天国へ行く前に。
2003年6月20日 掲載

草村 悠太
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天 国 へ 行 く 前 に

 一、   お兄ちゃん。

1.
 奏子は赤いランドセルをゆすり上げた。
 幅広の革バンドは肩からはみ出そうなぐらいで、バックルをいちばん上の穴にしているのに、背あてと背中の間には、ノートが何冊か挟まってしまいそうなくらいのすき間があいている。
 歩くたびに、ランドセルに入れた筆箱の中で、鉛筆がかちゃかちゃと音を立てた。
 普通の人にはちょっと気付かれない世界の歯車が、一つ一つ動いているような音だった。

 奏子の小学校では、朝はみんなで集まって学校へ行き、放課後は各自で家路につくようになっている。
 奏子は、一人で帰るのが好きだった。
 野良犬と遊ぶのも、小さな空き地に寄り道するのも、何となく空を見上げてみるのも、自由自在。
 少し早足で歩き、何度もランドセルをゆすり上げる。
 いつもの公園にさしかかった。
 このごろ毎日のように通っている、植え込みにぐるりと取り囲まれた、びっくりするぐらい広い公園だ。
 入り口の車止めをすり抜けて、中に入ってみる。
 白い砂が敷き詰められた敷地を横切って、植え込みと植木に沿うようにいくつか並んだベンチの方へ。
 いつも通り、彼はそこにいた。
 ベンチに腰掛けて足を組み、その上で頬杖をついたまま、砂をついばむハトやスズメをつまらなそうに見やっている。
「…こんにちわ」
 その横に立ち止まって、言葉を探して少しもじもじしていてから、奏子はそう言ってペコリと頭を下げた。
 彼が――――ゆっくりと、顔を、向けてくる。
「…バカがうつったのかもな」
 頬杖のままで、口を開いた。
「?」
 彼女がきょとんとした顔を浮かべると、
「お前以外じゃあり得ないのに、お前じゃなきゃいいと期待した」
関心の薄い口調で、そう続けてくる。
 よくは分からなかったが、どうもバカにされたらしいと感じて、眉をひそめる奏子。
「で、何の用だ」
 そんな彼女にはお構いなしに、また彼は足下の鳥たちに視線を戻した。
「…お話の続き」
「が、どうした」
「…が、したいです」
 「ふっ」と、彼は小さく息をつく。
「誰だったかな。
 『人が人から決して奪うことができない、ただ一つのもの。それは希望である』って言ったやつがいた。
 今、そのことを痛感したぞ」
「…それも、お話の続き?」
 おどおどと口を開く、奏子。
 彼が、ちらりと視線を向けてきた。
「…いいや。気にするな。世迷い言だよ」
 それからもう一度、小さく息を吐く。
「オレは良識ある成人だから、忠告しておいてやる。
 お前、百万人に一人の変わり種だ」

