雪となった君〜後編
「………………?」
雀の鳴き声が目覚まし代わりになった。布団をはねのけ体を起こせば、いつもと同じ飾り気のない自分の部屋。
「――夢?」
約束だよと言う少女の笑顔も。抱きしめた感触も。
――全て、夢。過去の、幻。
桜は約束の日から、そう長いことたたずに逝ってしまった。その願い通り、桜吹雪のような雪が舞い散る冬の日に。それからもう、三年がたつ。
「確か昨日は雪を見て、買い物行くのおっくうになったから出前取ってさっさと寝たんだっけか」
テーブルの上には食べた後そのままの器。いつもならすぐに洗うのだが、昨日はなんだかそんな気も起きなかった。
「洗って玄関出しとかなきゃな」
そう言ったが、ベッドからは動けない。なんとも言えない虚無感、喪失感が体から離れず、何もやる気が起きないのだ。桜が死んだ後も、しばらくはそんな状態だったことを思い出す。
「桜のバカヤロー……」
そう毒づいてみても、当たり前だが怒る声は聞こえない。それがひどく心細い。窓の外は快晴のようだが、気分的には曇天だ。
「ああ。雪もとけちまったか」
そんなつぶやきが、するりと自分の口から出たことに驚いた。
雪なんて嫌いだと、昨日の夜思ったばかりなのに、とけた雪を名残惜しむ自分がいることを、その言葉ではっきりと思い知ったからだ。
「お前のせいだぞ、桜」
雪が降ったら自分だと思えなんて言うからだ。そしてもっとタチが悪いのは、それを自分が了承してしまった事実だ。ああそうだ。今も俺はあの約束を破れないでいる。
「夢だけじゃ足りない。お前に、会いたいよ」
それが本音。雪をどんなに憎んでも、何度それを自分に言い聞かせてもだめなんだ。雪はお前を思い出させる。会いたいという気持ちをふくれあがらせる。
だからせめて、憎んでるはずの雪を見ていたいと思ってしまう、そんな矛盾。
「せっかく来たのに、日帰りで帰るなよな」
この地方で雪が積もるなんて無理だとわかっていながら、そんな無茶なことを言ってしまう。降っただけでもすごいことだとはわかっているのだが。
「……もっと、見たい」
桜吹雪のような雪を、一面の銀世界を――桜の分身を。
桜が死んで以来降らなかった雪。久しぶりに見たそれが、封印していた俺の気持ちをあっさりとさらけ出させる。
とはいえ、雪なんてまたしばらく降らないだろうし、外にも欠片すら残っていない。意地なんてはらないで、昨日の夜にしっかり見ておけばよかったんだと、今さらながらに後悔した。
それでも、子供が無い物ねだりをするような『雪を見たい』という欲求は収まってはくれない。逆に時間がたつほど大きくなっていく気がする。
後悔と欲求の間でガンガンする俺の頭が、一人の人物をはじき出したのはその時だった。
「――そうだ、おじさんがいる!!」
その人物とは母方の叔父だった。母は元々北海道の出身で、弟である彼は、今も北海道に暮らしている。子供のいないその人は、俺のことを小さい頃から実の息子のように可愛がってくれていた。
北海道ならば、存分に雪がある。叔父の家の近くには草原があったはずだから、今の時期はまさしく一面の銀世界が見られることだろう。
ちょうどいいことに、一週間後に三日ほど休みがある。金も、飛行機代と必要経費ぐらいならば、貯金でまかなえるはずだ。
先程までの虚無感は、だいぶ薄れている。会いに行くと、決めた瞬間から。
珍しい雪が降ってから一週間後。俺は北海道の土を踏みしめていた。
到着した空港にはすでに叔父がいて、「よく来たな」と迎えてくれた。バスでも使って彼の家まで行こうとしていた俺は、空港に彼の姿があったことに驚いた。
あの日、叔父を思いだしてすぐ、俺は彼に訪問の了承をとる電話をした。彼は俺の頼みを、突然にもかかわらず快く許してくれた。あまりにも突然なので何か感じたらしいが、それでも何もきかないでくれたのがありがたい。
今は車で叔父の家に向かっている最中だ。五時半少しだというのに、辺りはもう真っ暗。過ぎてゆく景色中で、雪だけがぼんやりと光っているように見える。
「……雪ばっかりだな」
「当たり前だろ、北海道なんだから。それでも町中だからこんなもんなんだ。積もってるとこはもっとすごいぞ」
俺の独り言に、叔父は呆れたように返し、笑った。人好きのする、温かい笑顔だ。
「わざわざ迎えに来てくれてありがとう、おじさん」
「いいってことよ。今日は終業が早くて、ちょうど仕事帰りだったからな。それに、バスを待つだけって言っても寒いしな」
