雪となった君〜前編


 視界の悪さに、俺はふと覚醒した。
 本から目を離し、顔を上げ部屋を見回す。しかしそれまで文字をたどっていた目は、そう簡単に持ち主である俺の欲求に答えてくれない。部屋の様子は少し雲がかって見えた。
 それでもなんとか目が慣れた頃には、自分がずいぶんと長い時間を読書に費やしていたことに気づいた。読み始め、頭上に輝いていたはずの太陽は、ほのかな橙色の光を残し、沈みきるところだった。
 今は一月も半ば。夏などと比べればこの季節、日の長さはやはり断然に短く、五時ともなれば部屋もとうに薄暗い。
 その暗さに部屋に灯りをつける前に、カーテンを閉めようと窓に近づけば、目の前を何か白いものが通り過ぎた気がした。
「……? ――あ」
 目をこらして窓の外を見れば、ちょうど雪が降り出したところのようだった。アスファルトに、水玉模様が少しずつ増えていく。
「どうりで寒いわけだ……」
 一人納得してうなずいた。手を握れば、指先が少し冷たくなっている。
 ここは寒さの厳しい地方ではない。現に雪が降るのは三年ぶりだった。雪が降るだけでも珍しいことだから、ましてや積もることはないだろう。ただ、幻想のような光景が続くだけ。
 ちらちらちらちら。降ってはとけて、降ってはとけて。花びらのように舞う儚いそれは、まるで――。

“――ねえ司(つかさ)、桜吹雪みたいだねえ”

「――っ!!」
 聞こえないはずの声が、聞こえた気がした。
 俺の名を呼び、微笑む姿をかいま見た気がした。
「さ、くら……?」
 ……ありえない。そんなことは、決してありえない。とうに理解したはずなのに。思わずこぼれる、あいつの名。
 あたりを見回し、気のせいであることを確認してため息をつく。
「だから、雪は嫌いなんだ……」
 チッと、舌打ちをうつ。
 雪は、あいつを思い出させる。雪は、あいつとの思い出を引きずり出す。
 『桜(さくら)』の名を持った幼なじみは、桜のように鮮やかに咲き、そして散った。
 花のように明るく、雪のように儚い笑みを浮かべていた少女はもういないのだ。