2.
 奏子は、十歳の女の子。
 べつに取り立ててどうということはない。
 「肩のところでそろえてください」と言えばたいていやってくれそうな髪型をしていて、ちびっちゃくて、立ち姿は少しあごを引き気味で、どこかしら無口な印象がある。
 じっさい、奏子は普通の女の子だった。
 ただ、誰にだって、どこかしら変わった特技とか好みとかがあるように、彼女にも、一つだけ、変わった力がある。
 彼女には、変なものが見えるのだ。
 基本的に、彼女に見える「変なもの」は、人間の姿をしていた。犬とか猫のこともあったが、だいたい人間型で、人間のように振る舞い、人間のように話した。奏子の目に映るとき、それは普通の人間であるように見えるし、話しかければ、決まって驚いたような表情をしてから、答えを返してもくれる。
 それらが「変」なのは、ただ一つ、それら「変なもの」からは人間のことが見えるけど、奏子以外の人にはそれらが見えていないという部分だ。
 奏子にも、それらに触れることだけは出来なかったが、少なくとも目で見ている分には、普通の人間となんにも違わない。
 だから、奏子は無口だったり、人を穿つような眼差しで見たりするようになってしまう。
 誰もいない(ように見える)空中を見つめて話をしている女の子なんて、やっぱり気味が悪いし、ましてその子が自分のすぐ隣の空間を見つめてそれをやろうものなら、まずたいていの人はすごく嫌そうな顔をする。
 本当は、奏子自身はべつに変な目で見られても構わないのだが、現実に困ったり謝ったりするのは、一緒にいるお父さんやお母さんだった。
 それは、ちょっといやだ。
 だから、本当に「誰にでも見える人間」なのかをしっかりと確かめ、それから口を開かなくてはいけない。見ず知らずの人をぺたぺた触って歩くのは奏子の方で気が引けたし、まじまじ観察しているうちに、決まって他愛のない気持ちや言葉などは消えてしまって、お話をしたい気分ではなくなった。
 そして、奏子はちょっとむっつりした女の子と思われるわけだ。
 今よりもっと小さかった頃、奏子には、自分に見えているものがいったい何なのか、分からなかった。
 と言うよりは、人間には、大人と子供、男の人と女の人という以外に、「見える人」と「見えない人」がいるんだと考えていたのだ。
 どうやらそれが間違いであるらしいと気付いたのは、まだ小学校に入りたてだった頃。
 可愛がっていた猫のココが、死んだときだった。

