効かないおどし  (08年6月記)

 中学生の息子は、私が見上げる背丈になった。朝、眠そうな顔で「おはよう」と言いながら、私の頭をポンとなでたりする。ほんの数年前まで、私が彼の頭をなでていたのに。 

  それに近頃、私の料理への不満をはっきりとのたまう。「お母さんの料理は愛情が足りない」(これは昔からよく言われた)、「料理に真剣に向かっていない」(これも思い当たる節がある)。

  でも私も彼に不満がある。「きちんと片付けなさい」「ゲームや漫画ばかりでなく、少しは勉強しなさい」。言っても聴かないので、「お小遣い抜きよ」などとつい脅し文句がでてしまう。

  すると、「へー、そうやっておどすんだ。福田首相みたいじゃん」ときた。私がいつも、政府が「お金がない」とおどして国民に負担をおしつけると批判しているのを逆手にとったようだ。そうだ、私たち国民もおどしに負けてはいけないと、心の中で思った。

 


 

「大好き」な「家族」 (05年8月記)

 7年前に、田舎で一人暮らしをしていた母が、急性白血病で入院したとの知らせを受け、急きょ帰省しました。看病がどのくらいの期間におよぶやも知れず、数日後、当時2歳半だった息子を、夫が連れてきてくれました。しかし母の白血病にとって、幼い子どもを病室に入れることは控えねばなりませんでした。

 郷里の小さな保育所が、好意で日中息子を預かってくれることになりました。はじめてその保育所に連れて行った日、息子は私からなかなか離れられませんでした。東京でも保育所生活をしているとはいえ、見知らぬ人たち、言葉も微妙に違う場で、当然なことでした。

 私の膝に座らせ、本を読んであげたり、「おばあちゃんが病気で、お母さんが来るのを待っているのよ」と話しかけました。しばらくして、私の膝を離れておもちゃで遊び始めた息子が、私の顔を見て、「お母さん、カズのこと好き?」とききました。私が、「大好きよ。お母さんは、カズ君が一番大事なのよ」と答えました。すると顔を下に向けたまま、「お母さん、もう行ってもいいよ。ちゃんと迎えに来てね」と言ってくれました。夕方迎えに行くと、玄関に立ち、ずっと門の方を見ている息子の姿がありました。

 その息子も、もう小学校4年生。私が朝早く出かけて顔を合わせないまま、息子は登校し放課後をまた一人で過ごすこともあります。そんな時、裏紙などに「お母さんより」と伝言を残しておくことがあります。ある時、ちょっとふざけて「和樹君を大好きなお母さんより」と書きました。帰宅した私を、うれしそうな顔で迎えてくれた息子は、「照れちゃうようなことを書かないでよ。十分気持ちは伝わっているんだから」と大人びた口調でした。

 息子はこの夏休みに初めて、友だちと二人で、長野のキャンプに出かけます。その参加者アンケートで、息子は「今、一番大事なもの」という項に、「家族」と書きました。確かに親の気持ちは十分伝わっているようです。

写真 家族が作った人形

 


 

日本共産党員として30年 (05年8月記)

 私は、日本共産党に入って30年目になります。

 入党のきっかけは、74年11月に兵庫県で起きた、「八鹿高校事件」です。当時、「解同」という組織が、被差別部落住民以外の人は差別者だと叫び、反共と暴力で、各地の自治体や教育の場に介入し利権をあさっていました。この動きに教職員組合を中心に毅然と抵抗していた、私の母校の八鹿高校を「解同」の暴力集団が襲いかかったのです。58人もの教職員が重軽傷を負う大事件でした。ところが、マスコミも、他の政党もまったく黙殺の状態で、地元住民もその真相を知らないという異常さでした。

 私は静岡大学に進学しており、そこで購読していた「赤旗」の報道で知りました。かつての担任教師が、電話の向こうで、 「そうだ。赤旗と共産党しか、とりあげてくれないんだ」とすがるように言ったことをくっきりと覚えています。学友たちからカンパを託され、現地の支援集会にも参加しました。そして私が教わった先生たちが、良心と団結をつらぬいたこと、後輩たちが、生徒自治会に結集し、「先生を返せ!」「暴力反対!」と泣きながらも訴えたその姿を知りました。八鹿町(現在は養父市)は、翌年には、町民が立ち上がって革新町政を実現します。「但馬の夜明け」と称されました。

 生まれ育った町の大激動でした。大学のクラスニュースに載せた手記に、「歴史の歯車が大きく回っている」と書きました。ふるさとの「夜明け」が、私の人生の進むべき方向を照らしてくれました。入党は私にとって、当然な選択でした。

 あのときの「赤旗と共産党しかない」という言葉を、今新たに強く感じています。

 障害者自立支援法案問題で、障害者やその家族の怒りと不安の声を「とにかく共産党の人に聞いてもらいたかった」と集まった家族の方たち。日本共産党の地域後援会ニュース発行者の連絡先を頼りに電話をしてきた方もいます。障害者の子どもを抱え、仕事もできず、親も年金生活で収入がなく、新聞も購読できず、情報がほしいと私の手をすがるように握った方もいました。

