涙雨(なみだあめ)〜後編




 辺りで一番大きな樹の下に隠れ、二人はため息をついた。正太郎は、少し型くずれした着流しを直していた。
「『なみだあめ』だね、正太郎さん」
 突然降り出したそれを称してそう言うと、正太郎は「おや」と、感心したような声を上げた。
「よく知ってますね、洵君」
「昔、おばあちゃんにきいたんだ」
「本当に洵君は、おばあちゃんが好きなんですね」
「うん。あたりまえだよ」
「その気持ちを、忘れないでくださいね?」
「え……? うん、わかったよ」
 言いながら、数年前を思い出した。
 いつも祭りの時期になると、決まって雨が降り出した。なぜ、せっかくの祭りの度に雨なんかが降るのかと、そうふてくされていた洵に、祖母は綺麗で、でも寂しそうな微笑みを浮かべて言っていた。「これは、『涙雨』なのよ」――と。
 その言葉の意味がわからなくて、何度聞こうと思っただろう。でも、あの時の祖母の表情が忘れられなくて、なぜか聞いてはいけない気がして、いまだに聞けずにいる。
『…………………………………………………………』
 お互いに黙って、雨を見ていた。もしかしたら、雨音を聞いていただけかもしれない。
 こんな事はよくあった。自然界の音、その声を聞くゆとりを持つことの大切さを教えてくれたのも、正太郎だったから。
 今、しとしとと降る雨の音が切なく寂しく聞こえるのは、『なみだあめ』という特別なものだと考えているせいか。それに、自分が騙されているのか。それとも『正太郎』という存在が、自分の感覚を鋭くさせているのだろうか?
「……そうだ」
 横で雨の粒を見つめていたらしい正太郎が、「なにか?」と洵を見た。
 ――この青年なら、答えてくれるに違いない。
「ねえ、正太郎さん。『なみだあめ』ってけっきょくなんなの?」
「涙雨の意味ですか……? そうですねえ」
 期待に満ちた眼差しで見つめる洵に、正太郎はどこか居心地が悪そうにいった。いつもと違い、歯切れが悪い。
「……まあ、一般的には、雨が涙で出来ているという意味ですね。でも、君のおばあちゃんが言ったのは多分、もっとつっこんだ意味で『死者の涙』って、意味でしょうね」
「『ししゃ』……死んだ人?」
 不思議そうに首をかしげた洵に、正太郎はあたりを見回し近くにある枝を拾い上げると、それで地面に字を書き始めた。
「ええ。この神社は、『護国』と言いましてね。この国のためと、平和の礎になった人を祭ってるんです。これから始まるお祭りは、その人たちを鎮める……慰めるためのものと言われているんですよ」
 地面に書かれた『護国』という二文字が、洵の胸に刺さった。
 初めて聞いた話に、洵は目を見開いた。洵はただ祭りが嬉しくて。この騒ぎにそんな意味があったなんて、考えもしなかったのだ。
「じゃあ、じゃあ、なんで泣くの? お祭りじゃ、だめなの?」
 今にも泣き出しそうになる洵に、正太郎の顔が、困ったように歪んだ。
「君のおばあちゃんは、護国の霊たちが、己の犠牲を嘆いていると言いたいんでしょう」
 感慨深げに目を閉じた正太郎の答えに、洵はもっともだと納得する。それは、洵にも当然のことに思えたから。だから祖母は、あんなに悲しそうな顔をしたのだと。
 納得して、正太郎に礼を言おうとした時、閉じられていた彼の目が静かに、だが強いなにかを宿して開かれた。
「――だけどね、僕は違うと思うんです。『涙雨』は、けして悲しみではない……!」
 未だかつてないような正太郎の断固とした口調に、思わずあふれそうだった洵の涙も止まった。正太郎の断固とした口調が、不思議な音となり、洵の心に染みこんできたからだ。