 ココは、目の覚めるような毛並みの黒猫だった。
 ついでに言えば、奏子が生まれたときにはすでに充分大人になっていたくらいの、おばあさん猫でもあった。
 もともと奏子のお母さんの家で飼っていて、お父さんとお母さんが結婚したときに、今の家に連れてきたのだそうだ。
 奏子もココのことが好きだった。たぶんお父さんも。
 ココが一番気に入っていたのはお母さんで、いつでも家事をするお母さんの側で丸くなっていた。
 そのココが、死んでしまった。
 その日奏子が学校から戻ると、リビングの方からお母さんのしゃくり上げるような声が聞こえてきた。
 家の中を流れる、いつもとは違う空気に、声のするリビングの方へそっと向かう奏子。
 静かにドアを開け、「ただいま」と小さく声をかける。お母さんが振り向いた。
 目は泣きはらしていて真っ赤で、テーブルの上には見たことのない篭が置いてあった。
 お母さんが黙って奏子を手招きした。怪訝に思いながらも歩み寄る。
 いすによじ登ると、テーブルの上の篭がよく見えた。
 その中には、きれいな黒い毛のココが、真っ白な布に包まれて、横たえられていた。
 けれど、その様子がどこかおかしい。寝ているときでも人の声にぴくりと反応していた耳の先や、餌の匂いをかぎ逃さなかった鼻の頭が、今は凍り付いたように動かない。
「…ココ…?」
「…ココはね…もう、起きてこないのよ…」
 お母さんが、涙声でそう言って、篭の中のココに手を伸ばした。
 片手の平でも包めてしまいそうなほど小さい頭に触れようとして、ためらうように動きを止め、それから、ココの身体を包む白い布地をそっとなでた。
 子供をあやすような手つきだった。
 奏子には、かける言葉が見つからない。
――もう起きてこない?
――起きてこないってどういうこと?
――ただのお寝坊さんじゃないの?
――どうしてココは動かないの?
――もう動かないの?
――ココはもう鳴かないの?
――餌も食べないの?
――それって、ねぇ、ココはもう、死んじゃったっていうことなの?
 考えていくうちに、なぜだか無性に悲しくなって、奏子は白いシーツをなでるお母さんの手に取りすがった。
 と、ちょうどその時。
 リビングに響く、「チリン」という小さな鈴の音。
 はっとして振り向いた奏子の瞳に、目の覚めるような黒猫が映る。
 つやつやした短い毛皮。長くて白い、ちょっと下がり気味のひげ。大きな船の帆のような耳。
 それから、次の物かげに何が待ってるのか全部分かっているみたいな、深く輝く金色の瞳。
 ココだった。
 テーブルの上に目を戻す。そこにもココがいる。真新しい篭の中で、真っ白なシーツに包まれた、動かないココ。
 もう一度、フローリングの床に顔を向けた。そこにいるのは、いつも通り、自信に満ちた仕草の、ココ。
「…お母さん…」
 奏子は、自分でもその光景の意味を飲み込みきれないまま、口を開いた。
「…ココがいるよ」
 吸い付けられたように「ココ」の方へ顔を向けたままでも、お母さんの肩が大きく震えたのが分かった。
「バカなことを言わないで」
 乾いた声。
「だって…」
 奏子の喉が詰まった。
「奏子」
 俯いたまま、お母さんが名前を呼んだ。
 何かを言いつけるときの、切り込むような口調。
「バカなことを言わないで」
 繰り返したお母さんの声は、それでも、終わりの方が震えていた。
「だって、ねぇ…お願いだから、見てよ。
 お母さん、ココがいるんだよ」
 なんでだろう。なんでこんなに、涙が出るの?
 もどかしさに身を揉む奏子の様子に、お母さんはのろのろと顔を上げた。
 「ココ」は、テーブルの二人に金色の瞳を向け、小さくあくびをする。
 お母さんの顔は、確かにココの方へと向けられていた。
「ほら、ね?」
 奏子が、泣きべその顔のまま、晴れがましく微笑む。
 お母さんは、奏子の方へ向き直って――――ぎゅっと、その身体を胸の中に抱きしめた。
 泣いているのが分かった。
「…何もいないわ、奏子…何もいない…
 元気なココはね、もうどこにもいないのよ…」
 腕の中で、くぐもったお母さんの言葉を聞いた。
――――違うのに。そこにいるのに。ココは…
 力一杯抱きしめられたまま、どうにか首を動かして、「ココ」の姿を探る。
 「ココ」は身軽にテーブルへ飛び乗り、いつものようにお母さんの隣に丸くなると、のんびりした声を一つ、上げた。
 その時、不意に奏子は気が付いてしまった。
――――ああ、そうなんだ…そういうことだったんだ…
 目に見えなくなる。声が聞こえなくなる。触ることが出来なくなる。
 わたし以外の人たちには。
「…死んじゃうと、そうなっちゃうんだね。
 …ココ…」
 お母さんの脇の下から目を覗かせて、奏子はぽつりと呟いた。
 テーブルの上で、小さくしっぽを動かす、黒猫。
『そんなものよ』
 奏子には、大好きなおばあちゃん猫が、そう言っているように思えた。

 奏子は、お母さんのおなかに顔を押しつけて、堰を切ったように泣き始めた。

 ――――ココ…ココ…ねぇ、ココは…死んじゃったのに…何をしに来たの?

