天国へ行く前に。
2003年6月20日 掲載

草村 悠太
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天 国 へ 行 く 前 に

二、    手の平に花壇。

1.
 その猫は、きれいな銀灰色の毛並みをしていた。
 凛とした大きな瞳は、東雲に花開くアサガオのような、みずみずしい薄紫色。
 飼い主などいない。
 ただ、特定の人間と特に親しくしていた時期は何度かあって、そのうちの一度で、その猫は自分の呼び名を手に入れていた。
 もっとも、二本足で不器用に動き回る人間という動物がつけた、彼らだけに通用するの自分に対する呼び名というに過ぎなかったけれど。
 首に巻かれた、細い黒革の輪。
 そこに、その呼び名は記されていた。
 『ペトロ』。
 響きは可もなし不可もなし。
 とりあえず猫は、自分を見つけた人間たちが、自分をそう呼ぶのを許していた。

2.
 このところ、奏子はお兄さんのところに通っていなかった。
 何となくためらいがあるというのもあったけど、何より春の学芸会が近づいていて、その準備がけっこう忙しかったのだ。

 その日も、夕陽が三階にある教室の窓から真っ直ぐ差し込むようになった頃、奏子はようやく帰り支度を始めることができた。
 奏子のクラスの出し物は、劇。
 奏子自身は出演しなかったが、裏方は裏方なりに、やらなきゃいけないことが多いのだ。
 もう少し残っておしゃべりを続けるつもりらしい友達数人に軽く声をかけてから、いそいそと教室を後にする。
 昇降口を下りて玄関を抜けようとしたとき、奏子の足下を、小さな影がトコトコと横切った。
 はっとした。
 夕陽を受けながら、優雅な足取りで彼女の前を歩み過ぎたのは、間違いなく、あの時の猫。奏子を中央公園に導いて、結果的にお兄さんと引き合わせてくれた、あの銀灰色の猫だったのだ。
 猫は奏子に気を止めるふうもなく、校舎の角を曲がっていく。
 あっちにあるのは、中庭だ。奏子は本能的に、猫の後を追いかけた。
 白いスニーカーのかかとを踏んだまま、急いで猫と同じ角を曲がる。
 西陽を照り返して、ママレードジャムのトーストみたいな校舎と、影になっていて墨汁に染まったみたいな校舎とに囲まれた、狭い中庭が目に飛び込んできた。
 ひんやりと湿った空気に包まれた、土の中庭には、そこだけ色鮮やかな花壇と、三つの影――――猫と、女の人と、中学生くらいの男の子。
 奏子は足を止めた。猫だけがそのまま歩いて行って、男の子と女の人の間に立つと、一声鳴く。
 振り向いた女の人の横顔には、見覚えがあった。
 切れ長の目と、鮮やかな口紅の、きれいな人。
「保健の先生…」
 先生は、銀灰色の猫に目をとめ、それから少しはっとしたように、奏子の方に顔を向けてきた。
「あら…こんな時間まで残ってたの?」
 しっとりした、子守歌みたいに耳に心地いい声。
 軽く責められているような気がして、奏子は少し後ろめたい気持ちを抱きながら、うなずいた。
 保健の先生が、にっこりと微笑む。
「何かご用? 誰かケガしたの?」
「えと…別に、違うんです…」
 先生を見つけたのは、ただの偶然だ。行き場のない視線をさっきの猫の方へ向けようとして、気付いた。
「猫が…」
 消えていた。
「さっきの猫ね。 あなたのお家の猫ちゃんかな?」
 ちょっと辺りを見渡すそぶりをして、先生が言う。奏子はもどかしく唇を開いたまま、首を横に振った。
 目を細めるように微笑んで、手招きする先生。
 男の子は、黙って彼女の隣に立ったままだった。
 二人へ交互に目を向けてから、奏子は先生の方へ歩み寄る。
 先生はしゃがみ込んで、奏子の頭をなでてくれた。
 それから、花壇の方に彼女の身体をくるりと回すと、後ろから包み込むみたいに両肩を抱く。
 レンガや割れた鉢の破片で囲われた花壇は、両腕で抱えられそうなほど小さい。
