遠近夢〜前編
鯛焼きクン。
そう、あの歌だ。ずっと昔、僕らが子供の頃にはやった、『泳げ鯛焼きクン』。
ちなみに最近出てきた『踊れ〜』の方ではない。あれじゃあ、全然違う。僕の言いたいことは伝わらない。
最近その歌を、よく口ずさむ。鯛焼きクンのその詞が、なんだか今の僕の心境と状況にそっくりだから。ついつい、口ずさむ。
「♪……まぁいにっち、まぁいにっち、ぼぉくらは鉄板のぉ〜♪」
今日も僕は口ずさむ。鯛焼きへの憧れと、鯛焼きに勝てない己への嘲笑を込めて。
学校だろうが、どこだろうが、関係ない。
「また歌ってるのか? 旭(あきら)」
「……翠(みどり)か」
学校、休み時間。ぼうっとしながら、呟くように歌ってた僕に、友人が声をかけた。
小さく笑いながら、僕は答えを返す。
「そっくりだろ? 今の僕らの状況に。毎日毎日机に縛られてさ」
「ふむ……そうだね。結構似てるかも」
そう、興味深そうに頷きながら、翠は俺の横に腰を下ろした。
僕たちは、高校に入ってから知り合った。
だが、思考回路が似てるというか、感覚が似てるというか……妙に気があって、よく一緒にいる。
僕らはとある私立校に通っていて、所属クラスは、特進。毎日毎日、嫌になるぐらいの勉強勉強。普通のクラスより三時間以上、一日の授業時間が長い。大人の言葉を借りれば、『よりよい大学に入るため』である。
翠は僕の方を見ながら、うかがうような目で質問してきた。
「じゃあお前は、いつか海に飛び出すつもりなんだ」
「……そうだね」
――そうだと、いいんだけどね。
そう苦い思いを、心の中でだけ呟いて、うーんとのびをした。
「旭?」
「もう、休み時間も終わりだよ。また授業か。いやになるねえ」
授業が始まる。楽しい授業もあるけど、僕は最近、授業と言うより、勉強自体に嫌気がさしている。それは確実に、僕の享楽的な性格が影響しているのだろうけど。
「ただいま」
家に帰ると、母が「遅かったわね」と声をかけてくる。
時刻は七時。もっと遅く帰る生徒はざらにいる。少し過保護気味な気がする母の発言は、僕の厄介な体を案じてのことだから、邪険にも出来ない。
――まあ、昔よりはマシになったし。
「ああ、本屋に寄って来たから」
「また立ち読みしてきたんでしょ?やめなさいよね、みっともない」
さすが。僕の行動パターンをわかってらっしゃる。
いつものお小言に、僕は脇に挟んでいた紙袋を振りかざして見せた。中には買ったばかりの本が二冊、入っている。
「立ち読み歓迎の古本屋だから、いいと思うけどね。何も買わなかったわけじゃなし」
「全く……いい加減にしなさいよね」
母の言葉に何も言わず、僕は制服を脱ぐと鞄をもって二階に上がる。
このままここにいたら、何かひどいことを言ってしまう気がするし……そうなった時、気の強い母と戦うのは、極端に体力を使う。出来れば避けたいことだ。
……母のことは嫌いじゃない。父のこともそうだ。むしろ、感謝すべき事はたくさんあるし、大好きだと言っていい。家族単位で見ても、我が家は平和で、仲がいいと思う。
でも時々、息が詰まりそうになる。なんとも言えない苛立ちが、体を走る。母と僕の間には、どこまでも平行線な話題があるからだ。
部屋に入るとすぐ、パソコンを起動させた。
パスワード画面で、『記憶』とローマ字で入力し、本格的にパソコンを立ち上げる。
マウスを動かして、あるファイルを開ける。その中の、あるものをクリックして出てきたのは……自作の小説だ。
「さてと……続きを書くか」
自然と小さく笑みを浮かべながら、僕はキーボードに指を滑らせた。
僕は、小説を書くのが好きだ。時間が余るとこうやって、パソコンに向かう。
今書いてる作品は、ギャグ小説だ。結構愛着のある作品で、完成はもう間近。できあがったら、これが初めての長編小説となる。
もうすぐ受験生になることだし、これを完成させ、コンクールに投稿をすることを、心に決めていた。そうすればきっと、受験にも力が入る。そう思ったのだ。
「受験生か……」
呟いて、ため息をつく。
――受験生など、なりたくはない。
これが本音だ。怖い訳じゃない。面倒くさいとも少し違う……まあ、近いものはあるかもしれないが。
僕には、心からなりたいと思うものがない。いや、例外はある。小説家だ。これだけは、昔からの夢。絶対に変わらない。譲れないものの一つだ。
だが母は、僕のこの夢を認めない。
――そんなものは、しょせん夢物語。だから、教師でも目指しなさい。
これが母の意見だ。確かに一理ある。小説家に志望してる人はいっぱいいて、なれるのは、ほんの少数。さらに、それのみで生きていけるほどの収入を持ってる人なんて……さらに少ない。