3.
 それから、新学期を二回、迎えた。
 奏子が初めて彼に出会ったのは、一週間ほど前。
 同じ、この公園のこのベンチでだった。
 銀灰色の野良猫を追いかけてここへ足を踏み入れ、肝心の猫には逃げられてしまってため息をついたときに、奏子は自分が見たことのない場所に立っているのに気が付いたのだ。
 塀の上や、空き地や、水の枯れた側溝の中を自由自在に歩き回る猫の後を追ってきたせいで、自分がどこをどう歩いてきたのかまるで覚えていない。
 ブロック塀の上に並んだ、緑色の水がたまった牛乳の空き瓶とか、乾いたどぶの中の、泥だらけの体操着とか、記憶にあるのはそんなものばかりだ。
 遠くの方から「夕焼け小やけ」が聞こえてきていた。さっきまで忘れていたランドセルの重みが、急に肩へのしかかってくる。
 辺りは、絵の具を流したような夕焼けだった。
 公園の出口まで小走りに駆けていき、きょろきょろと辺りを見回す。
 途方に暮れてしまった。
 家々が立ち並ぶ景色に、見覚えは全くない。
「あぅ…」
 半泣きの声がもれた。
 締め付けるような不安感で、指先や首筋が、すっと冷たくなる。
 何かしていないと座り込んで泣いてしまいそうで、もう一度公園の中へ視線を泳がせた。
 何をっていうわけじゃなく、ただ何かほっとさせてくれるものを探して。
 陸上競技のトラック、小さな噴水、色々な動物の形をした木馬、アスレチックのロープ、藤棚の下の休憩所、たくさんのベンチ――――そんなものに混じって目に入ったのは、緑色をした公衆電話。
 ぱぁっと世界が明るくなったような気がした。
 一面氷に覆われた世界の中で、そこだけ草がのぞき花が咲きこぼれているみたいに、輝いて見える野原の色。
 奏子は急いでランドセルを下ろし、中に首を突っ込んだ。
 いくつかあるポケットの一つから、小さなプラスチックのカードケースを引っ張り出す。
 電話番号と、☆マークの後に続くいくつかの注意書きと、何枚かの百円玉、十円玉。
「何かあったときに使うのよ」
 お母さんが、そう言って持たせてくれた「救急セット」だ。
 勇んで公衆電話に駆け寄ろうとして、奏子は少し落ち着きを取り戻した。
 電話したって、自分自身どこにいるのか分からないのでは、迎えに来てもらいようがない。
「公園の名前…」
 呟きながら、また公園の出口まで走る。奏子の胸の辺りまでの、太くて低いコンクリートの柱が二本、植え込みの切れ間に立っている。
 奏子の家にも付いてる表札を思いっきり大きくしたような金属の板が張ってあって、『新萱橋中央公園』と浮き彫りにされていた。
 ――――読めない。
「…しん……ちゅうおう…公園…?」
 一つだけ自信があるのは、「こうえん」の読み方だけだった。
 でも、ここまで来れば諦めることはない。
 周りを見回して、このぐらいすらすら読んでくれそうな大人を探す――――いた。
 人気の少なくなった公園の中で、一人、向こうの方のベンチに座っている男の人。
 ランドセルをかちゃかちゃ言わせながら、彼の方へと走り出す。
 近づいてみると、大学生ぐらいのお兄さんだったのに気が付いた。駆け寄ってくる奏子にも、それ以外の何にも興味を示さず、足下の辺りをぼんやりと眺めている。
 お兄さんが座っているベンチのすぐ側で足を止め、
「あの…こんにちわ」
少し上がった息の中で、奏子はそう声をかけた。
 と、彼が――――ゆっくりと、顔を、上げてくる。
 そのままじっと奏子を見つめていてから――――
「…何か用か」
心底どうでもよさそうに、口を開いた。
 外見から想像したよりも、ちょっと低めの声だった。
「えと…」
 少し気圧されて、口ごもってから、
「この公園、なんていう名前なんですか?」
無意識のうちに両手を胸の前で握りあわせ、尋ねる奏子。
 そんな彼女に向けられたお兄さんの目は、あけすけに彼の気持ちを物語っていた――――「本気で訊いてるのか?」
「えっと、わたし、道に迷っちゃったんです。それで、お母さんに電話して、迎えに来てもらうんですけど、公園の名前が読めなくって、電話でなんて言っていいのか分からなくって、それで――――」
 たどたどしく説明を始めた奏子を、お兄さんは片手を顔の前に上げて押しとどめた。
「しんかやはしちゅうおうこうえん」
「…え?」
「しん・かや・はし・ちゅうおう・こうえん」
 うっとうしそうな表情を隠しもせず、もう一度。
 区切ってはいても、口調は結構早かった。
 あわてて、何回か口の中で繰り返す、奏子。
「えと…ありがとう、ございました」
 丁寧に頭を下げた彼女に、お兄さんは適当に手を振ると、また顔を横に向けてしまった。
 すぐにきびすを返して、公衆電話に駆け寄る。
 受話器を取ってお金を入れ、お母さんが電話に出てくれるまでの間、奏子はひたすら「シンカヤハシチュウオウコウエン」と呟き続けた。


