道行〜前編



 彼女が教えてくれたこと。彼女が遺してくれたもの。
 彼女には覚えがないだろうこの言い分は、私にとってとても重要なことを成してくれた。
 遺志とすら呼べぬそれ。その、生き様を。
 私は……いつまでも覚えておこうと、そう、思う。


 真っ赤に染め上げられた教室。少し開けられた窓からは、夏独特の風と共に運動部のかけ声が微かに流れてくる。一人イスに座った少女以外に、あたりに人影は見あたらない。
 少女の前に一枚の紙がある。三日前に配られたその紙の上には、最初から印刷された黒の墨以外に、何もない。そのことが、高校二年である彼女を悩ませていた。
「うーん……」
 頭を抱えてみても、真っ正面からにらみつけても、状況は変わるはずもない。ただ、あざ笑うかのようなその空白が目に痛かった。
「困った」
 口調だけはいつも通り、平坦につぶやいた。
「なにが困ったって? センセイ」
 急にした声に顔を上げれば、よく見覚えのある顔とかち合った。普段から親しいクラスメイトの一人だ。
 ドアの側にいた彼はゆっくりと少女の方に近づいてくると、カタリと前席のイスを引き出し、それを抱え込むようにして座った。色素の薄い茶の瞳が、いたずらっぽく輝く。
「全然困ってるようには見えないけどね、俺には」
「ほっといて。第一、私の名前は『センセイ』なんて言うふざけたものじゃないんだけどね……『少年』?」
 お返しとばかりに『少年』を強調してやれば、自分の背が平均男子よりもかなり低いことを気にしているらしい彼は、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「そっちこそ。俺がそのあだ名嫌いなこと知ってて」
 すねたような口調は、その童顔と相まって、彼を歳より幼く見せる。それこそ、皆が彼を『少年』と呼びたくなる一番の原因だと言うことに、当人はまるで気づいていないらしい。
「俺にはねぇ、大江俊敏(おおえ・としゆき)という、それはそれは大変立派な名前があるわけだよ」
 少し芝居がかった口調と動作で、彼は胸を反らした。
 昔から、『名は体を表す』というのに間違いはなく、少年の名は彼をとてもよく表せていると、少女は思った。クラスで一番すばしっこいと定評のある彼は、まさしく『俊敏』の名にふさわしい。
「それなら私にだって、飯山静佳(いいやま・しずか)という名前があるんだけど?」
 彼ほど、自分にあった名前ではないと思うけれど。
 正論に、俊敏が小さくうめいた。
「そ、それは……」
「ん?」
 どうなんだとばかりに見返せば、俊敏は拳を小さくふるわせながらも言い放った。
「それでも、『センセイ』は『センセイ』だ!」
「――じゃ、あんたも『少年』決定」
「ええ!?」
 ひどいと連呼して抗議する『少年』を完璧に無視し、静佳はその視線を、再び白い悪魔に移した。
 それはやはり、変わらぬのっぺりとした顔で静佳を見つめてくる。それがひょいと、空中にさらわれた。
「なんだ、進路希望調査書じゃん」
 目の高さにまで持ち上げ、俊敏はしげしげと静佳の調査書を見つめた。
「真っ白。センセイの進路なんて決まってんだろう?なにを今更悩んでんだよ。締め切り明日だっけ?」
「うるさいなあ……少年には関係ないでしょ!?」
 苛立ちながら急いで紙を奪い返せば、俊敏は驚いたように静佳と自分の空になった手を見比べた。
「あらら、ご機嫌斜め。でも、だからってそんな態度はないんじゃないかね?」
「あ……。ご、ごめん……」
 確かに少し八つ当たりっぽかったかもしれないと反省し、素直に謝った。それに俊敏はにっこりと満足そうに笑って手を叩いた。
「そうそう。人間、素直サンが一番だよ」
 少し軽い、どこかふざけたような俊敏の態度は、こういう時、実にありがたい。意地を張らずにいられるから。
 そんな風に一息ついていると、カウンターのように質問が返ってきた。
「で、期待の星の跡取り娘が、今更何を悩んでいるのかな? ずっと昔から、決めてるんじゃなかったのか?」
「――う。ちょっとねぇ……本当にこれでいいのかなって」
 ため息ともに返した真剣な悩みに、俊敏は同じくため息に、ご丁寧に渋面までつけて戻してきた。
「今のご時世、センセイみたいな恵まれた話、そうそうないぞ? なんだかんだいっても、結局施設とかも丸々全部受け継ぐって事なんだろうが」
「そう、なるね。恵まれてる? うん、恵まれてる……よねえ?」
 語尾が消えるような自信のない言葉に、俊敏は頭をかきむしりながら、声を大にして叫んだ。