「うん、助かった。で、ちょっと聞きたいんだけど、おじさんの家の近くに、草原あったよな?」
俺の質問に少し眉を寄せ、信号待ちの間に煙草の箱を取り出す。一本抜いて、ふと気づいたように俺に視線を向けた。視線の意味を理解して、「ああ、どうぞ」と言えば「悪い」と一言つぶやいてからライターで火をつける。車内に充満する白い煙。
「草原……ああ、あるな。だけど今の時期雪でうまっちまってるぞ?」
「うん、それでいいんだ」
「?」
叔父の返答にに満足する内容を見つけ喜ぶ俺を、彼は不思議そうに一瞬見て、青信号に車のアクセルを踏んだ。
「これから行ったらヤバイかな?」
「あんなとこに何しに行くんだよ? 埋まるだけだぞ」
「だから、埋まりに行くんだよ」
叔父はしばらく考え込み、煙草の灰を灰皿代わりのコーヒーの缶に落とす。
「とりあえず『これから』はやめとけ。行くなら明日だな。もう暗いし、これからどんどん寒くなる。お前に万が一何かあったら、俺が姉貴に殺される」
半ば冗談めかしてるものの、『姉貴に』のくだりには彼が本気で恐れているのが見え隠れして、思わず噴き出してしまった。
「笑うなよ。あの人の怖さは子供のお前だってわかってるだろうが」
「まあね」
そんな世間話をしているうちに目的地に着く。それからは、晩飯をご馳走になって、風呂に入り、寝る時は使っていない部屋の一室を貸してもらった。
部屋で持ってきた荷物――とは言っても本当に最低限だが――を整理していると、風呂上がりの叔父が首にタオルをかけたまま現れた。
「司、俺はもう寝るからな。ああ、もし喉が渇いたら冷蔵庫の中を勝手にあさっていいから」
「うん。サンキューおじさん。おやすみ」
ひらひらと手を振ると、叔父は欠伸を噛み殺しながら部屋を出ていった。そのまま荷物の整理を続け、終わったところで部屋の電気を消した。
――窓の外には、見たいと焦がれた雪。ひらひらと舞う白の欠片。
そっと窓を開ける。冷たい風が頬に当たった。雪と共に入り込んでくる風は、俺のいる土地ではかぐことのできない、独特の冷たい匂いがする。そして、氷点下の中ピンと張った空気の、肌に刺さるような感覚が気持ちよい。
「……まだだ」
雪を見るだけが目的じゃない。俺は桜との約束を果たすためにここにいるのだ。全ては明日、白い草原で。
真っ白な真っ白な銀世界。明るい青空の下、すでに眩しいとさえ表現出来るその景色は、俺の想像以上だった。
その世界に自分が入り込むという事実に緊張し、体すら凍りそうな氷点下の世界で手だけが汗ばむ。吐き出した息が白く舞い、やがて霧散する。呼吸たびに鼻の奥が冷たさでひりひりして、北海道の寒さを実感した。
しばらく草原の前でじっとしていたが、心を決め足を踏み込んだ。一歩足を進めるごとに、足下ではぎしっ、ぎしっという雪のなき声がする。場所によって雪が沈む量が違い、何度も足を取られたが、どうにかこうにか前へ進む。
十数分かけて、やっと入口から大分離れたところまで来られた。後ろを振り返れば、白いキャンバスに俺の足跡が点々と見えた。
ちょっとした運動をしたような疲労が俺の身を包んでいる。それでも、思っていたほど進んではいないようだ。
「……まあ、ここでいいか」
あたりを見回し、その場にゆっくりと倒れ込む。歩いていた時と同じように、ぎしっと雪がないた。
内地よりも、ずっと青い空が見えた。なのに雪は降っている。これは天気雪とでも言うのだろうか。あちらでは雪が降る時はいつも天候が悪いので、青空に雪というのがひどく不思議に思えた。
「でも、きれいだ……」
そう、不思議以上に『きれい』という気持ちが強い。青と白のコントラストが美しい。それに、こうやって雪の中に倒れ込んでいるのも、意外に寒くなかった。
頬など地肌に当たる雪は冷たいが、こうやって埋もれるように雪に包まれていると、ただ立っているよりもかえって暖かい気がする。かまくらが雪で出来てるのに中は暖かいという理由も、なんとなく肌でわかった。
そのままぼうっと空を見つめ続ける。静かな銀世界にある黒い姿の俺を、少しずつ積もりゆく雪が覆っていった。なにもしないでいるせいか、遠くから睡魔の波が押し寄せてくる。うつらうつらと意識が消えかける。冬眠でもしようというのか。
そうふざけたことを考えながらも、睡魔は待ってはくれなかった。
――ああ、このまま寝てしまったらきっと冬眠を通り越して凍死してしまう。
そうわかっているのに、体は動かない。もう、このままでいいとつぶやく自分がどこかにいる。