 奏子は、お兄さんのいるのベンチから五歩ぐらい離れた場所で、上目づかいに彼の方を見ていた。
 さっき下ろしたランドセルを、おなかの前に抱えている。
 鮮やかな緋色から、くすんだようなあずき色へ。誰かが空気に少しずつ夜の色の粉薬を溶いていくみたいに、見渡せる広さが狭まってくる。
 公園の中には、もうほとんど人が残っていない。
 かれこれ五分間は、そのまま彼の方を見ていただろうか。
 とうとう、彼が頬杖のままで、こっちに顔を向けた。
「お前な」
 舌打ち半分で、口を開く。
「なんか用があるなら、さっさと言え。ないなら、今すぐよそに行け」
 その口調に首をすくめ、顔を俯けて視線を落とす、奏子。
 居心地悪そうにもじもじと足踏みをしたものの、そこから動く様子はない彼女に、お兄さんは大きなため息をついた――――胸の奥にたまったいらいらの塊を、吐き出したみたいに。
「…家には連絡がついたのか?」
 目だけ動かして彼の方をうかがい、それほど怒った顔をしてはいないのを見て、奏子はこくりとうなずいた。
「…お母さんだったか?」
――――こくり。
「…で、迎えに来てくれるって?」
――――こくり。
「…よかったな」
――――こくこく。
 お兄さんはもう一度、今度はずいぶんおだやかにため息をついて、ぐるりと辺りを見渡した。
 それから、
「とりあえず、座ったらどうだ?」
と、自分の隣を指さす。
 ほんの一瞬ためらってから、奏子はぱたぱたと駆け寄った。
 相変わらずおなかの前にランドセルを抱えたまま、自分には少し高いベンチに腰掛ける。
「お母さん、15分ぐらいかかるから、そこから動かないで待ってなさいって」
 並んで座るとずいぶん上の方に行ってしまうお兄さんの顔を見上げ、奏子はそう言った。
 知らない公園で独り、お母さんを待つのは心細い。例え今会ったばかりでも、お話しできる人がいるのはうれしかった。
 顔をほころばせた奏子に、彼は「ふん」と鼻を鳴らし、
「学校の帰りだろ。何だって道に迷う。
 ――――引っ越してきたばかりなのか?」
横目で見下ろしながら、尋ねてくる。
「え…と」
 ノラ猫を追いかけるのに夢中になっていたから、と答えるのは、何となくきまりが悪い。
 けれど、上手なうそも思いつかなくて、けっきょく奏子は本当のことを答えた。
 「ふん」と、また鼻を鳴らすお兄さん。
「だってね、すごくきれいな猫だったんだよ。
 身体がつやつやした灰色で、目が二つとも、アサガオみたいなうす紫色なの」
 目にしていればお兄さんだって追いかけたに違いないと、力説する奏子。
「…灰色の猫は珍しくもないが、目が薄紫とは見慣れんな」
 彼は、あからさまに半信半疑の眼差しを向けてくる。
「きれいだったよ」
 その表情には色々言ってやりたいことがあったが、奏子はそれだけ繰り返した。
 お兄さんが、あしらうように、曖昧な角度でうなずく。
 それっきり、会話の糸口が途切れてしまった。
 たまに吹く緩い風が、植え込みをくぐり抜け、かすかな葉ずれの音を運んでくる。
 葉かげの虫たちのひそひそ声みたいなその音だけが、二人の間を満たしていた。

