天国へ行く前に。
2003年6月20日 掲載

草村 悠太
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天 国 へ 行 く 前 に

 三、   白の世界。

1.
 公園のベンチは、おおむね静かな環境だった。
 子供連れの主婦達が井戸端会議を開くこともなく、ボールを抱えたやかましい子供達の遊び場になることもない。
 ただ、どこに落ちているのか分からない餌をついばむ鳩やスズメたちが、足下をうろつくだけ。
 オレはここが気に入っていた。
 向こうにこっちが見えていないと分かっていても、自分が座っている場所に他人のケツが降りてくるのは気分が悪い。
 ぶつかることはないと分かっていても、顔の真ん中をカラーボールが突き抜けていくのは愉快じゃない。
 だから、そういうことから無縁なこの場所が、気に入っていたのだ。
 オレには、一切の記憶がない。
 自分の名前と、素性と、一生についての記憶が、ただのひとかけらも。
 生身の人間なら医者に行くところだが、あいにくと、死人を診る医者はない。
 どうにかして自分のことを知ろうとした時期もあった。
 自分は誰で、何をしていて、どう死んだのか。
 文字通りの「自分探し」だ。
 答えそのものは見つからなかったが、代わりに、いくつか興味深いことを知ることができた。
 そしてオレには、とにかく「待つ」ことだという選択肢だけが残った。
 それこそが、オレという存在についての諸問題を、解消する方法だ。
 かくしてオレは、待っている。
 「その人」か「その時」か、そのどっちかが訪れるのを。

 ところが、ここのところ、オレは待つ場所を変えようかと思い始めていた。
 いくら静かだろうが、人待ちをするには、ここはあまりに人通りが限られているということもある。
 が、その最たる理由は、別にあった。
 今ちょうど、その理由が、赤いランドセルを揺らして、オレに近づいてくるところだった。


2.
 奏子が手にしている、わら半紙のプリントには、「自分の街を探検してみよう」という、大きな文字。
 前を歩く友達のうち、一人は地図を握っていて、別の一人が目的地を順序別に書いた紙を持っていた。
 今日は7月の課外授業。
 空はずっと高い場所まで晴れ渡っていて、陽差しは、生まれたてのわき水みたいに透きとおっていた。
 一人で気ままに色々なところへ寄り道するのは好きだけど、最初からどこに行くかを計画して、みんなでぞろぞろ歩き回るのは好きじゃなかった。
 それが、全部で五人の班でもそう。
 退屈だしきゅうくつだし、さっきから何度もあくびが出た。
 みんなの後をいい加減について歩きながら、ぼんやりと辺りを見回す、奏子。
 ここらへんは、お金持ちの家がたくさん建っている。
 みんな、庭だけで奏子の家がすっぽり納まってしまいそうだ。
 学校の体育館と同じぐらいの広さがあるんじゃないかと思えるような、大きな家もあった。
 門も塀もすごく立派で、門を抜けたらまた道路があるような家ばかり。
 すごくどうでもよかった。
 どっちかといえば、奏子は空き地とか空きビルとかの方が、ずっと好きだ。
 またあくびが出る。
 奥歯でそれを押さえ込みながら、奏子の頭に何となく、お兄さんのことが浮かんだ。
 今頃、何してるんだろう。
 ずっとあの公園にいるのかな。
 それとも、昼間はどこか、別の場所にいるの?
 ずっと、あの「誰だか分からない友達」を、待ってるのかな。
 お兄ちゃんは、会いたいのかな。その人に。
 会って、何を話すんだろう――――
 奏子は、いつの間にか、立ち止まって空を見上げていた。
 空の大陸みたいな雲がいくつか、ゆっくりと流れている。
 ずっとずっと高いところを、糸の切れた風船が飛んでいて、それがまるで、雲の陸地に向かって泳ぐ、空の上のイルカみたいに思えた。
「…お兄ちゃんも、たまには、お空ながめたりするのかな」
 呟いたところで、はっと我に返る。
 あわてて顔を前に戻した。
 友達の背中が、向こうの角を曲がろうとしている。
 危ない。もう少しで置いていかれるところだった。
 小走りに駆け寄ろうとした、ちょうどその時。
 奏子の目の前に、ひょっこりと銀灰色の影が顔を出した。
 塀のすき間を優雅にすり抜け、音もなく奏子の前へ降り立ったのは、あの時の猫。
 アサガオみたいな薄紫色の瞳をしゃんと前に向け、自信たっぷりの足取りで横切っていく。
 いっしゅん背中に羽が見えたような気がするぐらいの軽やかさで塀に飛び乗り、そのまま、奏子の班の友達が曲がったのとは、正反対の方向へ――――。
「あぅっ…」
 奏子は迷った。
 曲がり角に立って、どんどん離れていく友達の背中と猫のしっぽとを見比べる。
 それから、
「先生、ごめんなさい」
小さな声で先に謝っておいて、急いで猫の後を追いかけ始めた。


