遠近夢〜後編
やがて母がぽつりと言った。
「あんた、私立でやりたいことないの?」
「私立行くならその金で、専門学校行って小説家になる」
大真面目な僕の一言に、母はさらに怒りを増した。
……まずったと、そう思った。でもそれは、僕の本心だった。
「そんな非現実的なこと、一体いつまで言ってるの!?」
ええ、その通りですね、母上。だけどその非現実的なことが、僕にとっては譲れないことなんです。
「なによ、その顔は……もっと真面目に考えなさい!」
真面目なんです。僕はこれ以上ないぐらい真剣に、小説家になりたいと思っているんです。どうして頭からそうやって否定して、僕の存在を踏みつぶすんですか?
「他にもっと、違う……資格取ったりして出来るものがあるでしょう?」
無い。ナイ。ない。
僕の中は空っぽで。高校すら自分の意志で決められなかった僕が、初めて自らの意志でなりたいと思ったのが小説家だったんです。
希望も夢も、半ば諦めかけていたこの僕が、それを少しでも取り戻したのは、小説家という夢の欠片のおかげでした。
「やる気があれば、出来るのよ!?」
それが……僕にはないんです。
……僕は今でも、全てをどこかで諦めているふしがある。そう、自覚している。だから、冒頭の鯛焼きにも負けているというのだ。
自分の体には限界があると、思い知ったせいだろうか。幼い頃には、何の心配もなく、ただ己の可能性だけを信じていられたのに。今は、どこか冷めてる自分の心。
それは、僕の体に原因がある。僕の体は、病魔に冒されている。病名は
――心臓病。正式名称、心室中核欠損症、そして大動脈弁閉鎖不全。
生まれたときから心臓に穴の開いていた僕は、二歳ちょっとで手術を受けた。今ここに僕がいるのが不思議なくらい、すごく難しい成功率の低い手術だったという。
小さすぎて記憶はほとんど残っていないが、目が覚めたとき、隣りに母がいて、ほっとしたことだけは、よく記憶している。
今すぐどうこう言うようなものではない。前者は手術によって治ったし、後者とて僕は幸運なことに、同病の者達よりも体が丈夫に出来ている。それが、幼い頃から僕を鍛えてくれた父のおかげであることは、もはや疑うこともない。
それでもやはり、限界はある。
小さい頃から、スポーツで本気を出したことがなかった。いや、出せなかったのだ。出せばこの厄介な体は、どうなってしまうかわからないから。
だが、皮肉なことにスポーツが大好きだった。体を動かすことは、なんでもだ。もし健康な体だったら、僕は体育の教師を目指していたかもしれないし、部活動だってバリバリ体育会系だったろう。
――運動会で走っているみんなが、マラソン大会をこなしているみんなが、僕はうらやましくて、妬ましくて仕方がなかった。
『あんたは走らなくていいから、うらやましい。ずるい』
何度そう言われただろう? 笑いながら「うらやましいだろう」と言っていた僕の心の内を、自分自身を嘆いていた僕を、あいつらは知らない。
笑いながら、なんともないと言いながら、僕は心で叫んでた。
「走れないことの辛さがわかるか!? 健康の幸せさを知っているのか!?」と――。
僕だって、同病者から見ればそんな想いの対象だろう。
しかし人間なんて、欲深いものだ。わかっていたってやっぱり……僕は健康に生まれたかった。何の問題もなく生まれたかった。
神様。なぜ僕を、こんな風にしたんですか?
だけどそれは言わない。言ってはならないことだから。それだけは……それだけは、絶対に言ってはならない。そう、禁句。
しまった……。そう思った。
開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまった人物は、こんな後味の悪い気分を味わったのだろうか?