 あずき色がナス色になって、日はとっぷりと暮れてしまった。

 お母さんはまだ来ない。風が少し冷たくなって、代わりに、ほのかなカレーの匂いをのせてきた。
 隣を見上げると、お兄さんは、どこともつかない場所をじっと見つめている。
「――――…えと、ねぇ、お兄ちゃん」
 その横顔を、ちょっとの間ながめていてから、奏子は口を開いた。
 「んー」と、生返事が返ってくる。
 「お兄ちゃんは、お家に帰らないの?」――――そう尋ねようとして、口が止まった。あっさりベンチを立たれてしまったら、かなり心細い。
「…お兄ちゃんは、ここで何してたの?」
 思い浮かぶまま、他の質問をひねり出す。
「人を待ってる」
 顔も目線も動かさず、こともなげに答えるお兄さん。
「人? お友達?」
 のぞき込むように首を傾げた奏子へ、ちらりと視線を向けてきた。
「…さぁな。まだ会ったことがないから、分からん」
「 ? 」
「どこかにいるのは分かってる。その人が間違いなくオレを知っていることも分かっている。
 ところが、オレにはその人がどこの誰なのか分からないから、向こうがオレに会いに来てくれるのを待っているしかないってわけだ」
「…よく分かんない」
 お兄さんはベンチの背もたれから身体を起こし、両膝の上に肘をつくと、奏子の方へと顔を向ける。
 それから、
「そうだな。変な話だ」
なんとなく、苛立ったみたいにそう言った。

 またしても、二人の唇が止まってしまった。
 見えないカーテンが、お兄さんと奏子の間に降りてきて、話の糸口を全部隠してしまったような気がする。
 おなかが「キュウ」と鳴った。
 何か言いたげな目を向けてくる、お兄さん。
 何となく気恥ずかしくて、顔を伏せたとたん、
「奏子!」
向こうの方から聞きなじんだ声が飛んできて、奏子ははっとベンチを立った。
 公園の入り口に自転車を停め、歩み寄ってくる白いワンピース。
「お母さんか?」
 ベンチに腰を下ろしたままのお兄さんに、奏子は振り向きながらこくこくとうなずいた。
 彼は藤棚の奥から突き出ている時計に目をやって、
「所要時間48分。ずいぶんと遅かったな。
 きれいな灰色のハラの虫でも追いかけてたのか?」
ちょっとイヤなことを言う。
 奏子が眉根を寄せると、お兄さんはいい加減に手を振った。
 おなかがすいているせいか気持ちがささくれ立ったが、ぐっと我慢して、お母さんの方へと駆け寄る奏子。
 お母さんは奏子の前にしゃがみ込むと、手の平で肩をやさしく包んでくれた。
「ごめんね、奏子。お母さん、公園の反対側をずっと探してたの」
 中央公園と言うだけあって、広い。犯人は別に、銀灰色の何かではなかったわけだ。
「おなか空いたでしょう。身体もずいぶん冷えちゃってるし…寂しくなかった?」
