鬼哭  前編



 
 鬼が来るよ。
 真っ赤な真っ赤な血の色をした醜悪な、異形。
 鬼はね、残酷なんだって。
 鬼はね、人を食べちゃうんだって。
 だから、捕まったらいけないよ。



 小さな村の中に、叫び声が響き渡る。
 辺りに香るは鉄さびの匂い。
 散らばるは紅き水。
 地獄絵図、阿鼻叫喚の言葉がふさわしい。
「鬼じゃ、鬼じゃあああ!!」
「助けてええええっ!」
 逃げ回る女子供。それを押しのけ、突き倒し、逃げ回る男たち。
「命だけは……命だけは………」
 震えて命乞いをする者を、青年はためらわずに斬り殺した。
 鈍い音。肉を立つ感触。生臭い血の匂い。
 もう、何も感じない。ただ憎しみだけが、この身体を支配する。
「嫌……嫌だ……なんで、なんでっ、わしがっ!!」
「――自分に聞け」
 つぶやいて、また斬り捨てる。豚のような悲鳴を残し、男は絶命した。
 一体、何人斬ったのか……もう覚えていない。
 ただこの手に残るのは、ぬるりとした液体と、なんとも言えぬけだるさのみ。
 本能に従い、目の前を通り過ぎる女を蹴り飛ばし、転がした。
 無様な姿に、喉から笑いが洩れる。
 女が、青年を見た。涙を流し、怯えと蔑みを隠さずに、狂ったように叫ぶ。
「鬼……鬼っ!! やっぱりあんたは……鬼だったのねっ!?」
 なんて醜悪。
 なんて愚か。
「何を今更……。そうだ、俺は鬼だ」
 そう言っていたのは、そう望んでいたのは、お前達だろう?
 暗く笑えば、女は後ずさる。
「なんでっこんなむごい事を……!!」
「なぜ? わからんか?」
 簡単なことを、見ないふりして。
 ああ、本当に愚か。
「お前らが……殺したからだ。あいつを、な……」
 顔の側に刀を突き刺せば、女はぶんぶんと首を振った。
「だって、だってあの子は……!!」
「お前らのごたくは聞きあきた……死ね」
「――がはっ」
 胸を一突き。しばらく宙をつかんでいた手が、ぱたりと落ちる。
 頬にはねた液体を煩わしげにぬぐい、青年は刀を引き抜いた。
「まだ……残ってる……」
 ぽつりと呟き、青年は刀を片手にふらふらと歩き出す。
「あと……何人斬ればいいんだったけか……」

 その身を紅く彩る青年は、その日、自ら鬼となることを選んだ。
 自ら……修羅に堕ちたのだ。
 それから、時は流れて数百年。鬼のままの青年は、少女と出会う。


《来るな――ッ!》
「――っ!?」
 頭に直接響き渡ったその意志に、少女は体を震わせた。
《来るな……入って来るな……俺の邪魔をするな……!》
 深い森の奥。隠されるようにある神社。管理する者がいないのか、荒れ放題とは言わないが、かなりひどい状態になっていた。
 それでも、普通の神社とは違うことだけが明瞭にわかった。ピンと張られた空気。触れたらぷつりと音を立てて消えそうな極度の緊張感。
 敵意を痛いほどに感じながら、少女は辺りを見回す。
《……俺の邪魔をするな……!》
 何度も繰り返されるセリフに、首をかしげる。そして、応えた。
「邪魔など、しようとは思ってないわ……そちらにしてみたら、邪魔以外の何者でもないんだろうけど」
 息を呑む気配が伝わった。逡巡するような沈黙の後、警戒の混ざった口調で意志は伝えられる。
《聞こえるのか……俺の声が》
 疑問というより確認だった。
「聞こえるわ。他の誰でもない、あなたの声が。鬼神様……と言えばいいのかしら?」
 せせら笑うような息をつく音。同時に、小さなきしみをたて、遠くに見える木製の扉が開くのが見えた。中には人影。座り込んだその者は、小さく肩を揺らしている。
《鬼神……か。皮肉な字(あざな)をつけてくれる……》
「鬼神様じゃいけないの?」
 男が、顔を上げた。ふわりと、体重を感じさせぬ動きで社から出てくると、男の姿がはっきりとした。
 獣のような瞳。のばしっぱなしの赤に近い茶の髪。ボロボロになった着物。腰に差している一振りの太刀。そして、唇の端に見える、発達した犬歯。
 人のようで、人と呼べぬその男。
《俺は、鬼……単なる殺戮鬼だ。神などというご大層な冠をつけられた覚えはない》
「それでも、あなたは神として崇められている」
《俺が神なのではない。神なのは俺の偶像、俺の噂、俺の影……時に埋もれなかった都合の良い出来事》
 歌うように言われた言葉に、少女は質問を重ねる。
「人にとって? あなたにとって?」
《人にとって、だ。歴史はいつも、人によって歪められる。人のために》
 真っ正面から視線がぶつかる。神の目に浮かぶのは、殺気にも似た冷たい闘気。
 試すようなそれから、少女は一瞬たりとも目をそらさなかった。
 これ以上ないと言うほど高まる緊張の中、男が、ニヤリと口の端を上げた。唇の端から、牙が見え隠れする。
 溶けるように、緊張が消えた。それでも、空気は彼に支配されていたが。
《妙な娘だ……人の子が、俺の視線を受け止めるか。この殺戮鬼をにらみつけるか》
 鬼に『人の子』と呼ばれた少女は、それをせせらうように笑った。
「――人じゃ、ないもの」
《……なに?》
 いぶかしげに顔を歪めた鬼に、少女は繰り返した。
「人じゃないもの、私は……」
《なにを馬鹿なことを……。お前のその姿は、まぎれもなく……》
 人に他ならない――と続けようとした鬼を、少女は薄く笑って見つめている。
 少女の微笑みに、鬼は思わずという風に話を変えた。
《……なにがおかしい?》
「え? 『鬼神様』とこんな風に話しているこの状況が、なんだかおかしくて……」
 不思議で、愉快な気分なのだと言えば、鬼は困ったように顔をしかめた。
 『鬼神様』で、自称『殺戮鬼』の、そのあまりに人間くさい姿に、おかしさは倍増するのみだ。
《鬼神様……か》
 苦々しく呟かれた言葉に、少女は首をかしげる。
「ええ、鬼神様、よ。それが、下でのあなたの呼び名」
《他に、なにか伝わっているか?》
「……昔話が」
 昔々のおとぎ話。わりとポピュラーとも言えるだろう、言い伝え。
 鬼に関する、どこにでもあるような昔話だ。
《どう伝わっているんだ》
 少し逡巡して、少女は小さく息を吸い込んだあと語り始めた。
「……昔々、人に恐れられた鬼がいました。真っ赤な、それは醜悪な鬼です。鬼は山から下りてきては、村の子供や家畜を食い散らしました。そして、村は壊滅にまで追い込まれたのです。しかし、そこに旅のお坊様が通りかかりました。お坊様は嘆き悲しむ人々を哀れに思い、単身鬼に立ち向かい、見事これを調伏して見せたのです。これ以後鬼はお坊様に忠義を誓い、村の守り神となったのでした……メデタシ、メデタシ」
 物語はいつも「めでたしめでたし」で終わる。
 それが義務で、人々が求めるのはハッピーエンドなのだから。
 小さな笑いが、鬼から洩れた。
《よくもまあ……そこまで変えられたもんだ。都合の悪いことは全て隠して……自分だけが犠牲者の顔をして。愚かだな、人は》
 和んでいた空気が、再びぎすぎすとしたものに変わり始める。
 鬼の瞳が、怒りと嫌悪に染まってゆく。
 瞳がしっかりとあった瞬間、少女の中に、否応なしに鬼の記憶が飛び込んできた。