 正太郎がこんな風にはっきりと意見するのは珍しい。いつも自分の考えは、謙虚に言うのが彼の常なのに……。
 洵は、正太郎の言葉を確かめるように尋ねた。
「かなしんで、ないの……?」
「ええ。僕は、そう思いますよ」
 きょとんとした洵の頭の上を、撫でるか撫でないかのぎりぎりな位置で、正太郎の手が過ぎていった。
 感触はないのに、温かみだけがあった。
「悲しみなどでは、ないんですよ……」
 言い聞かせる正太郎に、洵は自然と頷いた。それに正太郎は、安心したように微笑む。
「――洵くーん! 洵くーん!!」
「おや、お迎えですね」
 正太郎の声が、ほっとしたように聞こえた。
 遠くから聞こえてきたそれは祖母の声だった。確実に、ここに近づいている。
「洵くーん! 洵くーん?!」
 繰り返される呼びかけに、正太郎が洵に言った。
「ほら、心配なさってますよ。返事をしておあげなさい」
 大きく頷いて、すうっと息を吸い込んだ。
「おばあちゃん、ここだよーっ!」
 ぴたりと呼びかけが止まり、今度はガサガサという音を立て、洵の傘をたなった祖母が現れた。
「あらまあ、こんなところに。やっと見つけたわ。洵君、傘持って行かなきゃだめじゃない。この時期は『涙雨』が降るんですから……ってあら、そちらは?」
 正太郎に気づき「孫がお世話に……」と呟きかけた彼女を、正太郎自身の声ががさえぎった。
「――おひさしぶりです」
 予想外の言葉に、祖母が首をかしげ孫に問いかけた。
「あら、どこかでお会いしたかしら……? ごめんなさいね、目が悪いもので、暗い場所はよく見えないんですよ。洵君、うちにいらっしゃったことある?」
「ううん。ないよ……正太郎さん、おばあちゃんと知り合い?」
 『正太郎』と。洵が何気なく言ったその名を聞いた途端、祖母の顔に動揺が走った。
「その名前は……。まさか、そんな……」
 正太郎は、黙って微笑んでいた。何も言わずに、全てを見透かしたような瞳で祖母を見つめていた。
 祖母と年上の友人をかわるがわる見つめていた洵は、祖母から再び正太郎を見て、驚きのあまり声がどもった。
「しょ、正太郎さん!?なにそのかっこ!」
 先程まで着流しだったはずの正太郎が、まるっきり違う姿に替わっていた。きっちりとした詰め襟の衣装と、深くかぶられた帽子。
 なにが起こったのかわからず、おろおろし始めた洵の横で、祖母はじっと正太郎を凝視していた。
「ああ……」
「おばあちゃん!?」
 強いはずの祖母の頬に、一筋の光が流れる。それは、初めて見た祖母の涙だった。
「あなた……!? あなた、正太郎さん……? 正太郎さんなの?」
 ゆっくりと、正太郎が頷いた。帽子を外し、見たことがないほど穏やかな……むしろ安らいだと言った方がしっくり来る笑みを浮かべる。
「ええ、僕ですよ。他に誰がいるんです? 小百合(さゆり)さん……あなたは全く変わっちゃいない」
 切なさと嬉しさがごちゃ混ぜになった……そんな複雑な表情で、小百合と正太郎はお互いを見つめあった。
「なにを馬鹿なことを……。あれからどれだけの時が過ぎたと思ってらっしゃるの? わたしはもう、しわくちゃのお婆さんよ。あなたは……そう、全く変わっていないのね」
 泣き笑い。ハンカチで目元を抑え、小百合はどうにか笑顔を作ろうとしていた。それでも止まらない涙に、歯がゆそうにハンカチを握りしめる。
「……何も、言わないんですね。僕を、責めないんですね」
「言いたいことはたくさんあります。けれど、責めたって、しょうがないでしょう? あの時、愚痴は言い尽くしましたの」
 正太郎も、顔をくしゃりとゆがめた。そのままの表情で、「……洵君」と呼んだ。