母は、僕のことを心配してそう言ってくれているのだろう。だけど母は知らない。その一言が、僕をどんなに傷つけるか。
情熱を感じることが少なくなった、僕の唯一の夢。僕自身と言っていいそれを、否定されるのはとても辛い。
「ごはんだよ!」
下から、母の声が聞こえる。ドアを開ければいい匂いがして、こくりとつばを飲み込んだ。パソコンの電源を付けたまま、僕は階段を下がっていった。
夕飯を終えて、風呂にも入って、僕は母とテレビを見ていた。
父の姿はない。父は単身赴任中だ。だから平日は、僕と母は二人きりで過ごしている。
もう少しで、期末テストだ。一週間か……まあ、そのくらい。
珍しくやる気になった僕は、テスト勉強のため、いつもより早く入浴を済ませた。パジャマを着て、頭にバスタオルをかぶせたまま、僕はドラマを見ている。
ああ、そうだ。
「――母上」
「ん?」
この呼称に深い意味はない。幼い頃は『ママ』だったし、普通に『お母さん』と呼んでた頃もあった。よその人に『母』と呼びだしてから数年、『お母さん』よりも短い単語で済むと理由で呼びかけも『母』になった。
そして今、『母』だと妙に語呂が悪いということで、『母上』に変化した。それでさえ、気分によって『ははうりゃー』だの、『母上様』だのと、全く節操がない。
「なに?」
「大学進学のことだけど……」
ピクリと眉を上げた母の手がリモコンを操り、テレビのヴォリュームを小さくした。
「で?」
母が、いつも変わらぬ真っ直ぐで強い瞳で僕を見る。自分にはないそれに、後ろめたさを感じるようになったのはいつだったか。
一息ついて、僕は言った。
「私立は、受けないでいこうと思う」
「………………………………?」
嫌な、沈黙。
「それは、国公立一本で行こうと思ってるってこと?」
僕は言葉を出さず、頷くことで肯定した。
はあ、と言う、母のため息。不機嫌な瞳が、きっと僕をにらみつけた。
「一体あんた、何考えてるの!?」
予想通りの展開だった。そう言うと、少なからず思っていた。
「あんた、それで落ちたらどうするつもり!?」
至極もっともで、予想していた意見だ。ここまで予想通りだと、かえって笑えてくるから不思議だ。だが、僕にも意見はある。
「だってさ、例え国公立に落ちて、私立は受かったとしてもね、僕は私立に行く気は全くないよ?」
「わっかんないでしょ、その時になんないと。受けとくだけ受けとけばいいじゃない!」
「行かないとわかりきっているものに、どうして大金払わなきゃいけないんだよ!? そんな非効率的なこと、僕はイヤだね」
「こうと決めたらそれしか見ないのは、あんたの悪い癖。金払うのはあんたじゃないのよ!? あーだこーだ言うんじゃない!!」
「だからイヤなんだよ! 私立なんて行かない!! ヤダ!! だから受けないっ!!」
子供のかんしゃくのように、僕はわめいた。説得力なんてまるでありやしない。
とにかく、私立は嫌だった。何が嫌って、金がかかるのが。
実は、僕は高校受験で失敗している。そのおかげで今の学校に入り、いい友人が出来たし、第一志望に行っていたよりも勉強はしていると思うのだが……でも、学校に大金払っているのは事実だ。
払わなくてもいい金を払っている……母に、負担を負わせている。そんな想いが、入学当初から僕の中にあった。だから、次こそ国公立にしようと決めていた。
「他にも何かあるでしょう!? 私立だって、いっぱいあるんだから!!」
そう言われても、ダメなのだ。僕は、小説家以外に心動かなかった。
どの学校を見ても、ピンと来るものがない。やりたいと思うことがない。
母の言葉で、一応僕は教育大を目指している。尊敬する先生がいるから、教師も悪くないと思う。
けれど。
情熱が、わいてこない。小説にかけるほどの熱意が、僕にはない。
母には今までも、ちょくちょく小説家になりたいと言ってみて、教師と二足のわらじでも目指すかと笑ってきた。
だけどそれはあくまで最初に『小説家』が来て、二次的なものが『教師』だ。母が望むのは、それとは逆だ。
それからしばらく、二人の間で口論は続いた。行きたいところがあるなら、私立でも行けという母。
――だけどね、お母さん。あなたは、私立にかかるお金を知らないから、そんな事が言えるんだよ?
高校で世話をかけた分、大学は楽させてあげたい。僕はそう思っていた。
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