事故調査官
2003年6月20日 掲載

草村 悠太
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THE INVESTIGATOR −事故調査官−

 見晴らしのいい四車線道路だった。
 住宅街や商店街をほぼ東西に貫く、生活幹線道路だ。朝といわず夜といわず、数知れない自動車がここを駆け抜けていく。そしてそのほとんどが、何事もなくまたそれぞれの車庫に戻っていったことだろう。当然だ。車とは、行って帰るためのものなのだから。


 処分場で私たちを待っていたのは、艶のある紺色で塗装され、前面と後尾が洒落た曲線を描いている1.5ボックス、いわゆるミニバンだった。静かに降り注ぐ仲春の日差しの中で、その車体はまるで新品のような輝きを放っていた。もちろん、事故の痕跡を示すいくつかの傷跡に目をつぶればの話だが。
 私と小湊は、くだんのミニバンから少し離れた場所で足を止め、白手袋を両手にはめながら、車体をざっと観察した。
 こちら側から見えているボンネットは、ひどく損傷している。何度見ても慣れることのない、ぞっとする破壊力の傷跡だ。右のバックミラーは根本からぽきりと折れ、ウインカーとヘッドライトも同じく右側だけ砕けている。破片の量も形状も、手元のビニール袋に納められた現場遺留品と一致していそうだった。
 一方で側面にはほとんど傷がなく、右半分がクモの巣状になったフロントガラス以外にはガラス面のひび割れも見留められなかった。
 そして、問題の後部。フロントとは反対側、左寄りに、不吉な浅いへこみがあった。色が紛れて分かりにくいが、確かに赤黒い血痕も確認できる。
「まごう方なきオフ・セットですね」小湊が腰に両手を当て、模範的なはきはきした口調で言った。私は車を見つめたまま、ああ。と小さく相づちを打つ。
 オフ・セット衝突。衝突が車の中心から大きくズレて起こるため、その破壊力は正面衝突事故よりも大きくなる。シートの収まっているキャビンに致命的な変形が起きることも多く、当然、死亡率も高い。
 だが、この事故ではドライバーは死ななかった。代わりに、横断歩道の上で小学生の男の子が死んだ。「事故った」のは車の方だったにもかかわらず。
 ドライバーが死ななかったのは、もちろん運のせいもあるが、それだけではない。
 私は一つ深呼吸をすると、ミニバンに歩み寄り、右側の運転席のドアレバーに手をかけた。ゆっくりと、レバーを引く。バクンという小気味よい音がして、ドアは何事もなかったかのように開いた。あっけないほど、当たり前のように。
 ため息をついて、シートに軽く腰掛ける私。白くひび割れたフロントガラス越しに、鋼板が波打つほどにひしゃげたボンネットに両手をついて、若手の事故調査官、小湊が、どこか「してやったり」という表情を浮かべていた。
「大した安全性ですね」との賞賛の言葉に、
「不公平な安全だな」私はつい口を滑らせた。小湊が眉をしかめる。
「両方死ねばよかったって言うんですか?」
「そうじゃない。両方生きていてくれればと思っただけだ」苦笑いを浮かべた私を、小湊は少しあきれたように見下ろした。
「言われるまでもない。そのために僕らの仕事があるんですよ。事故調査の結果記録を集めて、車と道路の安全性を高めるためにね。事故調査官っていうのは、そのための職業でしょう?」
 彼の言葉に、私は自分の浮かべる苦笑いが一層強まるのを感じた。安全性が人命の救助に直結すると信じていた時代が、この老骨にもあったことを思い出したからだ。
 私は小湊へ曖昧にうなずくと、改めて運転席を見回した。エアバッグは展開していて、彼が鼻と額から流した血の跡がその上に残っている。シートベルトを取り、バックルの部分を子細に観察した。ベルトとの強い摩擦でプラスチック部品が溶けた形跡は見つからない。これは事故当時、運転者がベルトを付けていなかったことの証明だった。ドアのすぐ上に取り付けられた小さな取っ手には、髪の毛の残った血痕が見留められる。目をダッシュボードの下へ転じてみれば、ヤスリでこすり取ったように着衣の繊維が付着していた。化繊が溶けて、セメダイン状になっている部分も見分けることができる。
 彼はベルトを付けていなかったがために、衝突直後からビー玉のようにあちこちに叩きつけられたのだ。
 恐らく、まず初めに身体が前にとばされた。膝から太股の辺りをダッシュボードの下部に強くこすり、上半身はエアバッグにのめり込んだ。折れた鼻骨はその時の傷だろう。しかし、加速度の暴虐はそれだけにとどまらなかった。オフ・セット。右側だけを障害物にぶつけたミニバンの後部は強い慣性力を押さえきれずに半回転し、彼は天井近くの取っ手に頭部を強打。ようやく鋼鉄のじゃじゃ馬が動きを止めたときには、もうぐったりしてエアバッグにもたれていたというわけだ。
 確かに小湊の言うとおり、この車に装備された数々の「安全グッズ」は、一人の人命を救った。エアバッグは彼がフロントガラスを突き破って飛んでいくのを、鼻の骨を折るというごくおとなしい方法で食い止めたし、激しい衝突にも屈しなかったキャビンは頑健なゆりかごのように彼を包み続けた。救急隊員が迅速に運転者を車外へ引き出せたのも、運転席のドアが衝撃に耐え、変形せずにおとなしく開いたからだ。彼は今も集中治療室で昏々と眠り続けているが、生命の危機を脱したことは確かだそうだ。
 そう。自動車メーカーの努力の成果で、確かに車の安全性は一昔前とは比較にならないほど向上した。
 しかし、では一体なぜ、事故発生率はいっこうに下がる気配を見せていないのだろう。

