3.音楽によせて - 音響室(1)




 私たちが日ごろ慣れ親しみ経験している音一般とは、一体どのような性質をもち、どのように成り立っているのであろうか?。この項目では音、音響一般について、初歩的な段階での物理的な側面に定位して、しかも私の独断的興味に基づいて”実験”してみたいと思う。そしてそれは、1950年代に興った電子音楽の基本的な方法へと連結されてゆくであろう。

 当音響室の主要な実験用音響合成装置としては”CSound”を使ってみよう。尚、生成された音源は全てMP3形式に変換してある。



1.一般的な音色の意味

 我々が通常耳にしている音響というものは、それが如何なる音であれ、何かしらのそれ固有の性格や特徴を持っているものである。例えばギター音、ピアノの音、犬の鳴き声、古なべをたたく音等々、それらの音はみな他のそれとは違うその特長において、そのように我々は聴き分け、区別し得る。

 では何故そのように個別に認識され得る固有の性格(音色)を、それぞれの音が持ち得るのであろうか。そもそもここで言う音の違いとは何に基づくのであろうか?。まず最初の段階として、このような問いかけを切り口として、音というものの物理的な側面から考えてみよう。


 
・倍音

 ここに単純なひとつの実験楽器を持ち出してみよう。この楽器は細長い板切れで出来た胴体を持っていて、その両端には胴体とは直角に、それぞれ同じ高さのブリッジが取り付けてあり、それを支点として一本の弦が張られている。この弦は調律できるようになっていて、今は100Hz(ヘルツ)に調律されている。

 音響開発用弦楽器・Treumenschaft Op9-32s®  (音は良くないらしい)


 さて、この単純な楽器の弦を弾いてみよう・・・。音の良し悪しは別として、調律されたとおり、我々が期待したとおりに100Hzの音が響いた事であろう。しかし、今耳にした音は実のところ、単純(純粋)な100Hzの音ではないのである。通常、この基本的に調律された周波数=100Hzを基準に対して、その2倍、3倍、4倍、5倍・・・といった、”整数倍”の周波数を持つ音が含まれているのである。このような音は、基音、あるいは基本音の周波数(ここでは100Hz)を基準として、その整数倍の値を持っているところから”倍音(自然倍音)”などと呼ばれている。この楽器の場合は基本音100Hzに加え、その2倍の200Hz,3倍の300Hz、4倍の400Hz・・・等というように、基本100Hzを基準にした”倍音列”を含む音として響いているのである。これは発音体の”音色”にかかわる大きな要素である。しかしながら重要な事は、何かしらの音を出せば如何なる発音体であれ、いつでも同じような倍音列を、同じような割合で含む音が鳴るという訳ではないという事である。倍音の現われ方とは、その音を発する発音体固有の条件(あるいはまた音を聴く環境的条件等)によって変わってくるのである。例えば、ギターとクラリネットを演奏して同じ音高、例えばGis音を鳴らしても、同一の音高ではあるにせよ、それを全く同じ音色として感じられないのは、その楽器固有の物理的発音条件が異なっているからである。すなわち、楽器等の発音体の条件に応じて、倍音の現われ方もまた違ってくるのであり、その固有の現われ方が、その発音体独自の”音色”(正確にいうと倍音だけではないのだが)を与えているのである。

 
自然界においてはここでいう整数倍の倍音だけではなく、非整数倍の倍音も存在するのであるが、ここでは分かり易さから便宜上、整数倍の倍音のみを扱う事とする。




 
・音の分解遊び

 次に上に記した事とは全く逆の方向から音を観察してみよう。

 上に記したような事から、我々が日常において聴いている音というものは、その音を発生させる物の構造や性質などの違いによって、様々な様相を示す訳であるのだが、その聴き分けられ、区別され得る個別的な倍音構成は、音響物理的には”波形”の違いとして表現する事も出来る。

 音とは周期的な波としての性質をもっている。そして現代においては音のこのような振る舞いを、例えばオッシロ・スコープ等の観測機器を使って”見る”事が出来る。

 ここで観測機器として先述のオッシロ・スコープを持ち出してみよう。これは非常に高価なので取り扱いには注意を要する。・・・そして以下に示した波形が観測された。


 ここで観測された波形は、最も単純な波形である”正弦波”である。これを例にとって説明してみるならば、まず座標として中央の直線は時間軸である。そして、この時間軸に直交する上下方向は波形の振幅のレベル(音の大きさ)を表している。この波形の場合、ある一定の時間周期(振動)において、同じく一定の振幅でもって規則的に運動する波形として示されている。