 でも、
「きれいでしょ」
 肩のところから聞こえる先生の言葉に、奏子はうなずいた。
 ふんわり届く香水の香りが、まるでお花畑の中に立っているよう。
「先生が作ったの?」
「もらったのよ。
 囲いを作って土を入れて、花壇にしたのは別の人。
 花を育てたのは、私だけどね」
 花壇のプレゼント。
 とびきりロマンチックなのか、とびきり勘違いなのか、奏子にはよく分からなかった。
「お世話、大変ですか?」
 首をねじ向けて尋ねる彼女に、先生は笑いながら首を横に振った。
「もちろん、大変よ。悪ガキ達が踏み荒らさないとも限らないし。
 でも、大変だから意味があるのよ。これには」
「へえ…」
 曖昧な相づちをうちながら、いまいち先生の言っていることが分からなくて、内心首をひねる。
 先生は、今度はにんまりと笑いながら、奏子の髪をくしゃくしゃなでた。
「さ、キミは何年何組の何ちゃんかな?
 すぐに暗くなっちゃうから、お家の人を呼んであげる」
「そんな…大丈夫です」
「ダメよ」
 先生に、軽くほっぺたを引っ張られた。
「キミみたいなかわいい子に、夜道の一人歩きは危険だわ」
 何となく、かわいいの意味が引っかかる。
「でも…」
「それ以上グズると、今度の歯科検診、虫歯の数を一本増やしちゃうわよ」
 笑顔のままで、ものすごい脅し文句が飛んで来る。
 甲高い歯医者さんの音を思い出し、奏子は素直にクラスと名前を白状した。
 先生が、よしよしするように頭をなでながら、立ち上がる。
「電話かけてくるから、ここで待っててね。
 一人は退屈かも知れないけど、動いちゃダメよ」
 言い置いて、先生は白衣の裾をなびかせながら、校舎の中へ消えていった。
 残されたのは、奏子と花壇と、男の子。
 おずおず顔を向けると、彼はじっと奏子の方を見つめていた。
「…君には見えてるみたいだね」
 やがて、彼が口を開く。中学生くらいの、どこか大人しそうな雰囲気を持った男の子だった。
 こくりとうなずく奏子。
「初めてだよ。見える人に会ったのは」
「…百万人に一人の変わり種なんだって」
 奏子が言うと、男の子は、ちょっと微笑んだ。
 影の中に沈み始めた中庭には、二人の他に誰も居ない。
「えっと、あのね。ちょっと訊いてもいい?」
 思いがけず飛び込んだチャンスに、奏子はすぐさま口を開いた。
 やや面食らったような顔をして、それでも、男の子はうなずいた。
「お兄ちゃん、誰?」
「難しいな。名前は笹原だったけど、今はもう違うしね」
 彼が、少し困ったように笑う。
 笹原。聞いたことがある。
 確か、保健の先生の名字も、笹原だったはずだ。
「戒名は覚えてないんだ。何とか居士だったと思うけど」
「カイミョー?」
 よく分からない。
 彼は首を横に振った。
「気にしなくていいよ」
 何となく、子供扱いされたようで面白くない。
 けれど、ぐずぐずしていたら、先生が電話を終えて戻ってきてしまう。
 奏子は男の子の正体を聞き出すのを後回しにして、一番大切な質問を、彼に向けた。
「なんで保健の先生のそばにいるの? そばで何かしているの?」
 いきなり、彼の表情がさっと硬くなる。
 怒っているような、泣いているような、きつい眼差しで見据えられて、奏子はたじろいだ。
「何でそんなことを訊くんだ?」
「ふぇ…」
 言葉が出ない。
「好奇心? ただ知りたいだけか?」
 近い気がする。うなずいた。
 彼はもう一度、鋭く奏子を睨み据えてから、顔を背けた。
 居心地の悪い沈黙が、辺りを包んだ。
「…あの…ごめんなさい…」
 おどおどと、奏子。
 何が何だか分からないが、怒らせてしまったのは確かなようだ。
 彼はこっちに顔を向けると、
「そんなのは……誰かに「なんのために生きているのか」って訊くのと、同じだ」
そう言ったきり、今度こそ、完全に背を向けてしまった。


