『9条が世界を変える』(かもがわ出版・松竹伸幸著) (06年3月)
「世界の紛争地域では、9条があるからこそ助かっている命があります。地球上のいろんな場所で、9条に希望を託して努力している人びとがいます。いまは可能性にとどまっているけれども、9条に秘められた力も存在します。そういう事実に接したことは、私にとって、たいへん大きな感動と興奮でした。戦後、9条は踏みつけにされてきたけれど、それでもどっこい生命力をもっているんだということ、9条のままであることがその生命力を発揮する源泉であることが、私の心に響いてきたのです。その同じ感動を、本書によって、できるだけ多くの方々と共有したいと願っています。」
「なぜ、憲法9条は、こういう高い到達をもつことになったのでしょうか。それは、平和を願う人びとの強烈な願い、たたかいを背景に誕生したからです。フランス人権宣言も、絶対王政と対決し、人権を確立する歴史的なたたかいによってつくられました。アメリカ憲法も、植民地のくびきから脱却し、独立を求める人類史的な意味をもつたたかいがつくりだしました。憲法9条にも、5000万人のいのちを奪った戦争で、戦争をにくみ、それと敢然とたたかった人びとの願い、たたかいが反映しています。人びとの革命的な意思と行動がつくりだしたといえるものです。
日本の憲法が60年も変わっていないのはおかしいという議論がありますが、アメリカとフランスの2つの宣言は、200年以上も変わらぬ理想であり続けました。変わらずに輝いていたことに、世界の人びとの目標としての価値があったのです。
だから、憲法9条は、たかだか60年しかたっていない、とさえいえます。2つの宣言が200年以上もたっていることと照らし合わせれば、まだ成長期の青年です。2つの宣言が世界の人びとの現実の目標になるには長い年月が必要でしたが、すでにみてきたように、憲法9条はすでに目標になっているのです。」
バラの大きな花束 鈴木泉子さんと鈴木京子さんのたたかい (06年2月)
東久留米市民自主企画講座「女性が働き続けるために−男女平等の実現のために」は、どうしても参加したい企画でした。新聞などでわずかに知っていたお二人のたたかいを、ご本人から直接聞きたかったからです。そしてお二人の話に、私は感動で涙、涙でした。
日産自動車(泉子さんが勤務)も石川島播磨重工(京子さんが田無工場に勤務)も有名な大企業です。そこで、どれほど無法な組合つぶし、活動家攻撃がおこなわれているのかが、淡々と話されました。「いちばんつらかったのは、職場八分、職場十分」。同僚がいっさい口を聞かない、職場行事から排除され、仕事も与えられないという苦しみです。
日産では、組合間差別とのたたかい、定年や家族手当の男女差別をなくす裁判などがリレーされます。30年近い裁判闘争が、男女差を容認する社会通念を一つ一つ打ち砕きます。石播でも、7000人の大リストラに抗して「たたかってこそ明日がある」をスローガンにうちだしました。人権侵害是正のたたかいは、働く仲間から「日本共産党員撲滅計画」の資料提供があり、勝利和解につながります。
人間として、そして生きるために、正しいと思うことのために歩んできた姿。それは家族や働く仲間に支えられたものでした。今、先輩たちが積み上げてきたことが、「規制緩和」の大号令で崩されようとしています。とりわけ若い世代の働く条件は深刻です。互いに手をつなぎ支えあうこのたたかいを、リレーで末広がりにしなくてはと思います。
黄色のバラの花束を贈られたお二人の笑顔が、とても素敵でした。
人間の証(あかし) − 柴田良平さんを訪ねて (02年9月)
夏盛り、元ハンセン病患者の柴田良平さんを訪ねました。前月に、日本共産党の「50年党員」としての歩みを聞く機会があり、ぜひ直接お話をうかがいたいと思ったからです。
「一番大事なことは、逆風に対して、自分がどういう生き方をするかということです」。ご夫妻で迎えてくださった柴田さんは、この言葉をくりかえし語られました。20歳の学生で発病し、ハンセン病の隔離療養所に。「奈落に突き落とされるようだった」という非人間的な処遇。病気と逆風にたちむかう支えとなったのが、党員として古典学習を徹底したことだったそうです。そして憲法25条をかかげて国を相手に命がけでたたかった朝日茂さんを支援したことが、回復者としての社会復帰を決意させました。
退所後、都内各所で働きながら、不自由な手で軽自動車を操り、地域の党支部長もつとめます。1975年から東村山市の障害者授産施設・東京コロニーに勤務。「長い間閉じ込められていたから、働き活動することが、社会性を身につけることだった」そうです。
でも自らハンセン病回復者だと公表できたのは、今から15年前、60歳になってからです。「自分の真実を語ることが、人間のつながり、信頼をつくります」。法廷での証言に立つことでも鍛えられました。今柴田さん夫妻は、「退所者の会」をつくり、その住宅保障や医療、介護の問題などにとりくんでいます。
「いつの時期も先を歩く人がいなくて、自分たちで切り開いてきた。頭をたれずに、歩み続けてきた。党員であったからこそ。それがせめてもの私の誇りです」。いい笑顔でした。
※柴田良平さんの著書は、『六十八歳の春−隔離からの解放』(社団法人ゼンコロ)。
記録映画「元始、女性は太陽であった−平塚らいてうの生涯」を観ました。女性解放へまい進したらいてうが、戦後は新憲法擁護、原水爆禁止、安保破棄などで積極的に運動していた姿に、大いに感動しました。
「永遠平和の礎ここに」「国民総意の憲法・公布の感激」。憲法創立時の新聞には、こんな見出しが躍っていました。らいてうも、「私の心をはじめて明るくしてくれたのは新憲法が生まれたときです。日本の女性を縛りつけていた家族制度が覆(くつがえ)り、私の若い日からの念願がようやくかなったのです。(略)それにもまさる大きな喜びは軍備の撤廃、戦争の放棄を全世界に宣言したことです」と大歓迎します。70年安保でも、84歳で病気をおして自宅周辺をデモしたらいてう。今の憲法改悪の動きをなんと思うでしょうか。
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