 さて、その規則的な周期性から、周期ごとの同じ点(例えば波形の”山”の頂点)に目を向けてみよう。そしてこの点と次の点との間、これがこの波形における周期であり、通常1周期あたり360度として表される。例えば”山”の頂点から次の”谷”の底までは丁度1回の周期(360度)の半分なので180度の”位相”の違いがある。ただし、ここでいう”山”の頂点が波形の原点(0度)なのではない。それは振幅のプラス・マイナス0の地点である。

 上記の2点間(1周期)は時間軸において様々な値を取り得る。この値の違いは人間の可聴域であれば”音の高さ”の違いとして聴くことが出来る。この周期の速さ(音の高さ)を表現する方法として、波形周期を測定する時間の単位を1秒とし、その時間内に周期(振動)が何回あったかで表される。これを”周波数”といい、Hz(ヘルツ)で表現される。例えば、1秒間に220回の周期であるならば、220Hzと表現され、1490周期ならば周波数1490Hz(1.49kHz)と表現される。高い音は低い音に対して、単位時間当たりの周期の回数(振動数)が多いのである。

 しかしながら、通常我々が聴いている音とは、ある特別な場合を除いては上記のような単純で純粋な波形とは程遠い、複雑なものである事のほうが圧倒的に多いはずである。例えば以下のような波形である。



 さて、では何故我々が出合う音の多くが、このような”不純”な波形を示すのであろうか。この複雑な波形の意味とは一体何なのであろうか。実はこのような波形の複雑化とは先述の”倍音”の仕業なのである。我々が日常的に耳にする音とは多様な倍音の分布を持つ事によって、その音をその音として特定し得る特徴を持ち合わせているのであった。そして、このような”不純”な波形といえども、その波形に基づいて、その音に固有の倍音の分布のあり方を分析し、結局のところ、その音に含まれる最小要素にまで分解する事ができる。これはフーリエ解析という数学的手法によって分析できる。これによれば種々雑多にある波形の違いは、それらに含まれる倍音の在り方の違いでしかないのであり、如何なる音響であっても原理的に、多様に合成された正弦波に還元されるのである。

 上記のフーリエ解析によって得られるところの複雑な波形の要素とは、基本音に基づく倍音列である。ならばその基本音や各々の倍音とはどのような種類の音なのか。実は基本音や倍音をひとつ取り出して、もし例のオッシロ・スコープで観察出来るならば、この項目で波形の例として最初に示した”正弦波”として示されるであろう。正弦波による音は”純音”とも呼ばれ、最も基本的な性質を持つ音、波形なのである。すなわち、様々ある音は純粋な正弦波音(基音、倍音として)が多様に合成された結果なのである。




 
・倍音列と波形

 ここで再び倍音に関する話題に戻ってくるのであるが、先に倍音とは基本音の周波数に基づいて、その整数倍の周波数で響く音であり、音色(波形)の違いとは、その整数倍の倍音列の強度がどのように分布しているかの違いに求められるという事であった。では、その倍音の強度分布の違いが実際に、どのような音色の違いとして聴かれるのかを聴いてみる事にしてみよう。

 まずは最も基本的な波形である正弦波音を聴いてみよう。(を押して再生、形式はMP3)

種類 波形 再生
A.正弦波



 今聴いたのが正弦波による音=純音である。純粋であるが故に貧弱ともいえる響きである。音叉の音がこれに近い。

 次に、この正弦波を合成していくつかの特徴的な倍音分布の例を再現してみよう。初めに以下のようなグラフ(かなり強引な強度分布ではあるが)で示される倍音列を持つ単音を再現する。グラフの縦軸は各々の音の強度(波形での振幅)を表しており、横軸は周波数である。下の数字は”1”が基音であり、”2,3,4,5,・・・”は基本音の周波数の倍数であり、倍音の取る値である。このように示される分布図をスペクトルと呼ぶ。以下、基本音の周波数は440Hzとしよう。持続時間は10秒である。

倍音分布 A 再生


 先に聴いた440Hzの単純な正弦波音とは全く異なる音として聴こえる。これは基本音に比較的近い底次倍音が勝っている音である。

 次は上記のものとは逆のパターンの倍音分布をもつ音である。

倍音分布 B 再生


 このような種類の倍音構成を持つ音は、硬く引き締まったような響きを持っている。次を聴いてみよう。

倍音分布 C 再生


 これは基本周波数に対して3,5,7,9,・・・の奇数次倍音が強い分布を示すタイプの音である。次を聴いてみよう。

倍音分布 D 再生


 これは上記のものとは違い、偶数次倍音を多く含むような音である。何となしに丸い感じの響きである。


 以上の4例からも分かるとおり、基音の周波数(強度も)は同じであっても、それに含まれる倍音列がどのように構成されているかの違いによって、その音色にはかなりの幅が出てくるという事が確かめられたのではないだろうか。

