがイミコである。
だが、アガサにとってみれば、そのような心配は地球滅亡の危機に心を病んで自殺するよりもナンセンスである。
「結婚しなければ離婚もないじゃない!」
つい言ってしまった言葉が、イミコをますます号泣させた。
「わ、私、ジャンジャンと結婚できないんだわあ! わーーーーーん!」
「………絶句」
アガサは思わず頭が痛くなった。
頭を抱える目の前を、フレイとカエンが踊りながら飛んでいる。
「やーあった、やあった! アーガタがぁ、なーかせた!」
どうやら、今日は学生牢のほうがまだマシだった一日になりそうである。