 猫はどんどん歩いていく。
 奏子も置いていかれないよう、小走りでついていく。
 塀の上や植木の間を、ゆうゆうと歩く猫。
 まともに道路を歩いてくれない猫を目で追いながらも、早足の奏子。電信柱やポリバケツやガードレールに、何度もぶつかりそうになった。
 ひねりっぱなしで歩いているので、すぐに首が痛くなってくる。
 飛びついてつかまえて、「もっとゆっくり歩いてよ」と文句をつけたかったけれど、銀灰色の猫は、届きそうで届かない距離を縮めさせてはくれなかった。まるで、公園の鳩。
 猫が歩くのにあわせて、長くて細い、きれいなしっぽが、空中の見えない波紋をなぞるように、ゆるく波打っていた。
 誰も気付かないオーケストラの、指揮者みたい。
 奏子の頭に、ふとそんなことが思い浮かんだとき。
 猫は一瞬、歩いていた塀の上に立ち止まって、それから、ひょいとその向こうに消えてしまった。
「あっ…」
 思わず声を上げ、あわてて塀が途切れそうなところまで駆け出す、奏子。
 10メートルぐらい行ったところに、アーチ型の門が立っていた。
 内山。
 白い、でこぼこした石を積み上げて作った塀の真ん中、大きな門のところにかかった表札には、そう彫ってある。
 当たり前だけど、知っている人の家ではなかった。
 門の奥には広い庭があって、奏子の家の2倍か3倍はありそうな、大きな3階建ての家が建っている。
 庭のわき、家の斜め前ぐらいに、車を停めるスペースがあって、黒くてりっぱな感じのする車が一台、停めてあった。
 お昼ちょっと過ぎのこの時間、家の方に誰かがいる様子はない。
 奏子は門に顔をくっつけて、銀灰色の猫を探した。
 フェルトを敷きつめたみたいな芝生の上に、あの猫の姿はなかった。
 庭を囲む塀よりもずっと高いところまで伸びた植木の周りや、茶色いタイルでおおわれた家のところや、ピカピカ光る黒い車の下にも、猫はいない。
 また、消えてしまった。
 小さくため息をつく、奏子。
 猫って、なんであんなに自由に歩き回れるんだろう。まるで、植え込みの間とか、ブロック塀の下とか、畑の野菜の根本とかに、猫たちだけの、秘密のドアでも持ってるみたい。
 奏子は未練がましく、ひんやりした門の鉄柱をなでた。
 さすがに、知らない人の家にもぐり込んでまで、猫を探す気にはなれない。まして、インターホンで中の人に声をかけるなんて、なお気が引ける。
「あーぁ」
 奏子はため息混じりにぼやき声を上げながら、くるりと門に背を向けて、寄りかかった。
 けっきょく、また迷子になってしまった。猫には見事に逃げられてしまったし、無事に学校や家に戻れても、きっとものすごく怒られるのだろう。
 ただでさえ「寄り道はしないように」って言われているのに、課外授業の時にやらかしてしまったのだから。
「…あーぁ…」
 とても情けない気持ちになって、奏子はずるずると門の前に座り込んだ。
 ここで待っていれば、いずれこの家の人が、誰か帰ってきてくれるだろう。そうしたら、訳を話して、学校までの帰り方を聞こう。
 奏子はそう決めると、門に寄りかかったまま、膝を抱えた。


3.
 やさしく透きとおった陽差しと、やわらかな風のせいなのだと思う。
 そっと肩をゆすられたとき、奏子はうずくまったまま、小さな寝息を立てていた。
「きみ…」
 夢うつつの耳に、ずいぶん困ったような声が聞こえてくる。
 むずかり声を上げながら、奏子は目を開けた。
 見たことのない石畳が視界に映り、寝ぼけた頭で首をひねる。気持ちのいい風がそっと吹き寄せてきて、奏子の左手に握られたわら半紙を、かさかさと鳴らした。
 目をやってみると、飛び込んでくる、「自分の街を探検してみよう」の文字。
 やっと自分の置かれた状況を思い出して、奏子はぱっと顔を上げた。
 辺りは少しだけ夕方に近づいていて、空の色が、最初にここに来たときよりも、だいぶ深くなっていた。どうも、あの門の前に座り込み、アーチの柱に寄りかかって眠ってしまったらしい。
 目の前の道路に自転車が一台止まっている他には、人通りはない。
 もちろん、猫もいない。
 奏子の前には、お兄さんが一人立っていて、その後ろには、奏子と同じぐらいの女の子。
 腰をかがめて、奏子の肩をゆすっていたのは、そのお兄さんだった。
 奏子と目が合うと、ものすごく驚いたような表情になって、呟きをもらす。
「さなえ…?」
 訳が分からなくて、交互に二人へ目を向ける、奏子。
「…あの…わたし…宮国奏子って、いいます…」
 他にどうしたらいいのか思いつかずに、とりあえず、そう口を開く。
 お兄さんは、奏子の肩にあてていた手を離して、上体を起こした。
「…カナコちゃん…?」
 確かめるように繰り返すお兄さんに、奏子はうなずきながら、立ち上がった。座り込んでいたキュロットのお尻を、ぱたぱたはたく。
 お兄さんが、小さく息をつきながら、すとんと肩を落とした。
 目のところが、少しだけ笑っている。
 何だか、ほっとしているように見えた。
「迷子、かな?」
「う…」
 前置き抜きで、いきなりズバリ言い当てられて、奏子はたじろいだ。
 お兄さんは、一人でうんうんとうなずきながら、彼女の隣に立ち、アーチにくっついた電卓みたいなものをいじり始めた。
 ついでに、
「迷子の迷子のカナコちゃん あなたのお家はどこですか、と」
どこかで聞いたことのあるような歌を、口ずさみながら。
 女の子の方は、お兄さんの一歩後ろに立ったまま、奏子の方を面白そうに見つめている。
 カチン、と、鉄の棒が外れる音がして、門が自動的に開きだした。
 お兄さんが、奏子に顔を向けてくる。
「入りなよ、カナコちゃん。
 内山タクシーのリムジンサービスで、ドアtoドアだ」
 言っていることの半分も理解できない。
 顔中に「?」を浮かべている奏子にお構いなく、開いた門をすたすたと抜けていく、お兄さん。
 女の子は、おかしそうにクスクス笑いをもらしている。
「…なんて言ってるのか、分かった…?」
 情けない顔で問いかける奏子に、彼女はこくりとうなずいた。
「車でカナコちゃんのところまで送ってあげるから、とりあえず一緒に家に入りなさいって」
 人差し指を振りふり、教えてくれる。
 何だか、指の先からつま先まで、バネでも入ってるみたいによく動く子だ。
 元気なバンビっていうのが、一番近いかも。
 そんなことを思いながら、奏子は「ふうん」とうなずいた。
「ね、なんだっていいんだけど、あんまりぼんやりしてると、門、閉まっちゃうわよ」
 そう指摘されるのを待っていたみたいに、今度も自動で閉まり始める、門。
 奏子はあわてて中に飛び込んだ。
 女の子も、半歩後からついてくる。
 お兄さんは、庭の真ん中ぐらいで、待っていてくれた。
「また迷子になったら、大変だからな」
 何となく意地悪な笑顔でそう言うお兄さんに、女の子が、またクスクスと笑った。
 いくらなんだって、庭では迷子になりようがない。
 奏子は、思いきりむくれた。
「もっと広かったら、なれるのに」
 精一杯のイヤミを返したのに、お兄さんは声を上げて笑いだした。