「小次郎(こじろう)さん、カボチャを持ってきたわ。食べてちょうだい」
 黒いつややかな髪。大きな瞳。日に焼けた健康的な肌と、その優しさ。
 ――自分とは、正反対だ。
 普通ではありえるはずのない、人とは違う真っ赤な髪。病鬼の様に白い肌。村人達からは嫌悪され、嘲笑れ。
 ――鬼と。そう呼ばれている……。
 あまりにもその二つ名で呼ばれすぎて、近頃では、自分が本当に人なのかすら疑わしくなってきた。
「小次郎さん?」
「あ……すまない、鈴(すず)」
「どうしたのよ、ぼーっとして」
 ころころと、名前に似合ったその声。
 村中の誰からも好かれていたこの少女が、自分の元に来るようになったのはいつからだったろう。どれぐらい、時がたったのだろう。
 そんなことを考えていたことを悟られないよう、小次郎は話題を変えた。
「……いいカボチャだな」
「でしょ? ほら、ナスもあるわよ」
 背中のカゴから次々と野菜を取り出す鈴の得意そうな様子に、小次郎は小さく笑う。
「一体どれだけ持ってきたんだ?」
「んー? とりあえず、目に付いたのは全部かしら。小次郎さんに食べてもらいたくて」
 親切な……親切な彼女。優しい彼女は、いつもこうして自分のもとへ来てくれる。
 鬼とされ、村中から不吉な存在と厄介者扱いされている小次郎と、まともに接してくれる数少ない人間。それが鈴だった。
 だがそれも……そろそろ限界だろう。今も外から、非難の声が聞こえるようだ。
 ――鬼と語り合えるなど、あの娘はどこかおかしいのだ。
 ――あの娘は鬼の手先なのだ。
 ――ひょっとしたら、あの娘自身も鬼なのではないか。
 どんなきついことでも、自分だけがされるのはいい。けれど、鈴までそんな声にさらされるのは我慢出来なかった。
 もう……潮時だ。
「――鈴」
「え?」
 顔を上げた少女を真っ向から見つめ、ためらってしまう前に言った。
「もう、ここに来るな」
「……!? なにを……!」
 反論が来る前に、たたみかけるように続けた。
「お前だってわかっているだろう? 俺のもとへ来るのがどういうことか。俺は鬼だ。人が、鬼の所へ来ちゃいけないんだ……!」
 一気に言葉を言いきって息をついた途端、間髪入れずに鈴が言った。
「――いやよ!」
「鈴!!」
 咎めるような声にも鈴はひかなかった。
「あなたのどこが人間じゃないって言うのよ! ただすこしだけ、髪の色が赤いだけ。少しだけ肌の色が白いだけ! 私を大切にしてくれるあなたのどこが、人間じゃないって言うの!?」
「お前がそう言ってくれても、村の奴等はそう思わない。この髪は血の色。不吉な色。醜悪な鬼だとな。だから……」
 もう来るなと、言うつもりだった言葉は、少女の行動に止められた。
 胸に、飛び込んできた少女。涙を流しながら、それでも視線はそらさない。
「あなたは人間でしょう? 鬼なんかじゃないわ。私は、あなたのその髪の色が好きよ。暖かな、夕焼け色の髪が好きよ……」
「鈴……ッ」
 突き放そうとした腕は、意志を無視して動かなかった。
「好きよ。誰がなんと言おうと、あなたは私の愛しい人。だから、来るななんて言わないで……お願いだから離さないで……」
 やがて、固まったままの腕は、そっと少女の背中に回った。
 幸せそうに、鈴が笑う。この時はこれでいいと思ったのだ。
 でも違う。やはり、突き放すべきだったのだ。
 

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