「正太郎……さん?」
 一体何が起こっているのか。
 先程まで自分が見ていた着流しの青年と、今の青年が本当に同一人物なのか。
 それらが全くわからなくて、うかがうように彼を見る。
 そんな少年を愛おしげに見つめて、正太郎は言い聞かせた。
「本当に君は、小百合さんにそっくりだ。初めて見た時から、思って……いや、わかってましたよ。いいですね、おばあちゃんを守るんですよ?」
「守るよ、守るけど……。正太郎さんは!?」
 『遺言』と、近頃覚えたばかりの単語が、洵の脳裏にひらめいた。
 なにが初めて見た時からわかっていたというのか。そんな問いを挟む余地はなかった。ただ漠然とした不安だけが……胸に広がった。
 正太郎はなにも答えず、手に持ったままだった帽子を、きゅっとかぶり直した。名残惜しそうな視線は、真っ直ぐに小百合と洵を見ている。
「――小百合さん。あなたは洵君に言ったそうですね、この雨は『涙雨』だと」
「え……ええ」
 正太郎は腕を伸ばし、まるで雨をすくうかの様な姿を取った。
 そこで洵は気づく。彼の服のどこにも、雨のシミが広がっていない。傘を持ってる祖母はいい。だけど、ついさっきとはいえ傘を持った自分よりも、なぜ正太郎のほうが濡れてないのか。そして……。
 ――なぜこの数年間、いくら大人とはいえ全く外見に変化が見られないのかと。
 永遠に歳を取らぬ青年が語る。
「確かに、この雨は『涙雨』です。でも……間違えないでください。我等は嘆きの涙を流しているのではない、歓喜の涙を流しているということを。この国が平和な限り、僕たちは泣き続きましょう。家族が、子孫たちが幸せであることを喜んで……ね。だから、忘れないでください、戦いの愚かしさを。守ってください、この平和を」
 なにも言えなかった。一体なにが起きてるというのか。洵の脳は、混乱を極めていた。ただ正太郎の願いに、頷くことしか出来ない。
「洵君、この数年間、とても楽しかったですよ。本当に、感謝しています。あなたにも、そして……この運命にも」
 それはまるで……いや、別れの言葉そのもので。何か言わなければと思うのに、洵の口は金縛りにあったように動かなかった。
 ――唐突に、雨が強くなった。
 すぐ目の前にあったはずの正太郎の姿が、どこか遠く、薄くなったように見える。
「本当に、神は粋な采配をしてくださった。僕は、もう……」
 激しい雨に、正太郎の呟きがかき消された。浮かぶ小さな笑みだけが、今の彼の存在を示している。
 その笑みさえ、やがて小さな滝の前に消え去ってゆき、正太郎という存在が確認出来なくなってくる。
 どこまでも遠くなる彼に、洵は恐怖に近いものを感じた。
「正太郎さん、正太郎さん!!」
 呼びかけに応えるように、雨はもとの小ぶりになってきた。それに従い、正太郎がその場にいることがはっきりして、洵は少し安心する。
「挨拶ぐらいは……させてもらえるようですね」
 クスリという、再び聞こえるようになった青年の声を、洵は一言も逃さないよう耳をすませる。そうしなければ、後悔する気がしたのだ。
 薄いカーテンの向こうでは、正太郎が、何かを悟ったような、ほっとしたような……安らかな表情を浮かべていた。
「これで、本当にお別れです」
「お別れ!? そんなのいやだよ、正太郎さん!!」
 金縛りを無理矢理解いて、青年に飛びつこうとした洵を、祖母がそっと抑えた。
「おばあちゃん!?」
 非難めいた響きをのせた言葉に、祖母はゆっくりと首を横に振った。
「正太郎さん、どうか、お達者で」
「それは、貴方と洵君にこそ必要な言葉。僕の……願いです」