目の前では母が泣いている。
言ってしまった。自分が心臓病だったことが、ずっと嫌だったことを。
ずっと隠し続けるつもりだった。ずっと言わないつもりだった。そんなこと、言ったって仕方がないこと。どうってこと、ないんだから。
走って、笑って、生きて。自分は普通の人と、ほとんんど同じなのだから。今更そんなこと、蒸し返すことはないのだと。
……情けないと、母は言った。出来ることなら、健康で生んでやりたかったと、母は言った。代われるものなら代わってやりたいと、母は言った。
ずるいよ……ずるいよ、母さん。そんな風に言われたら、僕は二度と、こんなこと言えなくなるじゃないか。もうこれ以上、何も言えないじゃないか……。
心に誓う。二度と母の前でこの話題をふらないことを。
心に誓う。もっと強くなることを。
二度とこんな風に思わないように。二度とこんなつまらないことで、母を泣かせなたりしないように。
結局その日、大学進学の話はうやむやになり……二人は暗い雰囲気のまま床についてしまった。
次の日。僕はへこんでいた。これ以上ないぐらいに落ち込んで、空元気ではいたけど、心にはしこりがあった。
昨日自分で言った言葉を、思ったことを思い出し、僕はどん底まで沈んでいた。
気づいてしまったのだ、自分の本当の想いに。ずっと隠して、ごまかしてきた、本音に。
心臓病を気にしてないなんて、嘘。このままでいいなんて、嘘。何ともないなんて、これが自分の普通だなんて……。
――全部、嘘。
ずっと思いこんでた。
心臓病もひっくるめて自分だとか、それがあるから今の自分があるとか……そんな綺麗事、自分をごまかすためにつけた屁理屈だ。
確かに、そう思うこともある。それは、真実。けど……
本心は、心臓病をいとんでいた。こんな運命を押しつけた、いるかどうかわからない神様を恨んでた。
そして、なによりも。
なんちゃって心臓病人を気取りながらも、どこかで僕は、心臓病を盾にして、自分自身を誤魔化していなかったか?
――心臓病なんだから、仕方ないさ、と。
一番嫌いな言葉。大嫌いなセリフを、自分が言っていたのだ。
……だから、『小説家になりたい』というのは、単なる逃げではないのかと……自分の気持ちに自信がなくなった。
そして今、そんな弱くて情けない自分が……心から恨めしい。
「情けない……」
呟くと、涙が出た。
ずっとずっと誤魔化してきたことは、今の僕に、とても重い。
「気づきたくなかったなあ……」
自分がこんな、卑怯なやつだったなんて。こんな、情けないやつだったなんて。
ぼうっとしてると、涙がぼろぼろ流れてきた。止めようとしても無駄だった。
なにかに、叫びたかった。胸にもやもやする想い、嘆き、全て。
「僕はなんで、ここにいる……?」
それすらわからなくて。何が悲しいのかもわからず、ただただ泣いた。
ふと、携帯電話が目にとまる。頭に浮かんだのは、翠。
ケイタイを、手に取った。ゆっくりと、友人のナンバーを押す。
コールが、三回。
《はい、もしもし?》
流れてきたその声に、また、涙がこぼれる。
《もしもし? ………………旭?》
訝しげにひそめられた声に、僕はゆっくり応答した。
「もしもし……? 僕、だけど……」
《…………どうした?》
泣いてることなど、声でわかってるだろうに、翠はそれについては触れずに、静かに問いかけてきた。
「スマンな。スマン……ちょっと、疲れた……………………」
《そうか……》
翠はそう言っただけで、僕の言葉を待っている。
「うん……なんだか、ね……。もう……わけわからん……」
しばらく黙り込んだ後、僕は話した。
母と喧嘩したこと、自分の本心に気づいたこと、それがとてつもなく辛いこと……。
ただの愚痴のそれを、翠は文句を言わず、全部聞いてくれた。
《でもやっぱりお前は、小説家になりたいんだろ?》
「うん、なりたい」
それだけは、変わらない。逃げなのかも……しれないけれど。
《ならとりあえず、小説書き上げろよ。俺だって、完成を待ってる読者の一人なんだからな?》
「……読んで、くれるのか?」
《ああ。だからさっさと頼むよ? ずっと待ってるんだけどね、先生?》
どこか茶化したその言葉で、二人はクスクス笑いあった。
聞いてもらったことで、どうにか精神の安定を取り戻した僕は、次の日から小説を完成させるため、かなりの時間パソコンに向かうようになった。
母が嫌な顔をしているが、僕の受験前に仕上げたいとの一言で、どうやら納得してくれたようだ。
時間が許す限り、毎日毎日、字を打ち続けた……。一日に二時間はざらだった。そして作品は、とうとう完成を迎えた。
最後の方は、何かにとりつかれたかのように打ったそれ。できあがったのは、朝方に近かった。眠いはずなのに、疲れているはずなのに、気分は清々しかった。