「おじゃましまーす…」
 小さく声をかけながら、お兄さんの後について、玄関に入る。
 広々してるってこと以外、普通の家と変わらなかった。
 お兄さんは靴を脱ぎ、家に上がると、
「廊下を真っ直ぐ行った、2番目のガラスドアが、リビングだ。
 どうせ誰も居ないから、緊張しなくていい。余計なものに触らないで、ソファに座ってじっとしてること。
 オレはすぐに戻る。
 OK?」
階段に片足をかけて、そう告げる。
 奏子はこくこくうなずいた。


「ここよ」
 女の子の案内で、リビングへ。
 ガラスドアは片方だけ開いていて、奏子はそこから身体を滑り込ませた。
 すごく横幅の広い、大きなテレビが置いてあって、その周りにソファが並んでいる。
 入り口近くには、四人がけのテーブル。
 反対側の奥には、それだけで奏子の家の一部屋分ぐらいありそうな、広々キッチン。
「…ここで運動会ができそう…」
 思わず呟く奏子。
 女の子は軽く笑いながら、先に立って歩き、ソファに腰を下ろした。
「お兄ちゃん、荷物置いて着替えてるだけだと思うから、すぐに降りてくるよ」
 顔だけこちらに向けて、そう言う。
 うなずきを返して、ソファに歩み寄り、同じように身体を預ける奏子。わずかな音を立てて、全身がやさしく沈み込む。
 そこで、ようやく気がついた。
 奏子はそろそろと顔を横に向け、女の子の方を見る。
 彼女はきょとんとした表情で、首を傾げてきた。
「どうかした?」
 歳は奏子と同じぐらい。体つきは、むしろ彼女の方が元気そうなほど。
 トラックでもプールでも、すぐに奏子を引き離してしまえそうな、はつらつとした身体。
 でも、その彼女が座っているはずのソファは、一センチも沈んでいなかった。
 ようやく奏子の眼差しが意味するところに気付いたようで、彼女は「あらら」と声をもらした。
「見ただけじゃ、分からなかったんだ」
 女の子の声は、相変わらず明るい。
「…分かんないよ、そんなの…」
 首を振る、奏子。
「そっか。ユーレイみたいに、半透明で映ってるのかと思ってた」
 少し期待はずれだったみたいに、鼻の頭をかりかりとかいてから、女の子は、すいと立ち上がった。
「あたし、内山さなえ。
 初めまして、カナコちゃん。よろしくね」
「う…うん…こちらこそ」
 よろしくと言われても、返事に困ってしまう。
 とりあえず奏子は、曖昧な言葉を返しておいた。
 さなえちゃんが、ちょっとドアの向こうをうかがう仕草を見せてから、「ねぇ」と顔を寄せてくる。
「カナコちゃんて、小学生よね?
 学校って、どう? 楽しい?」
「どうって…」
 唐突な質問に、面食らう奏子。
 さなえちゃんは、興味津々の表情で、こっちを見つめていた。
「…普通…かな」
 奏子が答えると、さなえちゃんの眉が、ぴくりと上がる。
「普通――――?」
 ものすごく不満そう。
「楽しいときもあるけど、そうじゃないときもあるし…」
「そりゃ当たり前。
 でも、楽しいことの方が多いんじゃない?
 先生に色々なことを教えてもらえるし、友達と思い切り遊べるし、おいしい給食もあるし。
 色んな委員会とか、クラブ活動とか、あるんでしょ?」
 一息にまくし立てる、さなえちゃん。
「…うん。あるけど…」
「何があるって?」
 いきなり、頭の上から声が降ってきた。
 びっくりして顔を上げる。
 お兄さんだ。
 Tシャツの上に着ている服が、さっきとは変わっていて、片手にぶあつい地図を持っている。
「小学校の話よ。
 お兄ちゃんの学校、大学だから、あたしにはあんまり面白くないんだもの」
 同じように彼を見上げながら、さなえちゃん。
「携帯使ってたってわけでもなさそうだし、誰と話してたんだ?」
 お兄さんは、ぐるっとソファを回り込んで、奏子の前に立った。
 ぶつかりそうになって、さなえちゃんがひょいと飛び退く。
「あぶないなぁ、よく見て歩いてよ」
 唇をとがらせる、さなえちゃん。
 お兄さんは、どかりとソファに腰を下ろし、こっちを見つめる。
 すぐ後ろに立っているさなえちゃんに気付いた様子は、まるでなし。
「…えっ…と…ひとりごと、です…」
 他に言いようがない。
 答えた奏子に、お兄さんは小さく笑って肩をすくめた。
 さなえちゃんと、仕草がよく似ていた。
「なら、いい。
 さて、カナコちゃん。どこまで送ろうか?」
 膝の上に地図帳を開いて、尋ねてくる。
 奏子はおずおずと首を横に振った。
「あの、道だけ教えてくれれば、自分で帰りますから…」
「曲がり角が二つ以上あるなら、却下だ」
 小学校から奏子の家まで帰るだけだって、曲がり角は二つ以上ある。
 よっぽど信用されてないみたいだ。
「…ほんとに、大丈夫だから…」
「方向音痴の『大丈夫』ぐらいあてにならないもんはない。
 いいから、行き先だけ教えなさい。大丈夫かどうかは、それを見て決めるから」
 聞き分けのない妹に言って聞かせるみたいに、お兄さん。
 その背中で、さなえちゃんが声を抑えて笑っていた。
 ため息をつく。
 それから、観念して学校の名前を答えた。
「学校に戻るのか。サボったのか?」
 お兄さんは、少し驚いたような声を上げた。
「課外授業で、この近くまで来てて…」
「道に迷ったと。サボったわけじゃないんだな」
 奏子はうなずく。
「そうか。ちなみにオレはサボった。
 その道の言葉では、『授業を切る』という」
 人差し指を立てて、お兄さん。
 どう言っていいのか分からなくて、奏子の眉毛が寄った。
「…まあ、いい。
 サボりじゃないなら、学校に連絡しないとな」
 お兄さんはそう言うと、ソファを立ち、電話の子機を持って、また戻ってくる。
 地図帳の最後のページを調べて、小学校の電話番号を見つけだすと、すぐにダイヤルし始めた。
 呼び出し音が聞こえてくる。
「そうだ、学年とクラスは? へたな話し方をすると、誘拐犯と間違われる」
 きっと、ものすごく怒られるんだろうな…
 奏子は半分以上あきらめた気持ちを抱きながら、学年とクラスと、出席番号まで答えた。


