道行〜後編



 夜とは、こんなに静かだっただろうか……。思って周りを見回す。真珠の姿が、そこにはない。鼻についた血の匂いが、取れなかった。
 真珠は、先程の病院に入院となった。そしてそこの医師は、こう告げた。
「心臓も、肝臓も……とにかく、全ての機能が弱っています。ここまで持っているのは奇蹟かもしれません。歳のせいも、あるでしょう。おそらく……覚悟が必要です。明日まで持つかどうか……」
 覚悟。それは、真珠が死んでしまうということだ。十三年間、片時も離れずいた存在が、消えてしまうことだ。
「そんなの……嫌だ……」
 言っても、どうにも出来ないことは重々承知している。今はただ明日会えることを願い、真珠の頑張りにかけるだけだ。
 突然、電話が鳴った。静佳の携帯電話だ。
 今の雰囲気に合わない、調子はずれな明るいメロディーが鳴り響く。
 まさか……病院から? すぐ繋がるようにと、静佳は自分の携帯電話の番号を教えていた。
「もしもし……」
 心臓がはち切れんばかりに鳴り響く。やっとの事で出た電話の向こうから聞こえたのは。
《もしもし、センセイ? ちょっと聞きたいことがあってさあ》
「……少年?」
 俊敏だった。安堵に大きく息を吐き出し、問いかける。
「なんの用?」
《いや、宿題の範囲聞きたかったんだけど……もしかして、何かあった?》
「――なんで?」
 ドキリとしながら聞き返す。
《声、なんか泣いた後っぽいから……何かあったんだろ。別に、言いたくないなら無理しなくていいけど……》
 相変わらず鋭い。俊敏に隠し事は出来ないと知っているから、静佳はなるべく冷静に答えた。
「真珠がね、危篤なの」
《しーちゃんが!? センセイ、大丈夫か!?》
「大丈夫かって……なにが」
 逡巡するような沈黙の後、俊敏は答える。
《辛いんだろうが。それに、側についててあげなくていいのか?》
 その言葉を鼻で笑い、言った。
「私がついてからって、どうなるのよ……どうにも、どうにもならないのよっ!? 一緒にいれば……つらいだけじゃないっ……」
 苛立ちと悲しみが、静佳を包む。体の不調に気づいてやれなかったこと。苦しむ真珠を前に何も出来ない歯がゆさは、静佳が一番感じていたことだ。
 ゆっくりと、俊敏が聞き返してきた。
《……それだけか?》
 今まで聞いたこともないような真剣な声に驚きながらも、素っ気なく返す。
「なにが」
《言いたいことは》
「他にはないわ」
 きっぱりと言った静佳の耳に、感情を押し殺したような俊敏の声が届いた。
《……泣いてるだけか? 逃げるだけか?》
「何を……」
《そうやって、泣いて、言い訳して、逃げて。真珠への気持ちより、結局不安に負けてるんだ。あんたはそれで満足か。ああ、満足だから言ってるんだろうさ》
 淡々とした言葉にカッと、頭に血が上る。
「少年になにが……!」
 わかるというのか、そう続けようとした静佳を、俊敏の激しい言葉が遮った。
《出来ることをしないで逃げることが、今のあんたがすべき事か!? 違うだろう! あんたはわかってるはずだ、わかってるんだろう!? なら目を覚ませっ、飯山静佳!!》
 ――ぱっと。視界が広がった。そんな言葉が、一番当てはまる。絶えず脳裏にあった、戸惑いと迷いが消えた。
《行って、やりなよ》
 一転して優しさのにじむ声。誰のもとへとは、言わなくてもわかる。
「……まにあうかな?」
《まにあうさ》
「だよね」
《そうさ》
「……ありがとう」
《いや……頑張れよ、センセイ》
 負けるなと言外に励まされ、拳を握る。
「行ってくるわ」
《おう。じゃあな》
 そのまま、電話は切れる。静佳は薄いジャンパーをまとい、階下にいる母を呼んだ。


