涙雨(なみだあめ)〜前編
――昔話をしようか。
あれは、僕が当時小学校に入るか入らないかぐらいの頃だから……もう、二十年近く前になるね。
いやはや、時の流れとは残酷だ。気がつくと僕もこんな歳になっちゃってる。――まあ、それについては今語ることじゃない。
ちょうど季節は、今ぐらいだったはずだ。祭りの時期だから……そう、確かにちょうど今頃だったよ。
当時の僕は、この季節になると決まって祖母の家に行っていた。彼女の住んでいる近くには神社があってね、この時期になると毎年鎮魂祭をやるのさ。
うん、『鎮魂祭』っていう言葉からもわかるだろうけど、その神社は『護国』でね。当時の僕はそんなこと関係なく……というか、全くわかってなかったわけだけど、それでも祭りは楽しみだったよ。子供だったからね。
さて、何歳からだろう。とにかく物心ついた時から、その鎮魂祭に行くのが慣習のようになっていた。毎年毎年、祖母の家に行ったよ。
祖母は未亡人で、女手一つでうちの父親含む三人の子供たちを育てたっていう強者さ。もちろん、苦労は山のようにあっただろう。だけどそれを全く見せない、優しく穏やかな人だった。
祭りは六月の末日。というか、六月という月の最後の土日を使っていた。日じゃなくて、曜日で決めてたんだね。だからこそわりと成長してからも、六月という日取りにもかかわらず、わざわざ祖母の家に行けたわけだけど。
そうやって何年も通っているとね、知り合いが出来るわけ。最初はたんなる顔見知りで、「あ、あいつまた来てる」程度のものなんだけど、その内に好奇心も手伝って、お互いにどちらともなく声をかけるんだ。せいぜい一年のうち三日程度の付き合いだけど、楽しかったよ。いい奴等だったし。
今でもその中の数人とは付き合いがあるよ。あっちに行く度に会ってる。今は誰が一番先に結婚するかって賭けてるしね。はは。
――だけど、もう二度と会えない人もいる。悲しいことだね。
ん? 死んだのかって?
……そうだね、そう言うのが一番かもしれない。正しくはないけど、間違ってもいないから。
この昔話は、その『二度と会えない人』に関することなんだ。不思議な……とても不思議な話でね、ぜひ聞いてもらいたい。
なんで突然そんなことを言い出したのか?
そうだね。外を、見てごらん。いや、それよりも目をつぶって耳をすませた方がいいか。さあさあ、目をつぶって!
…………ほら、聞こえるだろう? そう、ご名答。雨の音だ。
ふふ。本当に、この音だけは全く変わらないね。なにが変わっても、この音だけは。
それとも、僕がそう感じているだけかな? 僕だけの耳に、あの音が染みついてるだけなんだろうか?
とにかく、雨の音が僕に昔を思い出させるのは確かだよ。今も……それに触発されてこんな事話してるわけだしね。
さて、と……。準備はいいかい? 僕の話、聞いてもらえるかな?
あー、そうだね、ここまで言っておいて、今更か。それも一理ある。ま、勘弁してよ。思い出したら、つい言いたくなっちゃってさ。我慢して聞いてくれ。そんな長い話でもないしね。じゃあ……いくよ?
爽やかな風が頬に当たっている。少し暑い駅のホームに降りたって、少年は大きく息を吸い込んで伸びをした。
「ん〜〜〜!」
スッと、後ろから影が差す。
「おい、洵(まこと)。疲れてないか?」
両手に荷物を持った父が、心配そうに覗き込んでいる。それを安心させるように笑うと、洵は父の前をスキップしながらゆく。
「へーき、へーき! お祭りは明日からだよね?」
「はは。ほんとうに洵は祭りが好きだな」
嬉しそうに声を出す父に、洵は大きく頷いた。
「うん! みんなにもあえるし!」
「そうだな。おばあちゃんも待ってるだろうし、行くか」
二人並んで歩き出した。今ここに、母はいない。彼女は家で留守番をしている。
父と、息子と。二人旅だ。洵には、またそれが嬉しくてならなかった。この旅だけは、普段仕事で忙しい父が、穏やかに笑ってついてきてくれるから。
駅前でタクシーを拾って乗り込んだ。風だけは爽やかだが、まだ初夏だというのに気温はわりと高い。タクシーの中は冷房が効いていて気持ちが良かった。
「おばあちゃん、元気かな?」
「おいおい、昨日電話で話したばかりだろう?」
「でもさ、やっぱ電話とあうのとはちがうよ」
少し背伸びした物言いに、父がおかしそうに笑った。
そんな会話をしているうちに、祖母の家の前に辿り着く。すぐに父とタクシーの運転手が、荷物を運び出し始めた。
うずうずと、体の中をなにかが走る。そんな洵の気持ちをくみ取り、父はおかしそうに顔をゆるめた。
「洵。先行って、おばあちゃんに挨拶してこい」
「うん!」