このままでいい。このまま眠りたい。このままこの暖かさに、桜に抱かれて。
「雪に寝転がったまま、寝ちゃダメだよ? 凍死しちゃうから」
そんな桜のセリフを思い出す。あの時俺はなんて言ったんだっけ。そしてお前はそれになんて返したんだっけ。
どうでもいい。もう、どうでもいい。こうやって抱かれて、安らかに眠りたい。俺はそれで幸せなんだ。少し遅いけど、お前の後を追いかけたいんだ。
頑張っただろう? 俺は三年も頑張ったんだ。だから、だから桜。いいかげん俺もお前の側に行かせてくれ。
これでいいんだ、きっと俺はこのために来たんだ。これが、望みなんだ。
「――お前に抱かれて死ぬなら本望だ」
そう、これだ。あの時言ったのは。三年前と同じセリフがついて出た。次の瞬間――。
「――っ!?」
ずずっ、という音と共に、雪が突然へこんだ。
体が九の字になって、俺はまるでトイレで便器に落ちたかのようなマヌケなポーズをとるはめになる。もちろん、眠気などどこかへぶっ飛んだ。
「いきなり……なんで」
慌てて身を起こし目を白黒させる俺の脳裏に、あの日の情景が思い浮かんだ。
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「司のばかっ!!」
ぼすりという音と共に、俺の世界が暗くなった。
なんてことはない、桜がベッドに置いてあった自分の枕を俺の顔に投げつけた。そしてそれが見事クリティカルヒットした――そう、それだけである。
「な、なにをっ?!」
「ばかばかばか!司のばか!」
「ちょっ、桜!」
桜は止めようとする俺の手を振りきり、逆に俺の顔をつかむと側に引き寄せた。数センチ先に、桜の泣きそうな顔があった。
「何が「本望だ」よ! かっこつけちゃってさ!!」
「実際そうなんだからしかたねえだろ」
「しかたなくなんてないわよ。司は、そんなこと言って私が本当に喜ぶとでも思ってるの!?」
「だったらお門違いよ!」と叫ぶ彼女に、俺は思わず黙ってしまう。
確かにこれは失言だった。誰よりも命を重く見ているこいつに対する侮辱と言ってもいいだろう。
「……すまん」
恥ずかしさにうつむいた俺に、桜がささやく。
「ねえ司。生きて、私の分まで生きて。嫌なこと言ってるかもしれない。ずるい言い方かもしれない。それでも、私の願いは司が生きてることなの。だから生きてよ。私のお願い聞いてくれるなら、生きて」
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「桜……」
あの日のもう一つの約束を、俺はようやく思いだした。
約束は一つではなかった。むしろ、あの日した約束は『俺が生きる』というものこそが本来のものと言っていい。
「すまない。すまない……」
あの日の約束を、生きるという誓いを、俺は今破るところだったのだ。
「桜……いるのか?」
桜は、本当に雪となって帰ってきたのかもしれない。そして今、見えないだけで俺の側にいるのかもしれない。そのぐらい、あの雪はタイミングが良かった。
「忘れてたよ、お前のお願い。もしかしなくても、怒ってるのか? まあ、だからあんなことしたんだろうけど」
風が吹く。寒さの中で、その風だけは暖かい。風が雪を舞い上がらせ、空からも白い花びらが降る。桜の好きな、桜吹雪のような風景。
知らず知らず涙が溢れた。
「思い出した。お前との約束、思い出したんだ。わかってる、生きるよ。言ったもんな、俺はお前との約束は破らないって」
頬につたう涙をぬぐい、俺は言う。
「もう一度、この場所で誓うよ。俺は二度と、お前との約束を破らない。天命が来るその日まで、俺は生きる」
今一度ここで誓おう。
あの日の約束を二度と忘れないように。
お前の唯一の願いを叶えるために。
「また来るよ。だから……」
雪となった君よ、また会おう。この、白銀の世界で――。
――終――
あとがき
ここまで読んで下さった方、大変ありがとうござます。
この話は、元々は500字ぐらいの超短編でした。一種のリメイクとも言えます。
しかし、原稿紛失のため、彼方に走り去った記憶を追いかけてのリメイク。
どこまで正確に覚えているのか。むしろほとんど覚えて無いという。
…………もはやリメイクではない。
書きたかったことは書けました。表現出来たかどうかは微妙ですが。
とりあえず、この作品が楽しまれたことを祈って。
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