4.
「優しい先生でよかったな」
 受話器を置きながら、お兄さんがそう言った。
 「ん」とうなずく、奏子。
 電話に出たのは、たまたま職員室にいた、笹原先生だった。
 奏子がいなくなったことは、もう学校中の先生が知っていて、みんなで学校の外を探し回っていたらしい。
「今度は何を見つけたの?」
 先生は、奏子に代わると、すぐにそう尋ねてきた。
「…分かんない」
 それが、奏子の答え。
 先生は笑いながら、「早く帰ってくるのよ。今日はもう、寄り道は、なし」と言って、またお兄さんに代わるようにと告げた。
 それから、少しの間、お兄さんと笹原先生は話をしていた。
 「はぁ」とか「そうですね」とか、お兄さんは相づちを打つばっかりで、何の話なのかは分からなかった。
 そうして、電話を切ってから、お兄さんはああ言ったのだ。
「さ、すぐに出るぞ。
 あの先生、30分後までに校門前にカナコちゃんの姿がなかったら、オレを誘拐容疑で指名手配犯にすると来やがった」
「うわ…」
 思わず、さなえちゃんとそろって顔をしかめる。
 笹原先生の脅しは、相変わらず強烈らしい。
 お兄さんはすぐにリビングを出て、玄関に向かおうとした。
「…あの」
 情けない声で、引き留める奏子。
「? 何だ」
「…お手洗い、借りていい?」
 もじもじと尋ねた奏子に、お兄さんは、うなずいた。
「この部屋を出て、すぐ左だ。
 5分以内に出てくること。オレは先に行って、車の用意をしてるから」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
 奏子はちょこんと頭を下げる。
 お兄さんの顔が――――すっと曇った。
「…お兄ちゃんて呼ぶのは、やめてくれ」
「え…?
 でも、名前、知らないし…」
「内山総司」
「じゃあ…
 えっと、ありがとう、総司さん」
 改めて頭を下げると、ようやくお兄さんの表情が和らいだ。


「ここよ」
 また、さなえちゃんが案内してくれた。
 奏子の足でも5歩ぐらい。おまけに、英語で「トイレット」と書かれた、かわいい木の看板まで下げられてる。
「ちゃんとここで待ってるから。心配しないでいいよ」
 兄妹そろって、奏子のことをとんでもない方向音痴だと思っているらしい。
「うん…」
 何となく、素直にお礼を言いたくない。
 奏子はドアを閉めて、腰を下ろした。
「…あのね、さなえちゃん」
 ドアの外に立っているはずの彼女に、声をかける。
「なぁに?」
「総司さん、なんで『お兄ちゃん』って呼ばれたくないの?」
 まずは、遠回しな話題から。
 軽く声を立てて、さなえちゃんが笑った。
「そりゃそうよ。
 お兄ちゃんをお兄ちゃんって呼んでいいのは、あたしだけだもの」
「…へえ」
 確かに、彼は奏子の本当のお兄さんではないが。
 いまいち彼女の理屈が分からなくて、奏子は曖昧な相づちを打つ。
 それから、一つ息をついた。
「…総司さんにはさ、さなえちゃんのこと、見えてないんだよね」
「…だね」
 さなえちゃんの答えが、少し遅れた。
 ドア越しにくぐもった声からは、彼女の表情まではくみ取りきれない。
「…つらい?」
「どうかな」
 さなえちゃんの言い方が、あんまりにもさらりとしていたので、かえって次の言葉が見つからなかった。
 兄弟がいないせいか、公園のお兄さんのことが、思い浮かぶ。
 もし、彼に奏子のことが見えていなかったら…?
「…奏子は、つらいな…」
 意識しないまま、言葉がもれる。
 ドアを挟んで、黙り込む二人。
「――――あたしね…」
 ふと、向こう側で、さなえちゃんが口を開いた。
「…本当は、もらわれっ子なんだ」
 息を飲む、奏子。
「お兄ちゃんのお父さんとお母さんが、あたしを引き取って育ててくれたの。
 本当の親はね、あたしを産んだときと、あたしの病気が分かったときに、死んじゃったから」
「…病気?」
「そう。
 聞いたことあるかな。筋ジストロフィーって。
 生まれつきで、かかっちゃう病気なんだけど」
「…治らない病気なの…?」
 問い返した奏子に、さなえちゃんは、ドアの向こうで小さく笑った。
「うん。治んない。
 全身の筋肉が、ちょっとずつ弱っていって、最後には心臓とか呼吸器とかが動かなくなって、死んじゃうの」
「…苦しいね」
「…そうだね。
 でも、あたしはその前に、合併症で死んじゃったから」
「ガッペイショウ?」
「一緒に起きる、別の病気のこと」
「それは、苦しくなかった?」
「爽快な気分じゃなかったよ」
 少し固い声でそう答えてから、さなえちゃんは、「ほうっ」と丸くため息をついた。
「でもね、本当につらいことは、別にあったんだ」
「…別に?」
「そう」
 ドア越しでも、彼女がうなずいたのが、見えるような気がした。
「さなえちゃんが総司さんの隣にいる理由は、それ?」
 少し唐突すぎたのだろうか。
 さなえちゃんは「え?」と小さく声を上げてから、
「…さあ。どうだろう。
 それだけじゃないような気もするけど…」
ちょっととまどったように、答える。
 それから、ちょっとため息をついて、
「お兄ちゃん、戻って来ちゃった。ここまでだね。
 お話しできて楽しかった。
 ありがとう、カナコちゃん」
また、あの明るい声でそう告げた。
 奏子には言葉がなくて、「うん」と、喉の奥で答えるだけだった。
 一拍遅れて、ドアがノックされる。
「今度はトイレで迷子になったのか?」
 総司さんの声。
「…ちゃんといるよー」
 本当に、人を何だと思ってるんだか。
「僭越ながら、急いでくれよ、お姫様。
 お尋ね者にはなりたくない」
 どこまで本気なのか分からない、総司さんの言葉。奏子は小さくため息をついてから、立ち上がった。