 私は車体の調査を小湊に任せると、自分の車に戻って本件のファイルを開いた。
 運転者がどのように操縦し、車がどのように振る舞ったのかはおおよそ分かった。次に知らなければいけないのは、「なぜ」そのように振る舞ったのか、だ。
 写真を見る限り、現場は見通しのいい四車線道路。問題の車が鼻先をぶつけたのは中央分離帯だ。商店街と住宅街を結ぶ横断歩道が道路を横切る場所で分離帯がとぎれており、その先端には黄色の警告灯が衝角のように突き出している。どういう訳か急ハンドルを切ったミニバンがそこに激突したのである。
 車体の損傷度から推測するに、その時の速度は時速60キロ前後。疾駆する巨大な金属の塊が横断歩道にさしかかる、その百メートル足らずの間に、一体何が起こったのだろうか?
 それを教えてくれるものの一つが、目撃者の証言だ。死んだ少年と同じ横断歩道で信号待ちをしていた人々の言によれば、
「車の流れはスムーズだった」
「歩行者側の信号は、もう青になろうとしていた」
「車道の信号は、黄色ないし赤だった」
「問題の車は、信号手前で速度を上げた」
とのことだ。一部矛盾に感じられる部分もあるが、事故を見届けてから信号を見たか、信号を見た後で事故を目撃したかで記憶の内容が食い違うことは容易に想像がつく。
「しかし、これだけではな…」私は証言のファイルをめくりつつ、ぼやいた。
 事故当時、信号機がきわめて「どっちつかず」の状態だったことは分かる。事故の時間から考えると、帰宅の渋滞が始まる前だから道がすいていたことも道理だ。だが、なぜ少年が歩道を渡りはじめ、なぜミニバンは加速し、そしてなぜ急ハンドルを切らなければいけなかったのかが分からない。
 私はもう一度、分厚く束ねられた現場の写真を眺めていった。
 広い車線。まっすぐな道。緩衝材と風よけをかねた植え込みのある中央分離帯。多少背後のビルと重なってはいるものの、長く伸びたひさしを持つ視認度の高い信号機。センターラインも横断歩道も、くっきりと白く浮かび上がっている。
 緩い上り坂の頂上だという点を考慮に入れても、充分及第点に達する安全な道路だ。
 しかし現実に、この道路で事故は起き、幼い命がアスファルトに散った。
 はっきりした展望は今後の詳しい調査を待たなければ何とも言えないが、ドライバーの青年が描いていた未来の青写真も、恐らく大きな変更を余儀なくされるだろう。エアバッグもABSも、そこまでの安全性は備えていない。どんなに安全な自動車を作り、どんなに安全な道路網を整備しても、ひとたび起こってしまえば誰もが大きな不運を背負わざるを得なくなるもの。それが事故なのだ。

 と、写真をめくっていた私の目に、興味深いものが飛び込んできた。路面に書かれた、撤去マークだ。
 ひらめくものがあった。いや、むしろもっと早く気付いてしかるべきことだった。腕時計に目を走らせる。事故が起こった時刻まで、あと一時間。
「小湊!」私はドアを開け放つと、そこから顔だけ突き出して、有能で理想に燃える部下の名を呼んだ。スーツのまま片膝をついて車の下をのぞき込んでいた彼の顔が、こちらを向く。私は手招きした。
 小湊はすぐに従ってくれた。白手袋を外しながら私の方へ歩み寄り、
「何ですか?」開かれた助手席のドアに片腕を預ける。
「現場に行く。早く乗ってくれ。時間が惜しい」私はせわしなくイグニッションキーを回し、サイドブレーキに手をかけた。
「あの車、置きっぱなしにして行くんですか?」さすがに今度は驚いたように、小湊。だが、
「勝手に走り出しやしないよ。こっちの方が急を要するんだ」私がシートベルトまでしたのを見届けると、諦めたように助手席に身体を沈めた。彼がドアをロックすると同時に、私はアクセルを踏み込んだ。