 ただし、例えばある楽器の音色を決するのは、ここでいう倍音列の強度分布、すなわち波形の違いのみに求められるのではないという事は言うまでもない。音色を決める重要な要素としてはこの他にも”エンヴェロープ”つまり、音の立ち上がり_アタックの様子(通常、多くのノイズ成分が含まれるであろう)。_や、その後の持続と減衰の様子、また立ち下がり_リリースの感じ_を表した曲線にも求められるのである。さらにはこのような音の振幅の時間的特長の中にあっても、個々の倍音のエンヴェロープもまた独自な曲線を持ち得るのである。これはひとつの音が持続する中にあっての音色の変化として聴かれるであろう。この他にもアタックに含まれるノイズ成分の特徴や、ヴィブラートの有無、またその掛かり具合等によっても大きく影響されるであろう。我々が最終的に聴き分ける音響の条件とは、かなり錯綜としたものなのである。


エンヴェロープ曲線の例
Aは音の立ち上がり(アタック)であり、Bは持続、または
減衰時間、Cは消音までの開放時間。発音体の種類に
よって大きく異なる。





 
・自然倍音列と和声

 以下の図は基音(A音)とそれに基づく倍音列を譜表上に表したものである。まず基音の2倍の振動数を持つ倍音がオクターブ上に現われる。続いて現われるのが基音の3倍の振動数を持つ倍音、E音である。これはA音に対して5度音にあたる。4番目に基音の2オクターブ上の音、5番目にCis音、すなわち長3度音が現われる。このA,E,CisのAを根音とした長3和音を構成する音が、自然倍音列の最も早い段階で現われてくるのであり、この事によって長3和音が最も調和的であり、安定した響きをもった和音であるとの根拠を与えられてきた。



 このような自然倍音列の在り方は、実に音楽において大変に大きな影響力を及ぼし続けてきたのである。すなわち、西洋の音楽においての和声理論の拠って立つべく根拠として、この自然倍音列の共鳴を見出し、その妥当性を増強する指導原理として導入したときより、その機能和声の体系は決定的に絶大な権勢を振るうようになったのだ(しかし、和声の根幹たる全音階システムは、この自然倍音列から”生まれた”のではなく、単に検証され、支配力を与えられたに過ぎないのだが)。_自然と音楽との調和?それとも硬直した限定?_この倍音共鳴に基づく和声の重力は和声それ自身の振る舞いのみならず、次第に他の音楽要素、例えば拍節法やリズム、強度の分節、楽式論的構造、はては楽器の開発や人々の音楽的認識に至るまで、およそ音楽の周囲にあるものは如何なるものといえども和声機能の重力圏内に捉えられてしまった。この影響力は西洋の音楽において長らく続いたのであるが、ようやく19世紀末期から20世紀の初めにかけての新しい流れの内に息絶え、崩壊したかのようにみえる。

 自然倍音列を後ろ楯に、自然の理と調和を標榜し、如何にその機能和声の体系が、それ自身の内部的連関の有用性において、多くを説き伏せるほどの効果をもたらし、またその事をもって自らを至高の芸術的理念の拠って立つ基本原理、揺るぎない位階にまでのし上がり、巨大な権勢を振るったとしても、人間の感性や創造性といった能力からしてみれば、それはまさに己の本来的な力の発現を阻むものでしかなく、たとえその勢力圏内に自身があろうとも、真に創造的な音楽家たちはいつもそれと対決するような形で、そのせめぎあいの内より絶えず新しいものを掘り起こし、拾い上げてきた。どうやら人間の創造性とは、ひとつのもののもとに長らく留まっている事を好まないようである。たとえトニックが如何に安定した響きを持つものであったとしても、その単純な響きと決まりきったカデンツをいつも聴かされていたのではたまったものではない。たとえそれが自然の理にかなった事実であると主張したとて、最早まじめに耳をかす者もいなかろう。何故ならば、音楽が自然の理に叶っているという事と、人間の感性が音楽に求めるところの価値とは意味が全く違うであろうから。

