番外編 逢い引き 後編

 さきほどまで天空にあったはずの太陽はとうとう地平線近くまで降りてきて、空が橙に燃え始めた。
 空自体になんら思うところはないが、その光を受けた樹の横顔はきれいだと素直に思える。
「もう五時か……早いね」
「そうだな」
 樹の表情は、どこか寂しそうに見える。その表情が、自分と別れる時間が迫っているからだったら、どんなにか良いだろう。
 一日中園内を歩き通し、遊び通した体はもうくたくただった。しかし、自分の心は「もっと、もっと」と欲深く叫んでいる。
 もっとこの少女の側にいたい。そう思う自分を、真澄は嫌いではない。
「それでも、門限まではまだ時間があるな。最後にもう一つぐらい乗れる。……樹、なにに乗りたい?」 
「真澄……お前、今日一日ほとんど自分が乗りたいものをいってないじゃないか」
「いやならいやって言うさ。お前の乗りたいものは、ほとんど俺が乗りたいものだからな、問題ないだろ」
「……最後まで、僕が決めていいって言うのか?」
「もちろん」
 その単純な一言に、樹の目がきらきらと輝いているのが、真澄には自分のことのように嬉しかった。
 きっとこれが樹以外の人物なら、逆を考えこそすれ、喜びなんて感じないだろう。
「そうだな。ジェットコースターも乗ったし、お化け屋敷も見たし……」
 腕を組みながら真剣に考え込む、その様子が可愛らしい。
 自分以外の樹を知るものが、今彼女のこの姿を見ていない。それだけでひどく、優越感を感じる。
「うん、やっぱり……」
 うなずいた樹の視線が自分の後ろに向かう。それに気づき、真澄は振り返る。そこにあったのは。
「……観覧車、か?」
 夕日を照り返し、燃えるように輝く、遊園地で一番大きい建物がそこにあった。
「だめかな? 真澄、観覧車きらいか?」
「いや、きらいってわけじゃない。安心しろ」
 ただ、少し驚いただけだ。
 意外というか何というか、普段の樹はわりとスピード系や絶叫系……そう、ジェットコースターなどのスリルのあるアトラクションを好む。
 実際、今日も一日、そのようなタイプばかりを回った。
 また、真澄自身もその手のものが好きだった。
 メリーゴーランドやコーヒーカップなどは自分のガラではない、好ましくないと思っているので、樹の選ぶアトラクションは、どれも本当に楽しめた。
「じゃあ、最後は観覧車でいいんだな?」
「うん!」
 観覧車はそれなりに人気らしく、長蛇というわけではないが、何人か順番を待つ人もいた。どれもカップルらしく、男女で並んでいるのがほとんどだった。
「……ま、俺たちも例にもれてないがな」
「なにか言ったか、真澄?」
「いや、なんにも」
 嬉しげに少し頬を紅潮させている少女は、周りのことなど気づいていまい。
 カップルだとか、一人だとか、観覧車の中では二人っきりだとか、彼女にはあまり意味がないのだろう。
 目の前のカップルが乗り込み、視界がひらけた。
「はい、次の方どうぞ」
「ほら樹、足下気をつけろよ」
「わかった」
 足取りも軽く、樹は中へと乗り込む。それに続いて真澄も乗り込み、樹の前に腰を下ろした。ドアが閉まり、ボックスは空へと舞い上がってゆく。樹は窓の外の景色を、興味深そうに眺めていた。


「……なにか、見えるのか?」
「これと言って特別なものは見えないよ。けど……夕焼けがきれいだ」
 沈みゆく太陽が、樹の顔を照らしていた。
 いつもと違う高さで見ているせいなのか、それとも樹と見ているせいなのか、今日の夕焼けはいつもより赤く、大きく見える。
「街もきれいに見える……僕たちの寮、どこかな?」
「寮か? どれ……」
 狭いボックスの中、樹の側に近寄る。片方に寄ったせいか、かすかにだが、ぐらりとボックスがゆれるのがわかった。
「真澄……」
 少し非難めいた声に目線を下げれば、不安が混ざった瞳とかち合う。
「大丈夫だ。これぐらいでなにか起きるものか。それより、寮だったな?」
「あ、ああ」
 頬に、少女の髪がふれる。柔らかな感触に酔いながらも、それを感づかせないよう平静をよそおった。
「そうだな……方角からいったらあっちか。でも、ビルが邪魔で見えないかな」
「あっち?」
「そう。ほら、あの山は見覚えあるだろう?」
「あ、そっか」
「やっぱり隠れてるかな……」
 しばらく真剣に寮を探していた二人だったが、やがて樹がためらいがちに真澄を見上げてきた。
「どうした?」
「……あのな」
「ん?」
「……くすぐったいんだ」
「くすぐったい?」
「お前の声と、髪。耳とか頬にふれて、くすぐったい」
 今まで我慢していたのだろうか。よくよく見れば、少女の頬は朱に染まり、目は少し潤んでいた。
 偶然とはいえ、自分の行動のせいで樹がそんな表情をしていることは――ひどく、そそられる。
 無意識に、そっと頬に手をあてた。少女の白い肌は、まるで吸いつくような感触を真澄にあたえた。
 愛しい、愛しい少女。
 自分はいつになったら、この透明な少女を手に入れられるだろう。
 焦るつもりはない。
 長期戦の覚悟も出来ている。
 ――それでもしばしば、ちょっとした衝動に駆られるのだ。
 細く、白い首が目に映った。そして頬にあてていた手を、首へと移動させ、ゆるく指をからめた。
 樹は動かない。ただじっと、こちらを見つめている。
 もし、今このまま指に力を込めたなら。
 この少女は全て、自分のものになるだろうか――?
「……真澄?」
 無邪気な声が、真澄を現実にもどした。
「あ……」
「真澄?」
 もう一度、今度は少しいぶかしげに。
 それでも、不安や恐怖などは一切なかった。疑いすら覚えていない。
 無条件で、絶対的な信頼――。
「具合いでも悪いのか?」
「……いや、大丈夫だ。なんでもないよ」
「そうか?」
 小さくうなずいて、体を離した。
「ああ、もう終わりだな」
 観覧車は、地上へと近づいていた。


「今日は楽しかった、ありがとう真澄」
 寮の前に真澄と樹は立っていた。男子と女子で建物が別れているので、この門までが一緒にいられる限界だった。
 観覧車から降りた後、二人はまた手をつないだまま帰ってきた。名残惜しいと思いながら、真澄は樹の手を離す。
「樹、気をつけて帰れよ」
「ばぁか。気をつけるほどの距離じゃないだろう? じゃあ……また明日」
「ああ、また明日、な」
 かつかつと階段を上ってゆく樹を見送って、真澄は自分も寮へと足を進めた。
「……とりあえず、収穫は二つだな」
 一つは、手をつなぐことを、樹自身がさほど疑問に思わなくなったこと。
 もう一つは、樹が本当に、この自分を信頼していることに確信が持てたこと。
「もう少し……かな?」

 少しずつ、少しずつ。気づかないように浸食していこう。
 少しずつ、少しずつ。気づかないように、縛っていこう。
 誰のものにもならないように。
 俺のことだけを、考えてくれるようになるように。
 どうか、俺のことだけを見つめていて。
 それがダメなら、その時は。
 どんな手段を使っても。
 縛りつけるから――。

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