 お母さんのあたたかい手が、夜風に冷えた背中をさすってくれた。
 両目をのぞき込んで尋ねてくるお母さんに、ふるふると首を横に振る奏子。
「平気…あのお兄ちゃんがね、ずっと一緒にいてくれたから」
 言いながら、五歩ほど後ろのベンチを指さした。
 お兄さんは、相変わらずつまらなそうな表情で、そこに腰掛けている。
 お母さんが、指先を辿るようにしてベンチの方へと顔を向け――――少しとまどったような表情で、奏子に視線を戻してきた。
「…ねぇ、奏子。
 誰も居ないわよ?」
「――え――?」
 言葉を失った。
 自分が指さしたベンチを見る。
 確かめるまでもなく、お兄さんはそこに座っていた。今は足を組み、片肘を背もたれに預けた姿勢で、こっちを見ている。
「え…と、だって、お母さん…」
「奏子。よ〜く見てみて。
 公園の中、もう誰も居ないでしょ?」
 遮るようにそう言って、お母さんは奏子の肩をくるりと回した。
 入り口を背に、人気のない公園と、今の今までお兄さんと一緒に座っていたベンチとが、真っ正面になる。
 お兄さんは、一回だけ彼女と視線を合わせると、それっきり、ベンチに腰掛けたまま、ふいっと前を向いてしまった。
 ――――そう…だったんだ…
 突っぱねるような、その無表情な横顔を見ながら、奏子はぽつりと口を開く。
「…あのね、お母さんね」
「なぁに?」
 後ろから自分の肩を抱いているお母さんに、奏子は顔を向けた。
「奏子、言い方を間違えたみたい。
 あそこでお兄ちゃんが一緒に待っててくれたから、寂しくなかったんだよって、言いたかったんだ」
「…そう」
 お母さんはにっこりと微笑んで、立ち上がった。
「お礼を言いたいけど、そのお兄ちゃんは、もう帰っちゃったみたいね」
「…ん。つい、さっき」
 奏子はうなずいた。お母さんの少し小さな手が、彼女のとても小さな手を取る。
「さ、帰るわよ」
 促され、ベンチとお兄さんに背を向けて、一足歩き出してから、奏子はすうっと大きく息を吸い込んだ。
 そして、手を引かれたままくるりと向き直り、
「お兄ちゃん。
 あたし、宮国奏子です。今日は奏子のお母さんを、一緒に待ってくれてありがとう。
 次はお兄ちゃんの名前も教えてください。
 それから…今度は、お兄ちゃんの探してる人を、一緒に待とうね」
――――ベンチの上の人影は、身じろぎもしない。
「…なぁに、今の」
 お母さんが、怪訝な顔で尋ねてくる。奏子は小さく微笑んだ。
「ん。もしかしたら、聞こえるかも知れないと思って」
 少し呆れたように、お母さんの肩がかくりと下がった。
 とたんに、奏子のおなかがまたも鳴る。
「…おなか空いた…」
 情けない声で呟く娘の手を引いて、お母さんは自転車の方へ歩く。
 奏子は一度だけ、公園の入り口で振り向いた。
 お兄さんは、まだベンチに座ってた。

