陽の恵み、月の癒し<4>

 私は、かつて愛しい者を守れなかった。
 誰よりも私を愛し、守ってくれた者を。
 失ってしまった。
 二度と戻ってこなかった。
 だが運命神のきまぐれで、残された欠片を拾った。
 せめて、欠片だけでも守りたいと願う。
 どうか。
 どうか、自由に。
 私を縛り付けた檻に、囚われませんように───。


さらさらと流れる音がした。
ともすれば聞き逃してしまう、淡い音。
幼い頃、その音が好きだった。
その音の側では、何も怖いことはなかった。
微かに流れる淡い音。
それは、長い髪の毛が流れる音だった。
ぼんやりとした視界に、長い銀髪が映る。
二度と見ることはないと思っていた──流れる銀の髪。
言葉は、自然に沸き上がっていた。
「かあさん───…」
小さく呟くと、意識は再び沈んでいた。
追憶の波間に漂えば、記憶が沫のように浮かびあがってくる。
母親の長い髪が好きだった。編んでいた髪をといて、梳る姿をいつまでも飽きずに見つめていた。優しい指先が手招きしてくれるのを待っていた。でも、母親はもういない。優しい指は、どこにもない。柔らかに語り掛けてくれる声も。そう、思っていたのに。
あの方の声は、母親を思い出させた。
どうしてなのか、わからなかったけれど。
「セアラ」と、名前を呼ばれるのが嬉しかった。
足繁く王宮に通ったのは、それだけのためだったかもしれない。
最後に会ったのは、解放軍の密使としてだった。
解放軍への援助の見返りとして、戦への参戦を求められた。出陣する軍の概要を聞いたとき、危険だと思った。
ファーロスの私兵が出払ってしまえば、誰があの方を守るのだろう。王都に残る貴族たちの群れにとって、絶好の機会だというのに。思わず、そう口にすれば。あの方――エリスさまは静かな口調で言われた。
「私が死ぬとすれば、それは自分の責任でしかない。ファーロスの雌狐として生きた結果だ。後悔は、もちろんある。だが雌狐として生きなければ、さらにたくさんの後悔をしたであろうな」
そのとき、自分がどんな顔をしていたのか分からない。よほど情けない顔をしていたのかもしれない。続いたエリスさまの声には、気遣う響きがあったから。
「セアラ。私の身に何かがあったとしても、そなたには関係のない話だ。──私は欲深な女なのだろう。悲しみも怒りも憎しみも復讐も、全ては自分だけのものだと思っている。誰かに肩代わりして貰おうとは思わぬのだ」
「エリスさま…」
呟くことしかできない自分を、エリスさまは手招きした。優しい指先でもって。誘われるように側によれば、やわらかな貴婦人の指が頬にふれた。
「私を思ってくれるのなら、何もしてくれるな」
「嫌です!そんなの、無理です…!」
真摯な言いつけを受け入れることができなかった。子供のように首を振れば、抱きよせられていた。落ち着かせるように、何度も背中を撫でられる。ようやく自分が泣いていたのだと解った。ぐずる子供をあやすような、穏やかな声が降ってくる。懐かしい声だった。
「……ならば、私に花を贈っておくれ。花を貰うのは、いくつになっても嬉しいもの。たとえ墓の下であっても嬉しいに違いない」
目を瞬かせながら顔をあげた。濡れた視界に映った艶やかに微笑むエリスさまは、まさしく大輪の華のようだった。
「そんな顔をすることはない。何事もなくても、私は間違いなくそなたより先に逝くのだから───」
記憶の泡が弾けて、闇に溶けていく。
獅子帝が次元の狭間に消える。ディンガル軍との戦いが始まる。
かろうじてカルラを退ければ、ゼネテスが捕縛された。
恐れていたとおり、王都は貴族連合に制圧されたのだ。
そうして闇の奥から、声が聞こえてくる。
「毒婦エリスは、処刑された…!」
エリスさまを殺したのは、彼だと思った。
闇の中に差し込む光のように、真っ直ぐな瞳をした人。
エリエナイ公爵レムオン・リューガ。
彼であってくれれば良かった。そうすれば迷う必要もなかった。
それなのに。
闇から生まれたティアナが嗤う。
「お母様を殺せたのは誉めてさしあげてもいいけれど…!」
どうしてティアナが現れたのか。何を言葉にしているのか。
理解したくなかった。信じたくはなかった。
エリスさまの死を、言祝ぐティアナの姿を。
大切だと言った幼なじみを傷つけるティアナの姿を。
見たくなかった。それだけのために、身体は動いていた。
背中が熱くなる。身体の熱が、急速に失われていくのがわかる。
薄れていく視界の中に、驚いた端正な顔が映った。何故、と問われても答えられなかった。ただ、疑問だけがあった。
「ティアナ、何故──?」
言葉は音にならなかった。
全てが、闇に塗りつぶされていく。
何処までも何処までも、闇だった。
深い闇は、冷たかった。
寒さに身を震わせれば、ふわりと温かい何かに包まれていた。
確かな腕に抱かれていた。幼い頃から、何度も抱き上げてくれた父親のようだった。その腕の中ならば、安心することができた。
闇の冷たさは、もう感じなかった。

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※女主独白。旅先発なら、エリスさまは外せないだろ!…っつーことで。エリスさま大好きな管理人の捏造でした。夢を相当見ております。後世の歴史書に「悪女」として記されること間違いなしな貴婦人。でも歴史書にでてくる「悪女」って、すごく魅力的じゃないですか。旅先主につきもののフリント関係も、これから出てきますのでvそんでもってレムオンは何処。いや出てるんですよ。一応。最初と最後と名前で(…)。なんとなく雰囲気にそぐわなくてカットした部分にはもう少しいたんですが。その頃のレムオン。女主に母親と間違われる。大ショック(笑)次は猫屋敷でチャンバラ予定。レムオン×セアラへの道が何だか遠そうです…(涙)