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「雪がちらちら降ってるのって、桜吹雪みたいだね!」
「はあ?」
 病室の白いベッドの上、わけのわからないことを言ってニコニコ笑う幼なじみを、俺は呆れて見返した。どのくらい呆れたかといえば、思わず花瓶の花を取り替える作業を止めて、彼女の方にふりかえってしまったほどだ。
 俺の呆れもなんのその、桜はベッドの上で上半身を起こし、人差し指で空中に線を描いて見せた。
「だから、雪がちらちらちら〜って降るのって、桜吹雪に似てない?」
「……とうとう脳みそまで沸いたか?」
 片手に花を持ったまま近づいて、半眼で桜の熱を計るフリをすれば、彼女は頬をフグのようにふくらませた。
 あまりに愉快なその絵面に、俺は思わずふきだす。
「ぷっ……みったくねえ顔」
 その一言に、頬をふくらませるのはやめたが、今度は顔全体を真っ赤に染め上げる。
 林檎のようだと、なんとなしに思った。
「う、うるさいなあ! それより、司にはそう見えないの?」
「見えないな」
「即答!?」
「おうよ」
 生意気にもムッとした表情を作り、桜は俺の方をにらんでいる。
「俺は、お前ほどドリーマーじゃないんでね」
 鼻先で笑い飛ばし、中断していた作業を再開しながら言えば、背中に刺さる痛いほどの視線。
「あーあ。本当に夢がないよねえ、司は!」
「現実的と言いなさい」
 作業の終わった花瓶を、ベッドの隣の棚に置く。そのまま近くにあった椅子をたぐり寄せて、腰を下ろした。
「……なんか、して欲しいことは?」
「ないよ。側にいてくれれば、それでいい」
 そう言って小さく笑う桜。俺より一つ下の十七という年齢に似合わぬ、どこか悟りきった笑顔。桜がこんな笑顔をするようになったのはいつからで、俺はもう何回見ただろうか?
「……多少のワガママぐらい、きいてやるのに」
「ふふ。甘いね、司は。一緒にいれるだけで幸せ……だからいいの」
 『いいの』という言葉が色んなふうに取れて、なんだかいたたまれない。
 けど俺は、そう思うのを桜が一番嫌っているって知ってるから、昔からと同じ変わらない態度でいる。そう決めた。
 部屋に沈黙が広がる。重い沈黙ではない、自然な静けさ。口を閉じた桜は、窓の外を見ているようだった。
 しばらく外を見つめていた桜が、ぽつりとつぶやいた。
「――雪の日が、いいな」
「……?」
 黙って見つめる俺に、桜は夢見るように微笑む。それは、まるで幼子のように無邪気だった。
「雪の日。桜吹雪みたいに、雪が舞い散る日」
「なんだかよくわからないが……お前は『桜』が好きなんだろう? だったら、本物の桜吹雪じゃダメなのか?」
 自分と同じ……いや、自分が名前をもらった樹を、桜は幼い頃から好いていた。こいつが春が来るのを心待ちにするのは、桜を見たいがためと言ってよかった。
 だから、俺がそう思うのは当然だろう。なにを『いい』と言ってるのかはわからない。しかし、わざわざ『桜吹雪みたいな雪』と、本来の望みと似てるようで、でも違うものを答える理由は、さらにわからない。
「だめだよ、本物じゃ」
「なんでだよ?」
 心底不思議で首をかしげる俺を、桜は楽しそうに見つめている。そしてクスリと小さく笑って言った。
「だって……嫌いに、なっちゃうでしょう?」
「え……?」
 その一言に、えも知れぬ不安感が背を通り抜けた。全身に冷水をあびせかけられたような、ひやりとした感覚。
 ――確固とした理由はないのに、絶対の確信だけがあった。これから桜が言う言葉は、俺の聞きたくないことだと。
 そして、その予感は的中する。
「私が死ぬ時に桜が舞ってたら、きっとみんな……司だって、桜を嫌いになっちゃうでしょう?」
 今度は、病室の温度が一気に下がった感覚を受けた。その中で、だから妥協して雪の日なのだ、と桜がおっとりと言うのを、俺は呆然として聞いていた。
「お前、なに言って……」
 乾いた笑いが口からもれた。少し間違えれば泣きそうになる自分を叱咤しながら、必死に冷静さを装う。
 なのに桜は、なんてことないように続けた。
「わかってるもの。……私はもう、長くないよ」
「そんなこと……っ!」
 ないと続けようとしたが、すぐに桜によってうち消された。
「あるよ」
「桜っ!」
 俺の荒げた声も気にすることなく、首を横に振った。
「自分が一番、よくわかってる」
 桜は、生まれた時から体が弱く、生まれてすぐ医者に短命を宣告された。もって二十歳、へたをすれば十歳まで持たないのではないかとまで言われていたらしい。
 何度となく発作と入退院をくり返しながら、それでも十七まで生き続けて今日に至る。しかし最近、発作の間隔が短くなり、また症状が重くなっているようなので再入院を余儀なくされたのだ。
 認めたくはないが、桜の頬は、少しこけた。肌も、前よりずっと白くなった。実際彼女にはもう、時間が残されていない。……二十歳まで、後三年あるというのに。
「大体ね、感覚でわかるんだよ? 自分の体だもの」
 普段とまるで変わりなく、世間話のように言う桜。あろうことか、その顔には笑みさえ浮かんでいる。
「なんで……」
「笑ってられるか?」
 黙ってうなずく俺に、桜は少し考え込む素振りをする。
「そうだなあ……幸せだから、かな?」
「幸せ?」
 死期が迫っていると、自分でも認めているというのに。それでもこいつは幸せだというのか。
 俺の考えを見通したように、桜は慌てて付け足した。
「もちろん、納得はしてないし、この人生に後悔もたくさんある。死ぬのは、正直言って怖い。それでもね……幸せだと思えることは、たくさんあったよ?」
 信じられないことをいう桜の手を見れば、小刻みに震えていた。
 ああそうか、と俺は思う。顔は微笑んだまま、手だけが本心を語っている。本当の、桜の姿を。
「……お前は馬鹿だ」
「人が感動的なこと言ってるのに、馬鹿ってのはないんじゃないの?」
 必死に怒った顔をしているが、手の震えは続いていた。本人はそれに気づいていないらしい。無意識、ということなのだろうか。
 ならば、なおのこと。
「――だから、馬鹿なんだよっ!」
 言って、震える両手を無理矢理握りしめた。俺の行動に、桜は驚いて目を見開く。
「司……?」
「怖いって思うなら、泣けよ。無理に笑顔なんて作らなくていいから」
 桜の視線が、空中をさまよう。それが桜が動揺した時のくせなのだと、俺は長い付き合いで知っている。
「えっと、無理してないよ?」
「嘘つくな、震えてるくせに。……おばさんも、おじさんも今はここにいない。我慢しなくていいんだ」
 『おばさんとおじさん』というのは、桜の両親のことだ。体のことで何かあっても、なるべく両親の前で泣かないようにするのも、こいつのくせだった。心配を増やしたくないと言うのが桜の弁。
「ここには、俺しかいないんだから」
 最終奥義。これがキーワード。変なところで強情なこいつが泣くのは、昔からこの言葉を言った時だけだった。
 とたん、桜の表情が変わる。思い当たるふしがないとでも言うような曖昧な表情が、くしゃりと崩れた。
「う……ふぇっ……うう……っ」
 それでもまだ泣くまいと抵抗しようとしているのか、歯を食いしばる桜に俺はもう一押しする。
「――泣け」
 その次の瞬間から、桜はボロボロだらだらと涙を流した。ポロポロなんて可愛いもんじゃない。まさしく滝のように、だ。
「司っ……司ぁ……!」
 すがりつく桜の背中を、俺は何度かなでた。泣き声がもれる度に、俺のシャツがきつく握られる。そのままの体勢で、桜の嗚咽は、三十分ほど続いた。