5.
 総司さんが用意しておいてくれた車に乗って、学校へ向かう。
 前の席に、奏子と総司さん。さなえちゃんは、後ろの席に座って、ずっと目を閉じていた。寝ているようにも見える。
 リビングにあったソファにも負けないような、ふかふかのシート。でもやっぱり、それがさなえちゃんの重みを受けて沈み込むことはなかった。
 クラシック音楽がゆったりと流れている以外、車の中に音はなかった。時たま、カーナビが「何メートル先を曲がって下さい」と告げるだけ。
 助手席に座った奏子は、シートベルトを締めている。
 総司さんがいちばん低い位置に調節し直してくれたのに、うっかりすると首に引っかかりそうだ。
「…チャイルドシートが要るな」
 お手上げだというように呟いた彼に、また傷つけられた。


 車は、水の上をすべるように、なめらかに走っていく。
 総司さんとさなえちゃんの家があった住宅街を抜け、大きな木々がトンネルをつくっている坂道を通り、商店街へ。
 辺りの景色に、うっすらとではあるが、見覚えがあった。
 ここからなら、学校はそう遠くないはず。
 そう思うと、奏子はつばをこくんと飲み込んで、口を開いた。後ろの席のさなえちゃんが、いやでも気になった。
「総司さん」
「なんだ?」
「…最初に、奏子のことを見た時ね、総司さん、「さなえ」って、言ったでしょ」
 車に乗ったときから、胸の中で何度も予行演習していたとおり、言葉を紡いでいく。
「…ああ」
 真っ直ぐ前を向いたままで、総司さん。
 奏子は、気付かれないように、だけど深く、息を吸い込んだ。
「さなえちゃんって、誰なの?」
 総司さんが、ちらりと視線を向けてくる。
 それから、ゆっくりと息をついた。
「…妹だった。三年前まで」
 その言葉に込められた響きに、心臓が、ぎゅうっとちぢんだような気がする。
 分かっていたことなのに、訊いちゃいけなかったんだと強く思い知らされて、
「…ごめんね…」
用意していたはずの言葉を告げた唇が、小さくわなないた。
 でも、総司さんは、そんな奏子にやさしく首を横に振った。
「いや、いいんだ。
 オレは、ずっと一人っ子でな。いつも、下の弟妹が欲しいと思ってたんだ。
 そんなある日、オレが小学生の頃、両親が、知り合いの娘を引き取った」
 信号が赤に変わり、車が静かに止まる。
 総司さんは、よく分からないレバーを手早く動かしてから、奏子の方へ顔を向けた。
「それが、さなえだった。
 確か、まだ三歳とか四歳とか、そのぐらいだ。
 オレは喜んだね。待望の妹ができたわけだからな。
 さなえは、何にでもすぐ興味を持つ、よく笑う女の子だった」
 総司さんの目が、やさしく細まる。
「もっとも、ときどき親のことを思いだして、ぐすぐす泣いてるときもあった。
 オレは、ここぞとばかりにお兄ちゃんぶって、慰めようとした。
 頼もしい兄貴だってところを見せたかったわけだし、その自信もあった。
 けど――――いざ、泣きじゃくるさなえを前にすると、さあ、どうしたらいいのか分からない。
 仕方ないから、いないいないばあをした」
「いないいないばあって、赤ちゃんにする、あれ?」
 さすがに少し驚いて、奏子は聞き返した。
 総司さんは、まじめくさった顔のまま、うなずく。
「そうだ」
「…だって、四歳って言ったら、けっこうおっきいよねぇ…」
 少なくとも、ベビーカーはとっくの昔に抜け出しているはずだ。
 だけど、総司さんは首を横に振った。
 再び、車が動き始める。
 総司さんは、前に向き直った。
「もちろん、オレには子育ての経験なんてなかったし、その場で他のあやし方を思いつかなかったってこともある。
 でもな、さなえは…小さかったんだ。
 本当に。
 その時も、まだ、ベビーカーとベッドだけが、さなえの世界だった」
「…どういうこと…?」
 奏子は眉根を寄せて、総司さんをのぞき込んだ。
「…さなえは、自分の足では立てなかった。ハイハイがやっとで、ものを掴むのもおぼつかなかった。
 何かを指さそうとしても、腕がフラフラして、どこに伸ばしているのか分からないことがしょっちゅうだった。
 首の据わりが悪くて、ベビーカーがちょっと段差に引っかかると、頭だけ転がり落ちそうだった。
 お話を聞くのが大好きで、じっと耳を傾けているのに…自分から、ちゃんとした言葉を喋ることはなかった…」
 奏子は、きゅっと下唇をかんだ。
「…でも、オレは、小さい子供っていうのは、そういうものなんだと思ってた。
 立ち上がろうとすればふらつくし、スプーンは落とすし、首は定まらないものなんだと思ってた。
 人の話を聞くことはできても、自分の気持ちを言葉にすることはできないものなんだと、思っていた…
 小さな子供にきちんと接したことなんてなかったし、何歳で何ができるようになるのが普通なのかなんて、何にも知らなかった。
 さなえが…病気だとは、知らなかったんだ…」
「…筋ジストロフィー」
 総司さんが、きつく奥歯を咬んだのが、分かった。
「見舞いには、いつも、本を持っていった。もちろん、さなえは自分じゃ読めないから、オレが読んだ。
 病院の、真っ白いベッドの上で、顔も動かせなくなったさなえが何を見ていたのか…今でも分からない。
 オレの読む本を、どんな気持ちで聞いていたのかも、分からない…
 本当はどんな本が好きで、どんなことに興味があるのか、さなえの口から聞くことはできなかった。
 オレは…最後まで、さなえの声で、『お兄ちゃん』って呼んでもらったことが、ないんだ」
 そこまでで、総司さんは口をつぐむ。
 不意に、思い切り、ハンドルを殴った。
「総司さん…」
「…悪い。怖かったか?」
 奏子は首を振った。
「もし…もしもだよ、さなえちゃんに、今でも届くとしたら…
 総司さんは、何をお話ししたい?」
 その言葉に、一瞬大きく息を吸い込んでから、深々と、指の先まで空気が詰まっていたみたいに、総司さんは息を吐いた。
 そして、
「…さなえには…一つだけ、訊きたいことがある」
「…なぁに?」
 床に散らばったガラスのかけらの中から、一粒のダイヤを探そうとするみたいに。
 総司さんは、ゆっくりと言葉を選びながら、口を開いた。
「…さなえは、11歳で死んだ。
 来年の奏子ちゃんと、同じ歳で…今の俺の、半分ちょっとの歳だ。
 生涯、自分だけの力で歩くことも、食べることも、話すこともできなかった」
 分かる? と、総司さんが横目で奏子を見た。
「与えられた時間は短くて、許されたことは少なかった。
 さなえの人生は…とてもとても、小さかったんだ。
 …その、人生に…さなえの人生に、どんな幸せがあったのか…知りたい」
 車の窓から、学校が見えた。
 総司さんがハンドルを切ると、車はスムーズに最後のカーブを曲がって、学校前の駐車場に入っていく。
 空いているスペースへ、上手に車を入れると、エンジンを切った。
 音楽と、低く車内を満たしていたエンジンの音とが、消える。
「…着いたぞ」
 総司さんが、シートベルトを外してくれた。
 こくりとうなずいて、ドアを開ける。
 校門までは、20メートルぐらい。
 駐車場には、先生や友達の姿はなかった。
 奏子は、ドアに片手をかけたまま、総司さんと――――それからさなえちゃんの方を振り返る。
 総司さんは、少しだけおどけたように、首を振った。
「校門はあっち。迷子になるなよ。
 ササハラ先生に、よろしく」
 さなえちゃんは、乗ったときと同じ姿勢のまま、じっと目を閉じていた。