「そんなに気に入ってくれたの?」
 花壇の前にかがみ込んでいる奏子に、すぐ後ろから先生の声がした。
 振り向くと、先生の両手には缶ジュース。
「お母さん、すぐに来てくれるわよ」
 言いながら、奏子に立つよう促す。
「ここにいたら、探すのに時間がかかっちゃうわ。
 校門の前でお茶にしましょ」
 おどけたように、両手の缶ジュースを掲げてみせる。
 奏子はこくりとうなずくと、先生と並んで歩き始めた。
 男の子は、うつむき加減で背を向けたまま、花壇のそばを離れようとはしなかった。


 奏子の学校は、目の前が道路になっている。
 二人でコンクリートの校門に寄りかかり、走っていく車のライトを眺めた。
 やがて、
「先生、あの、花壇ね…」
奏子はぽつりと口を開いた。
 先生が顔を向けてくる。奏子も先生の方を向いた。
「…誰か、親戚の男の子にプレゼントしてもらったの?」
 驚いたように大きくなる、こっちを見つめる先生の目。
「誰に聞いたの?」
「ううん…そんな気がしただけ」
 奏子は小さく首を振り、また手の中の缶に目を戻す。
 少しの間、黙ってこちらを見つめていてから、先生は顔を前に向け直し、それからほんの少しだけ微笑んで、奏子の方にすっと腕を伸ばしてきた。
 くしゃくしゃ頭をなでて、肩を引き寄せてくる。
「…そうよ。
 明くんっていってね。私のいとこ。この学校の卒業生よ。
 記念にって、私にあの花壇を作ってくれたの」
「記念?」
「ええ。卒業記念」
 嘘だ、と、奏子は思った。
 それだけじゃない。きっと、それだけじゃない。
「…やさしい男の子だったんだね」
「…うん。やさしい子だった…」
 胸の奥に飲み込んだ言葉の代わりに唇からこぼれたような、そんな奏子の呟き。
 先生は少し目を伏せて相づちを打ってから、はっと顔を向けてきた。
 奏子は顔を上げなかった。
 白衣の裾に抱き寄せられたまま。
 やがて、先生は、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
「驚いた。何でもお見通しね」
 唇をきゅっと結んだままで、奏子は首を横に振る。
 早く家に帰りたかった。
「明くんはね」
 お母さんはまだ来ない。代わりに、先生が口を開いた。
「車とぶつかったのよ。交通事故」
 先生の手が、背中をさすってくれる。
「その日、明くんは中学校の部活が終わってから、こっそりこの学校に忍び込んで、あの花壇に種を植えようとしていた。
 でも、ちょうど明くんの姿を見かけた女の先生が、大声を上げたの。変質者と勘違いしたのよね。
 明くんは驚いて逃げたわ。
 中庭を飛び出して、校門のわきの柵を乗り越えようとして、足を引っかけてしまった。
 勢いあまって車道に転がり落ちたときには、目の前に自動車がいたの」
 先生はそこで、一つ息をついた。
 赤ん坊をあやすみたいに、奏子の背中をぽんぽんと軽く叩く。
「誰も悪くなかった。
 明くんも、その自動車を運転していた人も、もちろん、学校の柵をあの高さって決めた人もね。
 悪いのは、みんな明くんを驚かせた女の先生。
 でもね、警察は、その女の先生は悪くないってことにしちゃったの。
 明くんは、大きな悲鳴そのもので死んだわけじゃなかったから」
 先生の声は、なんだか昨日のお天気の話でもしているみたいに聞こえた。
 遠足で行った博物館の、大きな鷲の剥製を思い出す。
 今にも飛び立ちそうに、力強く羽を広げ、奏子たちを睨み付ける金色の瞳は、まっすぐには見つめ返せないくらい鋭かった。
 なのに、その身体に触れてみると、かさかさした冷たい感触だけが返ってくる――――
 先生の言葉も、それと同じだった。
 本当ならあるはずのぬくもりとか、鼓動とか、そういうものが――――全部凍り付いてしまったみたいな、冷たい手ざわりと、固い感触。
 それ以上聞きたくなくて、でも耳をふさぐこともできなくて、奏子はぎゅっと目をつぶった。
 ほっぺたを、ひんやりしたしずくが転がり落ちていくのが分かる。
「その日から、その女の先生はね、自分のことが一生許せなくなった」
  そこまで言って、先生は奏子を離してしゃがみ込むと、いつから気づいていたのか、奏子の涙をハンカチで拭ってくれた。
「だから、花の種をまくの。それを育てるの。
 明くんが残してくれた、大切な贈り物だもの」
 そして、小首をかしげる。
「バカバカしいかしら?」
 ぶんぶん首を横に振る、奏子。
 先生は、にっこりと微笑んだ。
「やさしい子。
 でもね、本当は、バカみたいなことだって、先生も分かってるのよ」
 奏子は、目が回りそうなくらい強く、何回も首を振った。
「そんなことない。
 明くん、きっと、先生にあげた花壇、見てるもん…」
「…そうかな」
「絶対、そうだよ」
 また、先生の顔に微笑みが。
「…君のこと、大好きになっちゃいそうだわ」
 奏子は笑えなかった。
「…ね」
 先生が、鼻を拭ってくれながら、のぞき込むようにして口を開く。
「あの花壇、きれいだった?」
 こくこくと、今度はうなずく奏子。
「よかったわ。
 そうしたら、奏子ちゃん、また見に来てくれるかな」
「…どうして?」
 尋ね返すと、先生は唇を結んで、黙ってしまった。
「…怒った…?」
 よく分からないまま、腹を立たせてしまったあの男の子――――明くんのことが思い浮かぶ。
 先生は、静かに首を横に振って、立ち上がった。
「…違うの。
 もうね、先生、私と明くんのためだけの花は、植えたくないんだ。
 誰かが、きれいって言って、笑ってくれるように…そのために、種をまきたいの」
 先生を見上げる奏子の鼻の頭に、ぽつりと雨粒みたいなものが当たった。
 自分のポケットを探り、ハンカチを取りだす。
「泣かないで、先生…」
 奏子は背伸びをして、先生のほっぺたを拭った。
 先生が、奏子の方を向いた。立ち上がったままだから、先生の長いまつげからこぼれ落ちた涙が、奏子の顔にもかかった。
 先生は、泣きながら、ほんのちょっとだけ微笑んでいた。
「君は、不思議な子ね…」
 頬にかかった先生の吐息は、とても熱かった。
「明君が死んでから、人前で涙が出たの、初めてなのよ」
 そう、言い終わると。
 先生は奏子の前に両膝をつき、奏子の首筋に腕を回して、泣き始めた。