僕はできあがった原稿を早速印刷すると、学校に持っていくことにした。一番最初に見せる人物は、とうに決まっている。
辺りを見回し、目的の人物を見つけると、僕はその人物に呼びかけた。
「翠!」
こちらを向いた翠は、僕が手に持った紙の束を見つけ一瞬驚いた顔をし、次に、にっこりと笑った。
「出来たんだ?」
大きく頷いて、僕はそれを翠に渡した。
「じゃあ、読ませてもらう」
早速……と読み始めた翠を横目で眺めながら、僕はどこか懐かしい、高揚した気持ちを味わっていた。
この感覚は……いつか、どこかで……。
「――あ……」
小さく声を出した僕に、翠が目線を向けた。
「? ……どうかした?」
「いや、ちょっと思い出したことがあるだけだから……」
どうぞ先を、と言った途端、翠は僕の作品を再び読み始めた。
それを見ながら、僕は先程思い出したことを、心の中でもう一度思い返していた。
昔……小学校の頃だ。その頃授業で、絵本を作るというものがあった。その日僕は、初めて自分の想像したものを、自分の心の中の世界を文にした。
想像したりすることは、幼い頃から好きだった。だけどそれを、何かに現したり、書いたりなど、一度も考えたことはなかった。
それは一種のカルチャーショックだった。そして、僕は囚われた。その、文を書き、話を作るという行動に、魅了されたのだ。
母と違って不器用で、およそ作り上げるということが苦手な僕が、初めて自分自身の手で、自分だけのものを作り上げた。それがひどく新鮮で、心地よかった。
何もかも、母に手伝ってもらわなければうまくいかない、こんな自分にも出来るんだと……そう感じることが出来た。
それは単に、自己満足だったのだろうけど……自分で何かをするという事に、恐れを感じていた僕に、自信を与えるには充分な出来事だった。
放課後。翠が、最後のページを読み切った。ふう、とため息をついて、紙の束を、丁寧に直している。
僕はそれをじっと見つめながら、言葉を待った。きっと今の僕は、判決を待つ被告人のような表情をしているに違いない。
翠が、こちらを向いた。
「……旭」
ごくり、と唾をのむ。
「これ………すごく」
一体、なんて言うんだろう?
体中を不安で一杯にしていた僕に、それまで真剣な顔だった翠が、にっこりと、満面の笑みを向けた。
「すごく、面白かったよ!」
――え?
「うん、面白かった。読ませてくれてありがとな、旭!!続き、書かないのか?」
一気に力が抜けた。そして、どんどん顔がにやけていくのを感じた。
「よかった〜…………………」
そして同時に、胸の中にある、もう一つの気持ちに気づいた。
『面白かったよ』『ありがとう』その言葉を聞いて、僕の中に、暖かな気持ちが広がった。この前とは違う涙が、あふれそうになる。
――ああ、そうだ。これだ、この言葉だ。
小学生の僕を、小説家にしようと決意させたのは、このどうってことないごく普通の……だけど、何より嬉しくも誇らしい二語だったのだ。
「こちらこそ、ありがとう……翠」
今や、胸にあったしこりは完全に消えていた。
心臓病の僕が『小説家』という道を選んだのは、逃げでもなんでもない。ただ『なりたい』とそう思った。それだけだったことを思い出した。
それがわかった以上、僕は自信を持って、小説家を目指せる。
心臓病は治らない。なぜ自分がという気持ちも、一生持ち続けるに違いない。
――けれど今なら、それでもいいと……そう思える。
愚痴を聞いてくれる人がいるからだろうか?
「……今日帰ったら、母さんに謝ろう」
そう、素直に思えた。
いつか心臓病であることすら、誇りに思える自分になりたい……そのためには。
「小説家は譲れないね」
ニヤリと、僕は笑った。母との意見の食い違いは、それはそれでしょうがないと、思えるようになっていた。
そんな僕に、ヤジが飛んだ。
「旭、あくどい笑いして……また悪いこと考えてんだろ?」
「失礼だな、おい!」
大爆笑。久方ぶりに、僕は心から笑い続けた。
いいだろう。母の非難も、この心臓病という自分の個性も、全て受けて立ってやろうじゃないか。
人生八十年、まだまだ余っている。例え一度や二度負けたって、再戦する余裕は、いくらでもあるはずだ。
ふと、ある本の言葉が頭に浮かんだ。昔いいな、と感じて、忘れないようにしようと思ってたことだ……すっかり忘れていたが。
曰く――。
【目標が目的になってはいけない。考えるべきは『どうやったら』なれるかではなく、『どうして』なりたかったのかである】
初心を持ち続けよう、夢が叶うまで。
夢を追い続けよう、この気持ちを忘れない限り。
この、遠くて近い夢を――。
―終―
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