 校門のところで、笹原先生が待っていてくれた。
 ちぢこまる奏子を、いつもの優しい微笑みで迎えて、職員室までついてきてくれる。
 職員室では、担任の先生に、すごく怒られた。
 奏子のお母さんよりずっと年上の先生は、平安美人みたいなほっぺたを揺らして、何度も何度もおんなじお小言を繰り返す。
 奏子も、何度も「ごめんなさい」を繰り返した。
 教室では、奏子の班の友達が、居残りをくらっていた。
 女の子達は、ほっとしたような顔で奏子を迎えてくれたけど、男の子達には睨まれた。
 家に帰ると、今度はお母さんが待っていた。
 担任の先生から電話があって、全部聞いてしまったらしい。
 ぎゅっと抱きしめられてから、おでこの両わきに、グリグリと「梅干し」を食らってしまった。
 お母さんが、あんまり怒ってはいないときの、お仕置きだった。


6.
 それから、お気に入りのテレビがある日をはさんで、三日あとの土曜日のこと。
「やっと見つけた…」
 さなえちゃんが、頬をほころばせてそう言ったとき。
 奏子は笹原先生と一緒に、あの小さな花壇をながめていた。
「さなえちゃん…」
 驚いて立ち上がった奏子の口から、言葉がもれた。
 花壇の前にしゃがんだまま、笹原先生が顔を向けてくる。
「どうかしたの?」
「え?
 …えっ…と」
 さなえちゃんと先生、二人の顔を代わる代わる見ながら、おろおろする奏子。
 先生は、にっこり微笑んだ。
「…いいわ。
 先生、保健室にいるからね。ご用が済んだら、来てちょうだい」
 立ち上がり、かがみ込むようにして奏子の髪をくしゃくしゃとなでてから、校舎の中に戻っていく。
 奏子はその後ろ姿を少しの間見送っていてから、さなえちゃんの方に向き直った。
 ほんのり笑顔を浮かべていたけど、真っ直ぐな瞳が、しっかり奏子を捉えていた。
「探してたの?」
 おずおずと、奏子。
 さなえちゃんは、大きく一つうなずいて、奏子に一歩近づいた。
「…あたしね」
 口を開く。
「あれから、ずっと考えてたの。あたしが、お兄ちゃんの隣で、何をしたいと願っているんだろうって」
「…うん」
 目の奥まで見つめようとするみたいな眼差しに、少し押されながら、奏子はうなずいた。
「…もう、何も怖くはないんだ。
 これ以上痛い思いをすることはないし、これ以上病気で苦しむこともない。
 これ以上、死ぬこともない」
「…うん」
「でもね、すごく、悲しいの。
 あたしのことを悔やんで、悲しんでいるお兄ちゃんの側にいるのは、すごくうれしくて――――悲しい」
 さなえちゃんは、ぽろぽろ泣きながら、微笑んでいた。
「カナコちゃん、力を貸して。
 カナコちゃんの手を借りられれば、きっと、お兄ちゃんの重荷を、もっと軽くしてあげられるはずだから…」


 保健室のドアを、そっと開けた。
 入り口すぐわきの机で、笹原先生はぶあつい本を読んでいた。
 奏子が入ってきたのに気がつくと、ぱたんと本を閉じて、イスごとこっちを向く。
「…用は、済んだ?」
 奏子は小さくうなずいた。
「先生、あのね」
「なぁに」
 胸の前で両手を握り、「おねだりポーズ」をすると、先生が少し首を傾げた。
「…テレホンカード、持ってますか?」
「持ってるわよ。
 電話、使うの?」
 また、うなずく。
「だったら、職員室でかけたらいいじゃない。あれならタダだから」
 今度はぶんぶん首を横に振った。
「あの…あんまり、他の人には…」
 特に、先生達には聞かれたくない。
 副担任の先生なんか、前に「かなこ」を「そうこ」と間違えただけじゃなく、「読みづらい名前だな」と笑い飛ばしてくれた。
 笹原先生は笑いながらイスを立って、ハンドバックから財布を出すと、テレホンカードを一枚差し出してくれた。
 かわいい子犬が写っていて、黒文字で「50度数」と書いてある。
「…奏子ちゃんにあげるわ。
 大事に使ってあげて」
 奏子は、そのカードを両手で大事に受け取ると、ペコリと頭を下げた。