「なんて贅沢な悩み! いらないなら俺が欲しい……って言うか、むしろこっちによこしなさいっ!」
「そういえば少年、私と志望校同じだっけ?」
「その通り!」
 俊敏は声高に宣言し、どこから取りだしたのか数学の教科書と、授業中につけている眼鏡を素早く装着した。
「だから日夜こうして勉強してるわけさっ!!」
 意味もないヤケのような笑い。そして沈黙。やがて少年は、苦い笑いを口に乗せてつぶやいた。
「だからさ、俺みたいのから見れば、本当にセンセイは恵まれてるわけよ。もちろんセンセイが努力してるのも知ってるけど……両親ともに医者で、跡を継げる病院はあるわ……悪くいえば、コネだってあるだろう?」
 否定出来ない話に、苦々しく頷いた。
 静佳は両親ともに歳を取ってからの子で、かなりの期待と、愛を注がれている自覚があったから。かなりの確率で、両親が院長を務めるあの病院は自分のものになるだろう。
 そう、静佳(こちらはまだ迷いがあるが)とそして俊敏が目指しているものとは『医者』だった。
 しかも静佳は、この辺でも有名な病院の院長の一人娘。蝶よ花よ、期待の星よと育てられ、今年で十七年目。両親は娘の将来を医者だと信じ切っている。
 そしてまた、静佳自身も医者になるのだという一種の思いこみでずっと生きてきた。
 俊敏などが静佳を『センセイ』と呼ぶのも、静佳の家庭環境や将来の展望、『医者=先生』という一般式から生まれたものだ。
 でもあらためて進路は?夢は?と、間近に迫る問題に直面した時、静佳は悩んでしまったのだ。本当にこれでいいのかと。
 確かにこれは贅沢な悩みだろう。目の前にある、確かな可能性があるからこそ、言ってられることだ。
 俊敏のように自らなりたいと思い、努力している者にとって、自分はどれほどわがままに、尊大に見えるだろうか?
 しかし、こんなあいまいな状態で医者を目指してはいけないと思う。人の命を預かる者が、こんな状態ではいけないのだ……。
 つかんだスカートが、くしゃりと音を立てた。
「――でこぴん!」
「きゃっ!?」
 ピシッという音と、額に走った衝撃。
 じんじん音のするような痛みに顔を上げると、俊敏の手の平が目にはいる。
「センセイは、良くも悪くも真面目だからね」
 下げられた手の向こうには、苦笑を込めた口調で、こちらの心の中を見透かすような俊敏がいた。
「たまには気楽に考えるといい。自分に必要なのはなんなのか……すでにひかれているレールには、とりあえず一度見ないふりしてさ」
「少年……?」
 真剣な表情は、あっと言う間に笑みに変わった。いたずらめいた、いつものそれに。
「一生ものの問題だからね、悩むのも当たり前だろう。まあ? 悩みすぎて、それ以上若白髪を増やさないことを願ってるよ」
「っ!? 少年!」
 怒りにまかせて俊敏の腕をつかもうとしたが、あえなく失敗する。
 クラス一身の軽い少年は、するりと静佳の射程範囲から抜け出し、鞄を持っているとは思えぬ速さでドアまで走った。
「ははっ。明日からの三連休、悩んでばかりいるなよ? 程々に! じゃあね」
 スパン! というドアの閉じる音を残し、俊敏は姿を消す。パタパタというリズミカルな音も、段々小さくなっていった。
 髪をかきあげ、ため息をつく。
「まったく……勝手なことばかり言ってくれるんだから」


 日曜日。連休二日目である。
 朝七時きっかりに静佳は目を覚ました。休みなのに、習慣というものは恐ろしい。
 部屋から出て一階に下がると、すでに両親の姿はない。朝早く急患でも入ったのか……それとも昨晩帰らなかったのか。判断は付かないが、忙しいことだけは確かのようだ。
 全然寂しいと思わないと言えば嘘になるが、一人には慣れていたし……寂しさを紛らせてくれる存在がいた。
 新聞を片手に居間に進んだ静佳の足下に、すり寄ってくるものがいた。
「おはよう、しーちゃん」
 パタパタと、真珠の尻尾が揺れた。
 しーちゃん――『真珠』とは、静佳の大切にしている雌の室内犬のことである。
 真珠という名とは逆に、若い頃は全身つやつやとした真っ黒な毛並みが自慢だった。
 今年で十三という年のせいか、最近その毛にも白いものが目立つ。それでも、獣医からお墨付きをもらったその容姿は変わることがない。
「しーちゃん、天気もいいし、昨日も行ったけど、お散歩に行こうか?」
 抱き上げた真珠が、嬉しそうに喉をそらした。くりくりとした目が、輝きを増す。
「散歩好きだね、お前。ちょっと待ってて。お姉ちゃん、ご飯食べちゃうから」