――――ごめんね明君、ごめんね――――

 先生は、奏子にすがって、小さな女の子みたいに泣きながら、それだけ繰り返していた。
 その言葉を聞いているうちに、奏子の目にも、大粒の涙が浮かんできて――――

 白くて小さないつもの自動車で迎えに来てくれたお母さんは、並んで立っている二人ともが赤くてはれぼったい目をしているのを見て、すごくすごく、不思議そうな顔をした。


 翌日。
 教室で学芸会の準備をしながら、奏子はぼんやりと昨日のことを考えていた。
 いつもきれいで、優しい微笑みの保健の先生が、あんなふうに泣くなんて。
 もしかしたら、先生を泣かせてしまったのは、自分なのかも知れない。
 そう思うと、なんだかとても悪いことをしてしまったような気がして、奏子は身体から力が抜けていくような気持ちになった。
 とにかく、しばらくは――――数日は、保健の先生に会いたくなかった。会わずにいれば、きっと昨日のことも、そのうちぼんやりした思い出になって、消えていくんじゃないか。
 そんなふうに思っていた。なのに。
「痛っ!」
 教室の反対側で、誰かが跳ね上がるような声を上げた。
「あー、鈴木がカッター踏んだー」
「血ィー出てるぞー」
 とたんに騒ぎが持ち上がる。
 顔を向けてみると、床に広げた模造紙の上を上履きを脱いで歩いていた男子が、片足を押さえてうずくまっていた。紙の下に隠れていた刃物を踏んだらしい。
「保健係って、誰?」
 誰かが、嫌なことに気がついた。
「宮国じゃん?」
 別の誰かが、もっと嫌なことに気がついた。
「宮国ー。救急車呼べー」
「バッカ。その前に保健室だって」
 教室で作業していた、十人ぐらいのクラスメートの顔が、一斉に奏子の方を向く。
「…えー…」
 持っていたポスカを握りしめながら、奏子は弱気な抗議の声をもらした。
 だけど、
「しょうがないじゃん、鈴木、足ケガして一人じゃ階段降りられないし。先生も今いないし」
さも当然のようにそう言われてしまっては、それ以上渋ることもできない。
 奏子は小さくため息をつくと、とりあえずティッシュで足の傷を押さえている男の子と一緒に、教室を出た。