 朝が来た。目の前には荒い息の真珠がいる。
 昨晩、俊敏との電話の後、病院に行って連れ帰ってきたのだ。
 助からないというなら、家で最期を送らせてあげたい。家で、一緒にいてあげたい。そんな静佳の願いを、獣医は快く承諾してくれた。
 薬のおかげか、血は止まっているが明らかに衰弱している。それでも病院にいた時よりは安心して横になっているようだ。静佳は真珠の側で、眠らずに夜を明かした。
 何度も、泣き叫びそうになった。当たって欲しくない予感がする。そしてそれは確信でもある。だからこそ、真珠は家に帰された。
 真珠はボロボロの身体で、何度も立ち上がろうとした。その度に場に止めながら、真珠の真意を感じたのは何度目だったか。
 彼女はいつも通りに外へ向かっていた。トイレに行こうとしている。そうわかり「もういい。ここでしていいから。怒らないから」と言っても、彼女は頑として譲らなかった。
 どうしてこんな時まで、人の教えに忠実にあろうとするのか。それが犬の性なのか。健気とも言えるその態度が、痛くて切なくてどうしようもない。
 根負けして抱き上げ外に連れて行くと、倒れそうになりながら排泄した。そこまでこだわる真珠に、涙が出た。
「しーちゃん、どうしたの?」
 朝と昼の間。真珠はゆっくりと目を開けると、再びふらつきながらも立ち上がった。
 トイレとは違うその様子に、ふと不安がよぎる。
「動かないで……何があるの?」
 ふらつき、静佳の手を支えにしながら、真珠はゆっくりと歩き始めた。
 昨日倒れた玄関に立ち、何かを見つめる。次は、裏庭へ行く扉の前。そこでもじっと立ちつくすと、すぐに足を違うところに向けた。
 ソファの上に上がりたいと、目線で言われた時に気づいた。真珠は、いつも自分がいた場所を確かめるように回っている。
 切ない、予感がした。
 所定の場所に座り、何事かを考えるようにする真珠を、静佳はじっと見守った。やがて満足そうにひげを揺らすと床におり、ふらふらしながら、自分の小屋へと向かった。
「しーちゃん……入りたいの?」
 訴える眼差しに、静佳は小屋の囲いを外し、新しい毛布と、いつも使っている毛布を半々に敷いた。
「いいよ……入りなさい」
 ゆっくりと、真珠が足を踏み入れる。横になることすら自分で出来ない真珠を、静佳は優しく横たえてやった。
 気がすんだのか、そのまま移動をやめた真珠の横に腰かけ、頭からお腹にかけてゆっくりとなぜてやれば、彼女は気持ちよさそうに目をつぶった。
「よくこうやって、一緒に寝たよね」
 ピスピスと言う鼻の息に、答えようとしてくれたことを知った。
「ずっと……一緒だったよね……」
 頷く代わりのように、すうっと大きく真珠が息を吸う。そして。
「しーちゃん? ……真珠?」
 息が、止まった。目は開いたまま、虚空を見つめている。
「し……しん、じゅ?真珠?」
 答えはない。
 ――部屋に、泣き声が広がったのは、次の瞬間だった。


「センセイ、進路決めたんだって?」
「うん、決めたよ」
 真珠の死から、一週間がたった。完璧に立ち直ってはいないけれど、静佳は学校に通っている。
「真珠が、教えてくれたから」
 最期まで生きようとする強さは、人も他の生き物を変わらないこと。家族を失う辛さも、この一件で痛いほど理解した。
「あの日真珠が急に具合を悪くしたのは、待っててくれたんだと思う」
 真珠が倒れる前日まで、父は出張していた。真夜中遅くに帰ってきた父を、真珠は珍しく、起きあがって迎えたらしい。いつもならそのまま寝ているのに。
 どこかほっとしたようなその様子に、おかしいと気づくべきだったというのは、父の弁。
 あの日初めて、父が声を出して泣くところを、見た。
「きっと、全員と別れを告げたかったんだよね……すごいことだよ」
「うん、すごいよな」
 あの小さな命は、ボロボロの身体で、それを知らさず、元気なフリをしていたのだ。本当に、限界ぎりぎりになるまで。
 なんて愛しい、優しい存在だったんだろう。
「で、結局センセイ、進路どうしたんだ?」
 好奇心そのままの問いに、静佳は照れくさいと思いながらも答えた。
「うん……獣医を目指そうと思う」
 真珠が倒れた時、切実に思った。いつでも、休日でも真夜中でも診察してくれる場所があればと。それは、小さな家族を持つ多くの者達が思っていることだろう。
「真珠を看てくれたあの先生に感謝してる……私も、そうありたい」
 親切な病院の態度が、心から有難かった。真珠が息絶えた後だったが、獣医は様子を見に来てくれたのだ。他にも仕事がつまっているというのに。
 あんな獣医に、なりたい。沢山の優しい『家族』の命を救いたい。
「その理想、叶えるの辛いぞ?」
 試すように問いかける俊敏に、静佳は笑顔で答えた。
「大丈夫。私には、真珠がいるから」
 経験をくれただけでなく、きっと真珠は見守っててくれると思うから。
 道行は辛いが、それを乗り越えるだけの想いが今の自分にはある。
 欠けていたものが、揃ったのだ。

 
 後日、クラスメイトから少し遅れて静佳の進路調査書が出された。そこにはただ一行、こう書かれていた。
『第一志望・獣医学部』 



アトガキ
有島文芸賞に出そうと思って書いた作品でした……ところが大幅にページオーバーしてしまったので、これは没に。
でも個人的に気に入っている作品だったので、消しちゃうのは嫌だったんですね。
ちなみに。真珠のモデルは亡き愛犬ナチ。妹のように大切な存在です。



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