4.
 そうやって、初めてお兄さんに出会ってから、今日で一週間ぐらいが経っていた。
 学校が終わると、ほとんど毎日、奏子はこの公園に来る。
 お兄さんは、いつも同じベンチに座っていた。
 いつも不機嫌だった。
 いつもうっとうしそうな目で奏子を見た。
 話しかけても、きちんと返事をしてくれるとは限らなかった。
 けど、とりあえず、「帰れ」と言われたことはない。
 奏子は今日も、木のベンチに並んで腰掛け、澄んだ青空をバックに難しい顔をしているお兄さんを見上げた。
「あのね、お兄ちゃんね。
 奏子も変わり種かも知れないけど、お兄ちゃんもずいぶん変わり種だと思うの」
「…ふん」
「えと、だって、お兄ちゃんは言ってたじゃない。
 自分が死ぬ前のことを、何も覚えてないって。自分の名前とか、死んだときの歳とかも、何にも。
 それにね、お兄ちゃん、いつも独りでしょう?」
 鼻を鳴らしたお兄さんに、奏子はちょっと勢い込んでそう言った。
 彼の眉が少し動いて、ちらりと視線が向けられてくる。
「今まで奏子が会った――その――「死んだ人」はね、みんな、誰か「生きてる人」と一緒にいたの。
 …なんでなのかは、知らないけど」
「ほぉ」
 初めて、お兄さんの目の辺りに、少しだけ面白そうな笑みが浮かんだ。
 腰をひねるようにして奏子の方へ上半身だけ向けて、口を開く。
「よく気付いたじゃないか。意外と侮れないお嬢さんだな」
 「えへへ」と、テレ笑いの奏子。
「もっとも」
 お兄さんは、また前に向き直ると、
「理由が分かってないんじゃ、何の意味もないけどな」
あっさり切って捨てる。
「お兄ちゃんは、どうしてだか知ってるの?」
 のぞき込むようにして見上げてくる奏子に、「もちろん」とうなずいた。
「へぇ…なんでだった?」
「言ったって信じないさ」
「そんなことないよー」
「少なくとも、オレなら信じないね」
「信じる。約束。絶対信じるから」
 やきもきする。お兄さんに触ることができたら、その服の袖口を掴んで揺さぶっていたところだ。
 お兄さんが、もう一度奏子の顔を見た。
「聞いてもいないうちから信じる信じる言うやつは、なおのこと信用できん」
「……ずるーいー…」
 我知らず、地団駄の代わりに、足がばたばた宙をかく。
「やかましい」
「意地悪するからだ」
「睨むな。ならヒントをやるよ。
 いいか。生きてる人間にくっついてうろついてる死人もだ、いつかは消える。そうでなきゃ、この世が死人であふれるからな。
 そこで、だ。お前の身の回りにいた死人が消えていたときに――――何が変わっていたか、思い出してみろ」
 口の中で不満のうなりを上げながら、奏子は眉毛を寄せ、思い出をひっくり返してみた。
「…いないよ、そんな人…」
「じゃあ、できるまで待て」
 お兄さんの答えはにべもない。
 奏子はひとしきり、喉の奥でうめいた。
 それから、
「…お兄ちゃん、ちょっと消えてみて」
「罪深い一言だな。できるなら、とっくにやってる」
 お兄さんの言葉に、奏子はもう一度、軽く足を振る。
 彼はうるさそうな表情で、奏子の黄色い靴を見下ろした。
 奏子が動きを止めると、お兄さんはようやくせいせいしたみたいに、顔を前に向ける。
 お話が途切れた。向こうの運動場でサッカーか何かの試合をやっているらしく、遠い歓声が聞こえてくる。
 お兄さんとの会話は、いつもこうだった。
 清流の中から顔を出す石から石へ、飛び移るみたいなもの。
 聞きたいことは色々あって、お話ししたいことも同じくらいあるのだけど、それを果たせるチャンスは、めったに巡ってこない。話題から話題に、かけ橋っていうものがかかっていないのだ。
 だから、すぐに会話が途切れてしまう。次はどの石に飛び移れそうなのか、よくよく考えないと、もう一度口を開くわけには行かない。
 うっかり話題選びを間違えると、選んだ石が遠すぎたり濡れていたりしたみたいに、冷たい川の中に落っこちてしまう。
 つまり、あのうっとうしそうな目つきでじろりと睨まれるっていうことで、お兄さんの唇が、いつもの3倍ぐらい重たくなるっていうことだ。
「唸るな」
「ふぇ?」
 不意に口を開く、お兄さん。
「大したことを考えてるわけじゃなかろうが。んーんー唸るな」
「…教えてくれないから」
 弱気な抗議は、あっさり蹴倒された。
「努力しろ。答え合わせぐらいなら、してやる」
「うー…」
「唸るなってんだ」
 冷たいと言うよりは辛辣な言い草に、奏子はちょっと肩を落としてベンチを立った。
 どうやら、お兄さんのおなかにいる不機嫌の虫が、目を覚ましはじめているらしい。その上奏子には、次のお話の上手な切り出し方も思い浮かばなかった。
 こんな時には、奏子が覚えている賢いやり方は、一つしかない。
 ランドセルを背負い直して、お兄さんにペコリとおじぎする。
「もう遅いから、お家に帰ります。
 お兄さん、さようなら」
 お兄さんは、適当に手を振っただけだった。

 家に帰って、夕ご飯を食べて、お風呂に入る。
 ものすごく薄いレースのカーテンみたいな湯気が上がるお湯につかりながら、奏子はお兄さんとのやりとりを思い返してみた。
 今までは、なんとなく「そういうことが多いなぁ」って感じていただけだったけど、死んだ人が生きている人の隣にいるのには、何かちゃんとした意味があるらしい。
 何なのだろう。ちっとも思いつかない。
「…怖いことじゃないと、いいなぁ…」
 奏子は呟きながら、いっそう深く、お湯の中に身体を沈めた。


(続く)

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