 よっぽど、保健室が閉まっていればと願った。
 けれど、磨りガラスの入ったドアからは中の蛍光灯の明かりがもれてきていて、だから中に保健の先生がいるということも、はっきりと分かってしまった。
 しかも、連れてきた鈴木君は、保健室の目の前まで来ると、
「すみませーん」
ケンケンで一人保健室のドアまでたどり着き、ガラッとためらいなく開け放ってしまう。
 逃げも隠れもできない。
「あら」
 保健室のデスクで書類を読んでいた先生が、ケンケンで入ってきた鈴木君を見て小さく声を上げ、それから、
「――――あら」
奏子の方を見て、もう一度、呟きをもらした。
 他にどうしようもなくて、入り口の敷居の上に立ったまま、ぺこりと頭を下げる奏子。
 保健の先生が、いつもの笑顔で微笑んだ。
「どうしたの? ケガかしら」
 鈴木君は先生の前に置かれた丸イスに自分で座ると、
「足足、カッターでー」
ティッシュで押さえている傷を指さしながら、説明を始めた。

「はい、これでおしまい」
 先生が、手当の終わった鈴木君の足を、「ぽん」とおまじないのように叩いて、そう言った。
 大騒ぎしていたくせに、キズそのものは全然対したことはなかった。ミルク色のボトルに入ったお水で足の裏を洗って、オキシドールで消毒をして、乾かしてから、ガーゼを当ててホワイトテープで留める。それだけ。
「…ばんそうこうでよかったじゃない」
 思わず、文句を言ってしまう。
 鈴木君はちょっとムッとしたようで、
「るせーなぁ。宮国についてきてくれって言った覚えはねーよ」
留めてもらったテープやガーゼがずれないようにゆっくりくつ下をはきながら、言い返してくる。
 確かに、保健室に連れて行くように言ったのは、鈴木君じゃないけど…
 奏子は言いつのりそうになるのを、ぐっとこらえた。
 保健の先生が、小さく笑うのが聞こえた。
「今度のは、軽いケガでよかったわ。次は気を付けるのよ」
 何となく、「言ったって聞かないんでしょうけど」っていう響きのある声でそう言いながら、先生は鈴木君が自分のキズを押さえていたティッシュをゴミ箱に捨てる。
 「へーい」といい加減な返事を返して、鈴木君は丸イスを降りた。
「ありあとやんしたー」
 まるで少年野球の終わりの挨拶みたいな礼をしてから、ケンケンで器用に保健室を出て行ってしまう。
 取り残されそうになった奏子も、あわててぺこっと頭を下げて、その後を追おうとして――――
「宮国さん」
先生に呼び止められた。
 やわらかい声だった。
 振り向く奏子に、先生はそれまで座っていたイスから立ち上がって、奏子の前までやってくる。
 それから、すとんとしゃがみ込んで、奏子のほっぺたをなでながらのぞき込むみたいにじっと目を見つめていてから、
「…ありがとう、奏子ちゃん」
そう言って、笑った。
 思わず、胸の中で「わぁ…」と呟いてしまうくらい、春の陽差しみたいに優しくて、やわらかくて――――可愛い笑顔だった。
 引き込まれるように、奏子の顔にも微笑みが浮かんだ。
 先生が、ぎゅっと抱きしめてくれる。
 昨日と同じ、お花畑のような香水の香りが、奏子を包んだ。
 先生が怒っていなかったことにほっとして、「ありがとう」と言ってもらえたことがうれしくて、奏子はそのまま甘えるように先生に寄りかかる。
 ぽんぽん。と、先生が奏子の背中を叩いた。
「ね、奏子ちゃん。
 昨日のお願い、覚えてる?」
 昨日のお願い――――「また今度、見に来てくれるかな?」
 奏子は先生に甘えたまま、うなずいた。
 先生が、奏子の両肩をそっとつかんで、身体を離す。そして、そのまままっすぐに奏子を見つめながら、
「…約束してくれる?」
立てた小指を、すっと差し出してきた。
「…ウン」
 先生の細くて少しひんやりした指に、奏子の小さな指が絡んだ。
「嘘ついたら、予防接種100種類だからね」
「え…」
 破るつもりはない約束でも、その罰はちょっと怖い。
 先生は楽しそうに笑うと、指切りした指をそっとほどいて、立ち上がりながら奏子の背中を押した。
「さ、そろそろ教室に戻らないと。
 学芸会の準備、まだ続きなんでしょう?」
 うなずきながら、奏子は先生に促されるまま、保健室のドアに向かう。
「あ、そうだ」
 鈴木君が開けっ放していったドアの前に立ったとき、先生が声を上げた。
 もう一度、振り返る奏子。
 先生は、かがみ込むように奏子へ顔を近づけて、
「昨日のことは、二人だけのナイショよ」
イタズラっぽいウインクをしてくる。
 奏子はこくりとうなずいた。
 先生が、また、本当にうれしそうに笑った。
 奏子も、一緒に「てへへ」と笑って――――今度こそ教室に向かってぱたぱたと歩き始めた。