「どうしたっていうんですか、一体」小湊は、車体の調査が強引に中断させられたのが心残りらしく、訝しげな視線を向けてきた。
「事故の原因が分かったんだよ」私は前を向いたまま、答える。小湊の怪訝な表情が強まるのが、見ていなくても分かった。
「一応ざっと調べた限りでは、車の機械的故障は発見できませんでした。つまり、車自体の性能には問題はなかったわけです」手の中で小さなマグライトをもてあそびながら、小湊が口を開く。その後に、私も言葉を続けた。
「現場の写真を見たよ。四車線の、整備の行き届いた安全な道路だ。信号の視認性も良好だった」
 小湊が腕を組む。
「…ドライバーのミスか、男の子の飛び出しですね…」
「そうかい?」
「ええ、残念ですけど。こればっかりは、車や道路の安全性じゃ補いきれない」そう言って、小湊はシートへ深く背を預けた。
「私はそうは思わないね。これは、道路も車も安全で、しかもそのことをドライバーがよく知っていたからこそ起こった事故だよ」
「…どういうことです?」私の言葉に、彼は再びシートから身を起こした。その声音には、明らかに意味不明な理論への嫌悪感がうかがえる。安全な道路と欠陥のない自動車は事故を退けるのだと、彼は信じているのだから。
 私は落ち着いて、彼の、そして多くの人が等しく抱いているであろう根本的な誤解を解き始めた。
「彼は――――というのはドライバーのことだが、事故を起こした道路をよく使っていた。ナンバープレートから割り出した彼の駐車場は、事故現場から車で十分ほどだ」
 赤信号が車の流れを止め、私はサイドブレーキをかけると小湊の方へ視線を向けた。彼は食い入るように私を見ている。信号待ちの列が再び流れ始めてから、私は先を続けた。
「事故当時、路面の状態も良好だった。もちろん視界もだ。流れもスムーズで、危険な要素など何一つ見あたらなかった。一見すれば、事故など起こりうるべくもない、理想的な状況がそこにはあるように感じられた。しかも、通い慣れた道だ。彼が、自分の足で歩いているのと同じ程度の意識しか働かせていなかったのは、まず間違いがない。
 だがその足下で、「順調」という罠が大きく口を開けていた。彼に危機感を抱かせるものが、何一つなくなっていたということだよ。
 ――――さて、ここで一つ聞きたいことがある。
 『車を運転するときに、絶対忘れてはいけない最大の危険とは何でしょうか?』」
「最大の、ですか…」小湊は軽く考え込み、
「やはり、周囲の――――」
「はずれだ」彼の答えを聞き終わらないうちに、私はその言葉を遮った。
「じゃ、なんだって言うんですか」さすがにむっとした口調の小湊。
 後進の抱いている疑問と苛立ちを感じとりながら、私はありったけの厳粛さを込めて、彼に求めていた答えを口にした。
「車を運転するとき、絶対に切り離せない最大の危険――――それは、速度だ。
 自分がとんでもない速さで動いているという、一番単純な事実だよ。
 時速60キロで走っていれば、一秒間で16メートルも進んでしまう。人間の生理的な反応限界速度は十分の一秒だと言うから、歩行者を発見した瞬間に誰よりも早くブレーキを踏み、しかもその瞬間に車が停止したとしても、1.6メートル以上車から離れていない限り、轢いてしまうんだ。
 絶対に救えない距離というものが、車の運転にはつきまとっているということだよ。
 彼はそれを忘れていた。いや、彼だけじゃない。いま現に君も忘れていたし、私も時々忘れる。
 ほとんどのドライバーが、何で車が便利なのかを考えずに運転しているようなものなんだ。これが、事故の原因の第一番目だ」
 助手席で、小湊が息をのむのを感じた。私は、何か全身の力が抜けていくような気分の中で、あのミニバンが辿ったのと同じ道を走り始めた。証言の通り流れはスムーズだが、写真には写っていなかったファクターがそこには存在していた。
「…ほら、見てくれ。これが原因のその二だ」幾分速度を抑えながら、小湊に外を見るように促す。
 ウインドウ越しに見えるのは、片側一車線をほとんど埋め尽くしている違法駐車の列。その前後からいつ人が飛び出してくるとも知れない、車の列だった。
「…夕食の買い出し、繁華街への出入りの始まり、あるいは家族の送迎…理由は様々だろうが、この時間帯、この場所は、事実上片側一車線の道路になってしまう」
 恐らくこれが、いつものこと、普通のこととして認識されてしまっているのだろう。歩道側にはガードレールがあるため、車から降りる人々は皆、当然のような顔をして車道に降り立っていた。
 スーパーのビニール袋を両手に下げた主婦が、自殺志願としか思えないほど無警戒にボックスワゴンの後ろから車道に姿を現し、腰をかがめてドアのキーをまさぐり始めるのも見受けられる。万が一バイクにでも接触すれば、惨事は免れ得ない。自分だけには神のご加護があって、衝撃に対して滑稽なほど無防備な人体へ、鉄の塊が突進してくることなどあり得ないとでも思っているのだろうか。
「なんてことを…」小湊が呻く。
「…そして、原因その三があの信号だ」私はそう言って、緩い上り坂の上に建っている信号機を指さした。
 分かります。と小湊はうなずいた。
「上り坂。アクセルは少し強めに踏んでいる。そこで目の前の信号が黄色になっても、すぐに止まろうとは思わない。『ここまで来たんだ、もう少し急げば間に合うさ』…そう考えて、アクセルを踏む足に力がこもる」
「その通りだ」うなずく私。彼は小さく毒づいた。
「そして、原因その四。
 歩行者の見切りの早さだ」
 折しも、信号が黄色に変わった。それと同時に、歩行者が道の両側から歩き始める。
 私は車を止め、彼らが渡り終えるまでハンドルにもたれ、じっとその流れを見つめていた。
 やがて信号は再び青に変わり、私たちは走り始める。
 しばらくの間、私たちは言葉を交わさなかった。車を交差点で左折させ、ずっと交通量の少ない支線に入ってから、私はようやく口を開いた。
「…分かっただろう? いくつもの些細な「当たり前」が、鎖のように連なって今度の事故を引き起こした。
 ドライバーが何に驚いて急ハンドルを切ったのかは分からない。たぶん路肩の車の陰から、何かが飛び出してきたんだろう。いずれにしても、彼が信号待ちをしようと速度を落としていれば焦る必要はなかったのだし、あの男の子にしてみても、ちゃんと信号が青になるのを待っていれば、振り子のように半回転してきたミニバンの後部に激突することもなかった。
 関わってきた多くの人が、ただいつも通りのことをしただけなのに、今回に限って事故が起きた。
 「ミス」じゃないんだよ。危険な行為が普通のこととして行われていた結果、起こるべくして起こったんだ。
 あの男の子がはねられ、あのミニバンに乗っていたあの青年が罪を問われるのも、その時に限ってミスを犯したからじゃない。いつ起こっても不思議ではなかったことが、あの日のあの時間に起こっただけなんだ。
 ただ、確率の問題だっただけだよ――――」
 嫌な結論だった。なぜもっと、おだやかな警鐘が鳴らなかったのだろうか。なぜ死亡事故が起きる前に、もっと小規模な事故が起きなかったのだろうか。そうすれば、前途ある二つの命がこんな形で致命的な転換点を迎えることもなかっただろうに。
 そんな思いは拭い得ない。
 帰途、小湊は、終始無言だった。