 食卓についた静佳を残念そうに見上げながら、それでも真珠はおとなしくしていた。じっと、静佳を見てくる。
「寝てなさい、終わるまで」
 言葉を理解したのか、真珠はくるりと背を向け、玄関に行く。蒸し暑い最近、真珠は涼しさを求めて玄関に行くことが多くなっていた。
 ごろりと横になった姿を確認し、静佳は朝食を取り始める。
 耳にも止まらないニュースが垂れ流しにされる横、他に音はなかった。自身がものをかみ砕き、すりつぶす振動が、体の芯へと響く。
 そんな中、異変が起こった。「きゃん」とも、「ぎゃん」とも………「ぐぇっ」という吐き声ともとれる何かが、玄関から聞こえた。明らかに、異常を知らせるその声。
「真珠!?」
 玄関に、自分以外に今この家にいるのは真珠のみ。箸を置くことすら煩わしく、投げるように置いて椅子から飛び降りた。箸が床に落ちる音がしたが、大して気にならなかった。
 足をからませながら走り、玄関で見たのは……舌をでろりと出しながら痙攣し、汚物を流れるままにした愛犬の姿だった。
「しん……じゅ……?」
 呆然と、ただ見ていた。自分が何を目にしているのか、理解するのに数瞬がかかった。理解した途端、もう一人の自分が呟いた。
 これは、もうだめかもしれない……。
 慌てて頭を振り、その考えを追い払う。
 だめだなんて……そんなことがあるはずがない、あってはならないのだと。
 真珠がひくりと、体を動かした。静佳を確認し、起きあがろうとしたのか……倒れたまま足を動かす。
「真珠……しーちゃん?」
 その姿に我に返った。流れたままの糞尿を慌てて片付けながら、静佳はそっと真珠に声をかける。
 小さく鼻を鳴らすような音がして、真珠の瞳が静佳を見上げた。少なくとも意識がはっきりしている様子に安堵するが、それは早かったようだ。
 片づけても、片づけても、真珠から汚物は流れ出た。体の中にあるものが全部出てきている………肛門などを閉めておく力すらないことに気づき、愕然とした。
 何度も自分の汚物を片づける静佳に、気のせいだろうか……真珠がすまなそうな表情で首を上げる。
「いいの……いいんだよ、真珠。我慢しないで。動かないで……じっとして……」
 言い聞かせて、そっと頭をなでた。
 一体何があったというのか。先程まで元気に歩き回っていたのに、今の真珠は起きあがるどころか、まともな排泄すらままならない。
「獣医さん……お医者さんの所に連れて行かなきゃ……」
 それだけ思ったものの、この状態では下手に動かすわけにもいかないし、また静佳だけで運ぶのは無理そうだった。なにより今日は日曜。かかりつけの病院は休みだ。
「どうしよう……どうしよう……」
 泣きそうになるのをこらえながら、真珠の側に寄りそう。
 やがて、肛門から出るのが排泄物ではなく、血のかたまりへと変わり始める。二、三センチの血のかたまりが、大量に出始めていた。
「いけない……内臓がやられてるんだ」
 本格的に危険だと感じた静佳は、タウンページ片手に医者を捜し始めた。
「待っててね、真珠。今、お医者さん探すから!」
 苦しげに息をする真珠の元、静佳は何度も電話をかけた。途中思いついて母親に電話し、暇な時間を見つけたら来てくれるように頼んだ。
 今は母が真珠の側にいて、静佳がひたすら電話をかけている状態だ。
「……ええ、休日なのはわかっています、そこをなんとか! …………わかりました」
 まただめだったと、落胆し受話器を置く。何件も電話をかけたが、全て休日だからと断られた。いくら急患だと訴えても聞き届けてもらえなかった。
「どうして……命を助けるのが医者じゃないの!? 獣医も、普通の医者も、それは同じじゃないの!?」
 こうしてる間も、真珠の血は止まらず、弱っていくばかりだ。一刻も早く医者に見せなければならないのに。
「せめて休日じゃなければ……!」
 いいながらも、タウンページをめくる手は止めない。
「もしもし!? おやすみなのはわかっています、どうか、うちの子を…………え? 今すぐ? いいんですか!」
 何件目か忘れるほどのその電話に出たのは中年とおぼしき女性だった。今すぐ連れてきなさいと、相手は言った。
「ありがとうございます!! ええ、今すぐに! はい、飯山です。はい、お願いします!」
 電話を置いて、とって返すように母に声をかける。
「母さん、車出して! 真珠、看てもらえるって! 早く……お願い!!」


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