 学校から少し離れたところにある、電話ボックス。
 奏子はさなえちゃんと一緒にボックスへ入ると、深呼吸した。
「…うまくいくと、思う?」
 尋ねる奏子に、さなえちゃんはきゅっと唇を結んで、首を振った。
「分からないけど、やってみなきゃ」
「…うん」
 うなずき、背伸びして受話器を取る。
 テレホンカードを入れると、さなえちゃんが言うとおりに、ボタンを押していった。
 最後の一つを押し終えると、いくつかの線をつないで確かめているみたいな、プツプツいう音が聞こえてくる。
 さなえちゃんも、横から耳をくっつけてきた。
 呼び出し音が鳴る。
 鳴る。
 鳴る。
『――――もしもし』
 受話器から、総司さんの声が飛び込んできた。
 奏子の心臓が、どきんと跳ね上がる。
『…? もしもーし』
 奏子が持っている受話器に頭をくっつけるようにして、その声を聞いているさなえちゃんが、つぶやいた。
――お兄ちゃん…――
 受話器を握りしめたまま、奏子はごくりとつばを飲んだ。さなえちゃんが、こっちをぐっと見つめてくる。
 思い詰めたような顔だった。「言って」と、声にせず、奏子に告げていた。
 緊張して、うまく動かない口をどうにか開く、奏子。
「…お兄ちゃん…」
 声がかすれた。
『え?』
 ぽかんとしたような、総司さんの声。
「分かんない…?」
『…あー、えーと。
 失礼ですけど、どちら様?』
 もどかしそうに、さなえちゃんが受話器に答える。
――あたしだよ! さなえだよ!――
 言わなくちゃいけない。分かっていても、奏子はためらわずにいられなかった。
「…さなえだよ」
 こんなに重たい名前を口に出したことはなかった。
 こんなに声が詰まったこともなかった。
 目を上げる。
 すぐ隣に、同じ受話器に耳を当てている、さなえちゃんの顔があった。
 彼女も、奏子を見ていた。
 (お願い)
 その瞳が、そう言っている。
『…どういうことだ?』
 電話の向こうの、総司さんの声が、少し尖っていた。
 いたずらだと思われているのかも知れない。電話を握りしめているのが奏子だっていうことも、気がついているのかも知れない。
 でも、奏子は、震える喉で、一生懸命話し始めた。
 すぐ隣で、さなえちゃんが囁くのと、同じ言葉を。

「――お兄ちゃん。いつも病院に来てくれて、ありがとう」

「――あたしのせいで、あんまり、友達とも遊べなかったよね」

「――お兄ちゃんが読んでくれた本、ずっと覚えてるよ」

「――男の子が、空を飛ぶ帆船に乗るお話、すごく好きだった」

「――もし、もう少しでも身体が動いたら、お兄ちゃんとたくさん話ができたのにね」

「――お兄ちゃんがおいしいって言ってたラーメン屋さん、行ってみたかったな」

「――お料理、してみたかった」

「――それで、お兄ちゃんやお父さん達に、食べさせてあげるの」

「――毎日、お母さんと一緒に、ごはん作るのよ」

「――修学旅行の写真、きれいだったね」

「――あたしも、あんな山に、登ってみたかったな」

「――中学三年の時から、冬の間は、いつも同じマフラーだったね」

「――彼女からのプレゼント?」

「――素敵な人だった?」

「――見てみたかったな」

 頭の芯がぼうっと熱を持って、自分が何を言っているのか、だんだん分からなくなっていった。
 ただ、さなえちゃんの言葉を、熱っぽい息と一緒に繰り返す。
 聞き取ってから繰り返していたものが、いつの間にか、感じ取れるまま口に出すようになっていた。さなえちゃんの想いが、記憶が、思い出が、奏子の中に流れ込んでくるようだった。
 電話の向こうの総司さんが、どんな顔をしているのか、返事のない受話器からは読みとれない。

「――お兄ちゃん?」
 さなえちゃんの呼びかけに、やっと、総司さんの声が返ってきた。
『…なんだ?』
「ちゃんと、届いてるよね。あたしの声。あたしの言葉。
 お兄ちゃんが、たくさん、あたしに伝えてくれたのとおんなじように…あたしの気持ちも、ちゃんとお兄ちゃんに、届いてるよね」
 さなえちゃんは、美術の教科書で見たマリア様みたいな、おだやかで優しい顔をしていた。
 総司さんのこぼした、かすれたため息が、耳元の受話器から流れてくる。
『…さなえ…』
「…お兄ちゃん。
 あたしは、自分の力じゃあんまりいろいろなことができなかったけど、その代わり、他の人たちの力を信じることができたよ。
 お兄ちゃんや、お父さんや、お母さんがいてくれた、家と病室は、優しくて、あったかい世界だった。自分の代わりに、他の誰かを――――大切な人たちを信じることができる世界だから。
 本当はもっと強くなって、もっといろいろな世界を見て、もっと生きていたかったけど…それでも、この病気が私の生命を奪って、そのときに…そのときに、私のことを心配してくれる人が一人でもいて、私のそばにずっとついててくれる人が一人でもいて、私がひとりぼっちじゃなくて…心から、「ありがとう」って言える人が、言いたい人が、一人でもいてくれたら…それで、私の勝ち。病気の負け。
 私の人生は、短くて小さかったかも知れないけど…私は、幸せだよ」
 総司さんの声が、小さく、低く、受話器を震わせた。
「…お兄ちゃん。
 本当に、ありがとう。
 これだけ、どうしても伝えたかったの。
 ごめんなさいなんて、言わないよ。
 あたし、お兄ちゃんやお父さんやお母さんと一緒にいられて、すごくうれしかったから、ごめんなさいなんて、言わない」
 さなえちゃんは、静かに目を閉じて、電話機へ頭を下げた。
「本当にありがとう。
 …お兄ちゃん。
 あたし、もう、行くね…」
『…ああ…そうだな』
 答えが返ってくる。
 顔は見えなかったけど、きっと、やさしく微笑んでいるんだと、奏子には思えた。
 そうして、さなえちゃんは、受話器から顔を上げた。
 奏子の方へ顔を向け、深く、深く、おじぎをする。
「ありがとう、カナコちゃんも…」
 もう一度顔を上げたとき、さなえちゃんは、あの明るい笑顔を取り戻していた。
「…あたしは、幸せだよ。
 だから、悲しまないで。
 それで、できれば――――忘れないで、ね」
 奏子は、唇をぎゅっと結んだまま、何度も何度もうなずいた。
 電話ボックスの中がグニャグニャ歪んで見え、さなえちゃんの顔も、歪んで見えた。
「…じゃあ、これで、バイバイ」
 さなえちゃんが、ボックスを出ていく。
 表に出て、一度奏子の方に向き直ると、胸の前で小さく手を振ってくれた。
 そしてまた、歩き始める。
 その背中が、次第に透きとおっていった。