3.
「…よくよくお前は、人の希望をつみ取るのが好きらしいな」
 久しぶりの公園で、お兄さんは、いつものあのぶっきらぼうな言い方で奏子を迎えた。
 何のことだかはよく分からないけど、どうも自分がジャマにされているらしいということぐらいは感じ取れる。
 でも、今日の奏子は引き下がらなかった。
「お兄ちゃん、あの、『理由』ね…」
「あぁ?」
「死んだ人が生きている人のそばにいる、理由」
 「ああ」と、興味の薄い返事を返してくる、お兄さん。
「あれ…本当にお兄ちゃんには、分かってるの?
 奏子、自分が生きている理由なんて訊かれても、答えられない…」
「…何の話をしてるんだ? お前」
 奏子はぎゅっと下唇を咬んだ。
 お兄さんはそんな奏子を見て、
「とりあえず、座ったらどうだ」
自分の隣を指し示す。
 奏子は黙ったままでうなずいて、腰を下ろした。
 それから、
「あのね…」
この前のできごとを、話し始めた。


「ふん」
 話を聞き終えるなり、お兄さんは鼻を鳴らす。
「お前もたいがいだが、そいつもよっぽど頭の悪いガキだな」
「どうして?」
「死者が生者にくっついてるんだ。逆じゃない」
「…?」
 眉毛を寄せる奏子に、お兄さんは心から面倒くさそうな舌打ちをした。
「分からないんだろ。
 ならちょうどいい。こんなことを追うのなんて、やめるんだな。
 生きてるやつが死んでるオレにつきまとって、どうするんだ」
 最後の部分には、ため息が混じっている。
 奏子は唇をとがらせた。
 どうも、またバカにされたらしいということ以上に、気になることがあった。
「…答え合わせのため以外だったら、会いに来ちゃいけないの?」
 それは、何となくイヤだ。
「…来るなって言っても、来るんだろ」
 ちらりと視線を向けて、お兄さん。
「うー…」
「唸るなってんだ。
 もう『理由』の話は、おしまいにするぞ」
 また「んー」と唸りそうになって、奏子はあわてて声を飲み込んだ。
 てんでおバカさん扱い、子供扱いされたままで終わるのは、やっぱりすっきりしない。
「…まだ」
 そんなこったろうな。お兄さんはそう言いながら、適当に手を前に動かす。
 奏子はベンチを降りた。
 スカートの裾をちょっと払って、ランドセルを背負い直す。
「もうちょっと、頑張ってみるね」
 お兄さんは、いつものように、いい加減に手を振っただけだった。


4.
 ペトロは気まぐれだ。
 何日間も表を出歩かないことがあるし、何日間も同じ場所に帰ってこないこともある。
 ここのところは、まめに色々な場所を巡り歩いている。

 今日は朝から雨だった。
 自分の毛並みをくすませたような色の雲が、空じゅうを覆っている。
 一度空を見上げてから、顔をばたばたと振るった。
 それから、何となく、自分の瞳と同じ色の花を見に行こうと、思い立った。


(続く)

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(C) 草村悠太
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