 事故には、必ずしも劇的な要因や絶対の悪人が存在するとは限らない。むしろ、細くて小さいファクターの鎖がない合わされ、一つの破滅的な結果をもたらすことの方が多いのだ。
 私は事故調査官として、もうずいぶんと長いこと交通事故という怪物と戦ってきた。それは各自動車メーカーも同じことで、道路や車両の安全性は確かに向上している。
 しかし、道路や車を使う人間の側の安全性は、まったくと言っていいほど向上していない。どんなに機械の側の性能を上げても、扱う人間の危険で無自覚な行為が、そのゆとりを食いつぶしているのだ。
 私の事故調査官としての職務が、イタチごっこの終わる日を一日でも近づけられたのかどうか、正直に言って確信は持てていない。最後は一人一人の事故防止意識だけがこの交通戦争を終息へと向かわせることができるのだと言いたいが、そんなことが実現可能なくらいならば、私はとうの昔に失業している。
 自動車は間違いなく便利なものであり、今や必要不可欠なものとなっていて、その存在意義の根本には、事故の発生を食い止めようとする人間の努力をあざ笑う「速度」という要素を持っているのだから。


 日当たりのいい、広々とした道だった。
 周りは高級住宅地で、静けさとおだやかさに包まれている。
 街路樹の新緑が目に心地よいこの道を、毎日多くの自動車が行き交い、そしてその内の大半は、何事もなく決められた場所へ戻っていったのだろう。
 当然だ。車とは、行って帰るためのものなのだから。

 そんな当たり前の認識が、目の前の光景に当てられ、また今日も静かに崩れていった。


《了》

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