 さなえちゃんが完全に見えなくなるまで、後ろ姿を見守っていてから、奏子は電話に受話器を戻した。
 機械式のハンカチみたいに、テレホンカードがにゅっと戻ってくる。
 相変わらず、周りのものみんながぼやけて見えた。
 けれど、奏子は、自分が小さく微笑んでいることに、ちゃんと気がついていた。


7.
 奏子は、三日ぶりぐらいにお兄さんのベンチにやってきた。
 本当に、いつも同じ難しい顔を浮かべているお兄さんの隣に腰掛け、少しの間足をぶらぶらさせる。
 しばらくしてから、お兄さんが顔を向けてきた。
「…わざとやってるのか?」
 冷たい視線に冷たい言葉。
 奏子は足の動きを止めると、自分の膝小僧に目を落とした。
 そして、
「…答え探しね…」
口を開く。
「ちょっと、お休みしようと思うの」
 お兄さんの眉が、ぴくりと上がった。
「めでたいニュースだが、どういう心境の変化だ?」
 膝の上にほおづえで、問い返してくる。
 奏子はうつむいたまま、「ん…」と呟いた。
「…お兄ちゃんさ、初めて奏子にこのお話ししてくれたとき、『できるなら、とっくに消えてる』って、言ってたよね」
「ああ」
「奏子ね…」
 言葉を探して、自然と足がぱたぱた動く。
「…もうちょっと、お兄ちゃんに、消えないでほしい」
 ――――答える言葉は、なかった。
 顔を上げて、彼の方を見つめる。
「…ダメかな」
 お兄さんは、少しの間、じっと奏子を見つめ返していてから――――口を開いた。
「どあほ」
 心の底からバカにしきった、その一言。
「なんでアホなのよー!」
 さすがにカチンときて、奏子はベンチを飛び降りながら、抗議の声を上げる。
 でも、お兄さんはすましたものだった。
「お前が、死人が消えていく原理を見つけたぐらいで、即、オレを昇天させられるとでも?
 わ・ら・わ・す・なよ。
 お前が考えているほど、世の中ってのは単純じゃないの」
「…うー…」
 恨みがましい目でお兄さんを睨みながら、奏子は唸る。
 そりゃ、お兄さんが、その「原理」をもう知っているってことは分かってる。
 今奏子が探しているのは、それと同じ「原理」なんだから、うまく見つけだせても、お兄さんが消えることにはならないかも知れないことだって、分かってる。
 でも、
「…心配だったんだもん」
「余計なお世話だ」
「うー…!」
 はんぶん涙目になった奏子へ、お兄さんは面倒くさそうに手を振った。
「とりあえず、唸る以外にしゃべり方を学んでから、出直してこい」
 おなかを殴りつけようとした奏子の手は、当たり前だけど、するりと突き抜けてしまう。
「お兄ちゃんなんか、大っキライ!」
 鼻をぐずらせながら、思いっきり言い放った奏子に、お兄さんは一言。
「そうか。気が合うな」
「もう、知らない!」
 かかとをひるがえして、奏子は駆けだした。
「――――ほんとに、知らないからね!」
 公園の入り口でお兄さんの方を振り返り、大声でダメを押す。
 お兄さんは、相変わらずベンチに座っていた。
 そして、奏子の方を見送りながら、軽く、手を振った。


8.
 公園のベンチは、相変わらず静かだ。
 周りを幹線道路が走っているとは言っても、わざわざ公園の中を横切ろうという人間は、限られている。
 余計な騒ぎとは縁の薄い、鳩の集うベンチ。

 オレはここで、ずっと来るべきものを待っている。
 はっきり誰とは分からない「その人」と、はっきりいつとは分からない、「その時」をだ。

「…どのみち、待ち合わせ場所のあてがあるわけでも、ないしな…」
 誰にとなく口に出しながら、ベンチの上でのびをして、空を見上げた。
 蒼く澄んだ空に、深く浮かぶ雲と、円を描くようにして群れ飛ぶ、鳩。
 次々と着地していく、羽の生えた連中を追って、顔を戻す。
 鳥にも出勤時間があるのだろうか。ラッシュアワーのホームを思い起こさせるような、石畳の上の、灰色い群集。
 その、鳩たちの間を。一匹の猫が、悠々と歩いていた。
 いつからそこにいたのだろう。
 銀灰色の毛皮に、朝露で薄めたワインのような、アサガオ色の瞳。
 鳩をよけるでもなく、鳩がよけるでもない。
 次の瞬間、どこに何があって、世界がどう動くのか。
 全部が分かっているかのような、自信に満ちた仕草の、銀灰色の猫。
「…なるほど、ね」
 思わず、呟きがもれた。
 ちらりとこっちを向く、猫。
 オレの姿が、その紫水晶の瞳に映った。
 何に驚いたのか、鳩がいっせいに飛び立つ。
 石畳に羽が生えて空に舞い上がったかのような、白と灰色のカーテンが消えたとき。
 猫の姿は、もうどこにもなかった。
 我知らず、苦笑いがもれる。
 ことによると、懲りないお嬢さんが、また後をつけているのかも知れない。
 だとすると、彼女の第一声は、どんなものになるだろうか。

 ここのところ頭の奥でくすぶっていた考えを、完全に忘れてしまうことにした。
 あまり人待ち向きではない場所だが、オレは、もうしばらく、ここにいるとしよう。


(続く)

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