 この場合、和声機能の自然的、調和的美しさなどはさして重要なものではない。現在の巷に溢れるポピュラー音楽であってさえ、単純な和声や進行に身を任せる事はないであろう。最も倍音列的に自然で安定しているとされる三和音などはそこに聴かれる事はほとんどなく、四和音、五和音がそれにとって変わっており、風変わりな転調が工夫され、全ては感性のおもむくままに利用されている。たとえそれが、未だに調性的和声原理が底辺にあろうとも、そのうえで絶えず新しい響きがその原理が理想とするところのものとは相反するかたちで展開されている。これは未だ和声の重力圏内にあるひとつの出来事に過ぎないが、しかし20世紀を前後してヨーロッパでは、伝統的和声の重力圏においてではなく、まさにその重力源そのものを乗り越えるかたちで全く新しい種類の音楽の潮流が生まれた。以降その流れは現在に至るまで、多様に展開されつつ続いてきた。


 
・音色の再構成

 さて、横道にそれた話題を本筋に戻す事として、以上の基本的な知見から、ある音色を持つ音はそれ独自の波形を示し、その波形も数学的手段(フーリエ解析)によって濾過すれば単純な正弦波にまで分解出来るのであった。逆にいえばその正弦波の分布構成に、何らかの方法で変化の手を加える事が可能であるならば、音の要素である音色も作曲家自身の手でもって、他の要素と同じレベルで意図的に操作し得るという事である。

 かつてのヨーロッパ伝統音楽が、その依拠するところのものであった調的和声の体系が天寿を全うした後、それに取って代わる新しい理論や試み、またいくつかの潮流が現われたが、後の音楽を牽引すべく大きな可能性を秘めていたのは事実上、A.シェーンベルクが推し進めた12音技法であった。この技法がどのようなものであるかは別の場面に譲らざるを得ないが、大まかに言えばオクターブ内の12の音を重複なしに並べてそれを基礎音列とし、その基礎音列から”反行(転回)形”、”逆行形”、”反行(転回)逆行形”の3つを導き出し(各々の呼び方はいろいろあるようだが)、基本形とあわせた4つの形の音列を、さらにそれぞれの形の12半音ずつの移高形を導き、この4種の形と48の移高形を楽曲構造を可能にする唯一の素材として、楽曲を構成してゆくというものである。この音列とは単なる音の配列ではなく、隣り合った音との音程の比率関係による規則性を基となす順列、配列というべきものである。

 シェーンベルクはこの技法の本質的な部分を、音の要素のひとつである”音高”の組織化(旧来の調的和声理論に替えて)、つまり和声と旋律に限って適用したのであるが、後の時代になって音高以外の要素(強度、長さ、アタック、音色等々)にも適用されるに及んで(全面的セリ−主義)、いよいよその潜在的能力の顕現としての有用性を表し始めたのである。

 話は変わって、我々が親しんできた数々の楽器のほとんど全ては、旧来の調性的和声音楽の中にあって作られ、改良されてきたものである。したがって、このような楽器と新しいタイプの音楽技法との間には、融通の効かない軋轢が生じてきた事には驚くに値しない。すなわち、楽器の演奏において人がコントロールし得るのは、まず音高であり、次に近似的に音長や強度であろう。この要素は配列(セリ−)的作曲技法の対象となり得るのであるが、しかし”音色”(他に空間的な位置や方向など)に関しては、他の要素と同様には扱う事が出来なかった。

 セリエルな作曲が台頭してきた20世紀中頃、この時代の前衛的作曲家の多くは、音のあらゆる要素を作曲の条件として、またそれらをただひとつの統一的作曲原理に基づいて実現する事を望んでいたのであるが、音色を含めてそれを実行しようとすると、楽器に固有の音色とは、その音色変化の及ぶ範囲や楽器の交換のみではどうにもならない現実に突き当たる事になる。ここでいう音色を他の要素と同じく配列的に組織化するとは、楽器ではなく、ある楽器の音色そのものの要素を組織化するという事である。先の例でいうところの波形(音色)をその様に在らしめる倍音構造そのものを、作曲要素のひとつとして配列化し、他の要素と同じく扱って作曲するという事なのである(!)。すなわち、基礎となる配列順序・セリーに基づき、倍音構成も相応に変化(音色の変化)する事が、その様な作曲を可能にするような発音体=楽器が望まれるのであるが、しかしながら、それを可能にする楽器は残念ながら現在においてすら有りそうもないのである。(もっとも、現在においてはここで取り上げたような、厳密にセリエルな手法でもって作曲するという事はほとんど行われないのであるが・・・)