 結局は、国民のくらしの痛みを受けとめ、平和、民主主義の願いを受けとめそれを政治に生かす窓口は、「赤旗と共産党しかない」ということです。

 党員として歩んできた30年間に、悔いはありません。少しでも、寄せられる声に応えられるよう、願いを実らせるよう、一歩一歩進んで生きたいと思っています。

 

 


 

「明日が楽しい」 (03年7月記

 小学2年の息子が、宿題の国語プリントで、「主語と述語」の(  )内の書き込みをしていました。のぞきこんで、思わず笑ってしまいました。「ぼくは ( いっつもおこられる )。」「学校は ( ふつう )。」「( はなみず )が いやだ。」「( おれ )は 男の子だ。」・・・。そして最後の「(    )が たのしい」に書き込んだのは、「あした」。

 子どもは、自分を素直に語り、無限の未来を感じられていいなと思います。でも、政治の場では、「国民」を主語に、明るい展望が語られることがほとんどなくなりました。アメリカの無法な戦争に、どう協力するか。大銀行、大企業の国際競争力をどう守っていくか。国に忠実な子どもをどう育てるか。いつもいつもアメリカや大企業が中心で、国民はがまんと犠牲のおしつけの対象です。

 「国民が主人公です」とはっきり言っているのが、日本共産党です。こんどの選挙を、国民だれもが「明日が楽しい」と希望を持てる方向に切りかえる一歩にしたいと思います。  

 


 

 

平和の一歩よ、大河となれ (03年7月記)

 

 7月27日、原水禁世界大会に向け全国をリレーする「国民平和大行進」が、清瀬市と東久留米市を通過しました。朝、清瀬市役所を出発した行進を竹丘自然公園で迎え、東久留米市役所から南部地域センターまでを一緒に歩きました。

 原紀子東久留米市議と私のそれぞれの子どもも参加しました。私の息子は初体験で、旗をもたせてもらったり、「核兵器を世界から廃絶しよう!」と大声で唱和したりしていました。

 息子が生まれたのは、1995年の9月。戦後50年の節目で、2度と戦争と原爆の惨禍をくりかえさないという決意が問われていたときです。ところが出産直前に、フランスと中国が相次いで核実験を強行。私たち夫婦は、子どもの名前の一字に平和を刻みました。

 今年の夏も、「戦争」という文字があふれています。アメリカは、世界のどこでも「先制攻撃」をし、核兵器も使うぞとおどしをかけています。そのアメリカとの軍事同盟にしばられ、盲目的に従うばかりの自民党政治。国民の反対をおしきって、アメリカの戦争に日本国民をも動員する有事法制とイラクへの自衛隊派遣法を成立させました。

 家から飛び出して激励してくれる人や、何事かと立ち止まる人の姿を見ながら、47回目を迎えた平和行進の一歩一歩が大河となってあふれ、子どもたちの世代に継がれ、実るように願わずにいられませんでした。

 

 


 

靖国神社 (02年9月記)

 炎天下の代々木駅頭で、詰め襟姿の有名私立大学「雄弁部」の学生が、大声で演説していました。「靖国神社に、畏敬の念を持って参拝してまいりました。先人たちの尊い犠牲のうえに今の日本があることを、私たち若者は知るべきです」。

 私は、靖国神社の資料館「遊就館」の姿を思い浮かべました。ホールに展示されたゼロ戦闘機や人間魚雷。日露戦争、「満州事変・支那事変」、「大東亜戦争」などを、当時の映画ニュースや軍艦マーチを流しながら、戦前の天皇制政府と軍部の立場そのもので展示し解説。植民地支配をしていた朝鮮や台湾などは国名すらありません。

 私が注目したのは、見学者の感想ノート。日本の若者の「ここは嫌い!」「有事法制は許せない」などの声とともに、外国人の鋭い指摘が目に付きました。「日本人はなぜ、多くの国の人々が犠牲になったこと、その悲しみを理解しないのか。日本人はそれほど戦争が好きなのか。世界に対して、日本人がナチスとどう違うのかを、説明してください。」「日本が本当に現代的な国だというのなら、過去の歴史の欠陥を正すべき」「ここでの『神』が中国では『日本鬼子』と呼ばれた。鬼のような罪行を犯したから。私は和平を望む。一緒に戦争に反対しよう。」

 靖国神社や有事法制への動きがどれほど異常なものなのか。若者には、その真実をこそ伝えねばと思いました。

 

 

 


 

 父母が遺してくれたもの (02年6月記)                                                            

 私の父母は、数年前までに相次いで逝ってしまいました。3年前のお盆に、空き家となった実家で、両親が大事にしていたらしい文書入れの中から、「お父さん、お母さんへ」とだけ私の字で書かれた封書を見つけました。

 私は、大学の卒業式後に、すでに決まっていた教職をなげうって、民青同盟の専従の道へと進みました。両親は嘆き、怒りました。手紙は、兵庫の実家から静岡に向けて家出をしたときにおいてきた手紙でした。そこには、「よりよい社会のために、一歩でも役に立ちたい」という、私の思いが記されていました。自民党員でもあった両親は、いつしか「しんぶん赤旗」を読んでくれるようになり、父が亡くなる直前には、二人で「赤旗まつり」にも参加してくれました。

 私がはじめて総選挙の立候補の話を受けたのは、この手紙を見つけたすぐ後でした。両親が、私の初心を20数年間、大事に保管してくれていたと、その時思いました。