 正太郎の右腕がゆっくりとあがっていく。
「洵君、小百合さん……」
 そのまま、彼の手が敬礼の形を取った。
「ほら、見てください、二人とも。虹ですよ!」
 最後の最後に、幸せそうな満面の笑み。その視線が示す先を追って、思わず二人は後ろを向き、空を仰いだ。
 瞬間、雨はぴたりと止み、雲が切れ、太陽が除き、見事な大きい虹を照らし出した。
「大きい、虹……」
 呆然と呟いて、はたと気づいて視線を戻した……が、そこにはもう、誰の姿もなかった。残されたのは洵と、小百合のみ。
「しょ、正太郎さん……? 〜〜〜正太郎さん!!」
 洵の呼びかけも、ただ空しく響き答えは返らない。
 小百合の傘が、雨で濡れた草の上に落ちた。水滴が、光る。
「ずっと、ここにいらっしゃったんですね。ありがとう、正太郎さん……」
 洵を、祖母の手が引き寄せる。そのまま彼女は孫の手を優しく包み、両手をあわさせた。
「正太郎さん……。静かに、おやすみなさいませ」


 これで昔話は終わり。
 え? 一体なんなんだかわかんないって? そうかもしれないね。僕もまだわかんないことが一杯あるし。
 でもね、この年になって色々わかってきたこともあるよ。
 まず、祖母が戦争未亡人だったらしいこと。
 次に、正太郎さんが最後に着てたあの服が、旧帝国陸軍の軍服らしいこと。
 次に、祖母の発した『あなた』が、明らかに妻が夫を呼ぶ時のイントネーションであったこと。
 次に、正太郎さんのとよく似た着流しが、祖母の家のタンスに眠っていたこと。
 そして最後に……戦争で死んだ祖父の名前が『正太郎』であったらしいこと。 
 まあね。二度と会えない着流しの『正太郎さん』と祖母の言う『正太郎さん』が本当に同一人物だったのか、今では知る術もない。祖母も数年前に死んでしまったし、彼女は最期まで、あの時の真実を教えてはくれなかったからね。あくまで記憶の断片をつないだ推測の域を超えない。
 しかも、もしそれが本当だったとしても、『心霊現象』なんていう陳腐な言葉で片づけたくないしね。
 いや、そういうことを馬鹿にしている訳じゃないよ。だけど、なんだろうね……彼は僕の一番の師であり、兄であった。それがただ一つの事実なんだ。例え彼の存在が本当の、この世のものでなかったとしても、それはそれで良いと思う。
 僕のこんな体験、君は信じることができないかい? でも、本当にあったことさ。最終的に、これを信じる信じないは自分の勝手ってことになる。そして僕はあの出来事を信じてる……いや、忘れられないが正しいかな。
 とにかく、今でも僕は、正太郎さんを尊敬しているよ。雨が降るたび、あの優しく切ない音を聞くたびに、僕は正太郎さんと、彼が最後に教えてくれたことを思い出すんだ。
 彼の最後の教え、『涙雨の真意』をね。彼の――彼ら『護国の民』の意志を、無駄にしてはいけないと思うから。
 ほら。今も聞こえるよ、涙雨の音が。そして、正太郎さんの声が。
 人になんて言われようが、僕の真実が、そこにある。
 君にも、そんな思い出……ないかい?

Fin



アトガキ
絶大人気
――正太郎さんが
読む人読む人、正太郎さんのことしか口にしません。洵もおばあちゃんも無視です(笑)
私の書いた話の中で「人気ある人トップ3」にはいるのではと言うほど好かれてます。
好かれているのは嬉しいのです。まあ、正太郎も主役と言えばそうですし。(裏のね)
ああ、洵が大人になってなんかふざけた性格になってそうなのがショックだという方もちらほら……。


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