 あなたはおそらく倍音構成を自由に構成できる楽器として、音響合成装置・シンセサイザーがあるではないかと思われるかもしれない。しかしながら、音色を作曲要素として他の要素と共に統一的に扱うような、ここでいう厳密なセリー主義的作曲法の底から見てみるならば、たとえシンセサイザーとて未だ役不足であると言わざるを得ない。確かにこの新しい楽器装置はかつてないほどの可能性をもってはいる。けれども、例えば作曲家が倍音構成(音色)を、他の要素である音の持続や強度などと同等に、統一的な作曲の条件として取り入れた場合、その楽曲に基づき、それを忠実に(”セリエル”に)再現し得るであろうか?それは現時点でさえも無理である。なぜならば、如何に倍音構成をコントロールしたとて、それはそのシンセサイザーの持つ音色としてであり、”プリセット”された音として、実に大まかな”音色の切り替え”程度に過ぎないのだ。演奏される(セリエルな)音楽そのものの内容にしたがう事は出来ないのである(この場合、一音、一音が統一的セリーに基づき、全く異なる倍音構成、すなわち音色を持つであろうから)。この意味からいえばシンセサイザーというそれまでになく原理的に新しい楽器とはいえども、このような種類の音楽の技法的必然性・要請からしてみれば、旧来からの楽器と何ら変わるところはないのである。(もっとも、現在の技術水準からしてみれば、このような事を実現するのは決して不可能ではないであろう。ではなぜこの事が実現されないかといえば、それは単にそのような作曲上の要請が、現在においては無いに等しいか、開発を促す程には達していないといった程度のものなのであろう。企業は少数派のために多大な開発費用を投入する訳にはいかないだろうし、それによる採算も割に合わないものであろうから)

 次代は下って1950年代、まさに上記のような要請(シンセサイザーはまだなかった)からK.シュトックハウゼンらによって”電子音楽”が生まれた。当時の徹底的にセリエルに作曲しようとした急進的作曲家にとって、音色(あるいはその他いくつかの)というパラメーターは如何ともしがたい要素であったが、しかし時代の電子技術はようやくそれを可能にするレベルに達していたのだ。この新しいタイプの音楽は通常の楽器を必要としない。作曲するために必要な道具は紙や鉛筆などではなく、音波発生器や磁気テープ等の記録媒体などである。大事な事は(現在においても)、単に電子的な音響を扱う事が電子音楽の意味なのではない。先に述べたように、例えば音色さえもそれを倍音構成レベルにまで分解し、しかもそこから徹底してセリエルに”作曲”し得る可能性を実現するがための音楽的な方法、技術であるという事である。この意味から、同時代にあった同じ記録媒体(磁気テープ)の上に実現された”ミュージック・コンクレート”とは区別される。

 この原初的な電子音楽の世界においては、通常の音楽とは異なる尺度でもって音や空間、時間などが計量される。例えば通常の音楽でいう音高や音程は周波数”Hz”で表され、音の長さは音符ではなく時間の単位(例えば秒)、あるいは磁気テープの長さ”Cm”であり、音の強度はフォルテやピアノではなくデシベル”dB”で表される、等。つまり、以前は人間の感性、感覚などを拠り所としていた相対的、あいまいな要素のほとんど全てにわたって客体化され、そしてそれは統一的に、厳密に確定し得るパラメーターとして、各要素間において矛盾なく扱う事が可能であり、よって、およそ音の要素たりえるものは、努めて近代的学知の辿った経緯からの抽出物である理念化、均等化された時間・空間の前提のもとに、みな等しく同一の座標軸の上に然るべき値をもって配置されうるものとしてみなされるようになったといえる。この事態はまさに点描的、全面的セリー主義の理念に基づく作曲法の理想形として行き着いた姿といえる。

 しかしながら、この新しい音楽上の成果というものが、そのまま音楽全体における新しい価値を提示したのかという事とは、同列には評価できない別の話である。むしろ私は、ここに流れ着き、今に続き、それを可能にした一連の経緯(その淵源は意外と遠いところにまで遡る)の内に、近代以降標準化されつつ根をおろしてきた、端的に言って、人間における世界観・世界像の変化という事態をうながしたものに深く関って来たのだとの感を強くするのである。そしてその底流にある、いや、その歴史的経緯が露呈した課題が、そのまま音楽上の諸問題として、特に20世紀中期以降、先鋭化してきたように思える。その意味からすれば、このような電子音楽の成立や、それを取り巻く状況は象徴的であって、またそれは、現代の音楽、音楽家、聴衆との歩み寄りがたい乖離という状況の底にあるものとして浮かび上がってくる。だがこの事についてはここに取り上げるべき事柄ではないので、別の機会に譲らざるを得ないし、また私自身それを的確に言い表す事は難しいであろう。それは音楽について語る以上に多くの言葉を必要とするであろうから。


 2003.3.2



 付記

 この項目に関しては単独のページとしてまとめてしまいたかったのであるが、どうやらそうするには量的に無理があるようである。したがって、本稿の続きはまた別の機会に掲載したいと思う。

 2003.9.19  (一部改訂)





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