「あー、すっきりした!」
「……手間のかかる女だよお前は」
 俺のセリフに、照れたのか桜が顔を真っ赤にする。口を開いて何か文句を言おうとして……それでも違う言葉を言った。
「……アリガト」
「どういたしまして」
 涙ではれた目を、俺が渡した濡れタオルで冷やしながら、桜がつぶやいたのはその時だった。
「……でもさ、こんなにイイコにしてるんだから、神様お願い叶えてくれないかなあ?」
「ガキかお前は。……お願いって?」
「さっきの。雪の日がいいなって」
「縁起悪いこと言うなボケ」
 不機嫌さを顔に出しながら言うと、桜は先程前泣いていたとは思えない元気さでブーイングをしてくる。
 しばらくのブーイングの後、やっと静かになった桜を見れば、拗ねたのかそっぽを向いていた。
「お前が馬鹿なことを言うからだろう? 『死ぬ時』だなんて……不吉すぎる」
 大きくため息をつきながら言い聞かせる俺に、桜はまだ拗ねている気らしく、こちらを向こうともしない。それでもぼそぼそとした声で、反論だけはしてきた。
「……だって、雪なら桜より長く側にいられると思ったんだもの」
「側に?」
 聞き返したことで俺が興味を持ったとでも思ったのか、桜は急にこっちを向いて説明をしだした。
「雪の日に逝けたなら、雪になって帰ってこられる気がするの。雪は積もるでしょう? 冬の間、ずっと。桜よりずっと長く残る。だから、司の側に、いられるでしょう?」
 とんでもない言葉。子供のような戯れ言。それでも、なぜか説得力がある。桜が本気で言っているのがわかるからだろうか。
「積もったら、雪の中に倒れ込んでよ。そしたら……例えこの体は死んでても、司を抱きしめられるもの」
「それも……いいな」
 あまりに無邪気に、真剣に言うものだから、つい賛同をしてしまった。
「でしょ?」
 しかし、一つ問題がある。
「でもよ」
「え?」
「雪、降らねえじゃん。ましてや積もるなんて……北海道じゃあるまいし」
 桜の表情が固まった。そこまで考えてなかったらしい。あごに手を当て真剣に考え込んでいる。
 あー、もうしょうがねえな。
「わかったよ。お前がいなくなった後、雪が降ったらお前が帰ってきたって思うから」
 『死』という言葉を使わないのは、ちょっとした反抗だ。それでも桜は、それは嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。
「約束! あ……でも」
「今度はなんだ」
「雪に寝転がったまま、寝ちゃダメだよ? 凍死しちゃうから」
 その一言には悪魔がいて。甘い誘惑に俺の片足を引き込んだ。
「……お前に抱かれて死ぬなら本望だ」


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