許可が出るやいなや、洵は走り出す。門から家の入り口までの短い距離の、なんと長く感じることか。砂利を踏みしめ、もどかしさに耐えながら足を交互に動かす。玄関の開き戸に手がかかり、思い切りよく扉を開けた。
「おばあちゃん、きたよーっ!!」
声の限り叫ぶ。奥の方から、きしきしと床のきしむ音がした。
上品で落ち着いた色の和服を着込み、白くなった髪を後ろで一まとめにお団子状にしているのは、誰でもない、洵の大好きな祖母だ。
「よく来たわね、洵君」
そう言ってにっこりと笑った顔も、全然変わりがない。
「おばあちゃん!」
靴を投げるように脱ぎ捨てて、洵は祖母に飛びついた。
「あらあら。大きくなったこと」
「僕、もう二年生だよ?」
「まあ、ずいぶんお兄さんになったのね」
「うん!」
我が事のように喜ぶ祖母の様子に、洵は嬉しさで胸がいっぱいになった。そのまま力強く抱きついた洵に、後ろから声がかかった。
「おい、洵。あんまり抱きついておばあちゃん潰すんじゃないぞ」
「そんなことしないよ!」
「んー、どうだかなあ?」
「しないってば!」
息子と孫の掛け合いを微笑ましそうに見つめながら、祖母は言った。
「お帰りなさい、正也(まさや)」
「ただいま、母さん。また世話になるよ」
靴を脱いで家に上がった父に代わり、今度は洵が靴を履いた。
「あら、どうしたの? 洵君」
右足の紐をキュッと結んで、洵は答えを返した。
「んっとね、でかけてくる。ダメ?」
「別にいいが……夕飯までには帰るんだぞ?」
「うん。わかったよ、父さん」
両方の靴の紐を縛り終わると同時に、「いってきます!」と家を出た。自然と頬がゆるむ中、洵は全速力で目的地へ駆けた。
目指すは神社裏の森の中。そこに、洵の目指すものがある。
ぴーひゃらぴーひゃらとんとんとん。ぴーひゃらぴーひゃらとんとんとん。
祭囃子が聞こえる。今日は祖母の家近くにある神社の前夜祭だった。
前夜祭なので洵の好きな出店はないけれど、その祭り独特の活気だけは、すでに生まれてきている。洵はその雰囲気も、出店に負けないぐらい好きだった。
神社の石段の横から森に入り、奥の方へ進んだそこに小さな広場みたいなスペースがあるを知っているのは、こっちでいつもつるむ仲間内でも洵ぐらいだと思う。
なぜかこのことだけは、仲間にも言うつもりにならなかった。言ったら……なんていうんだろう。全て消えてしまうような、そんな不安があったのだ。
慌ててここまで駆けてきて、さすがに息切れがした。喉で息をするようにしていると、笑いを含んだ声がかかった。
「洵君。一年ぶりですね?」
――やっぱりいた、いてくれた!
そんな気持ちと共に顔を上げると、目の前には着流し姿の一人の青年がいた。
「一年ぶり、正太郎(しょうたろう)さん!」
「そんなに急いできて……。転びでもしたら、どうするんですか?」
注意するようなことを言いながらも、青年の目元は和やかだった。だからこそ洵も、正直に謝ることが出来た。
「ごめんなさい。でも、少しでもはやく、きたかったから……」
洵のすまなそうな呟きに、正太郎は嬉しそうに微笑んだ。
見た目が十代とも二十代とも取れるその人は、洵がこうして祭りに来るようになり……そしてこの秘密の場所を見つけてからの知り合いだった。
正太郎は客観的に見て、どちらかと言えば優男の部類にはいるだろう。しかし知識は人と比べることが出来ないほど持っている。
優男に見えるのだって、彼が元来争いを好まない、穏やかな人だからに他ならない。洵も、彼から色々教えてもらった。一つ一つ丁寧に教えてくれる彼は、学校の先生より先生らしいと思う。
そんな正太郎を、洵は心の底から尊敬していた。
祭りが近づくとこうして、着流しを着た正太郎は現れる。祭りの期間の三日間だけ、こうやって会うことが出来る。それ以外は――たとえば盆や正月などは、まるっきり会うことがない。
「元気でしたか?」
そっと腰をかがめ、正太郎が洵に視線を合わせた。
「うん。正太郎さんは?」
「…………そうですね、元気でしたよ」
「……?」
――ああ、まただ。
正太郎はよく、こんな妙な間をおく癖があった。そんなときの彼は、いつもの穏やかな笑みではなく、どこか切ない表情をするのだ。あまり気にしていないが、全く気にならないわけがない。
正太郎は洵の話をなんでも聞いてくれるのに、自分自身のことは何も言わない。だから洵は、彼の素性を全く知らなかった。それでも正太郎に対する尊敬は変わらない。
「……おや、雨だ」
ぽつりと、洵の頬に当たった水滴に、正太郎が目を細める。
「つめたっ」
慌てて顔をぬぐった洵に、正太郎は小さく笑った。先程までの切ない表情は、すでに消えていた。
「きなさい、洵君。雨宿りをしましょう」
音もなく歩く正太郎の後を、洵は急いでついていった。
後編へ
戻る