山陽物語 |
家を出て2日、私は偏執者の町・明石にいた。 猛吹雪の鈴鹿峠を命からがら越えて、京都で一泊。今日は早朝から171を下り、新長田の吉野家で牛丼をかっ込んでここまで来た。 それにしても、唯一須磨の海岸線を除けば、ここに至る道程の何とつまらなかったことだろう。 もう、たいがいイヤになってきた。が、今日は姫路まで行く予定になっている。まだまだ先は長い。急がねばならない。 |
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加古川 | 悲しい |
明石はアーケードの真ん中にポルノ映画館が堂々と鎮座し、偏執者を育んだ町に相応しい佇まいである。 ここからは2号線ではなく、山陽電鉄沿いの県道を走っていくことにする。 砂丘のようなだらだらとしたアップダウンの中、京阪神の匂いも山陽の匂いもしない無国籍な町並が延々と続く。 別府を過ぎると加古川に差しかかる。師走の加古川河口のあまりにも寒々とした風景は、さながら地獄絵図のようである。 心荒ませつつ行くも、まだまだ姫路は遠い。しかも市街地へは直進ルートを大きく外れて何キロも北上せねばならず、 そのことがさらに心を暗くする。 冬の日暮れは早く、急に気温も下がってくる。真っ暗になってもたどり着けず、凍えながらのろのろと行く。 翌日。3日目。 どんよりと曇った寒い朝。 姫路市内を南下し、再び250号を西に向かう。 まるでチェルノブイリのような、この世の終わりを思わせる風景が延々と続く。 京阪神最後の町・網干を過ぎ、室津へのきつい山道を上っていく。 しかし、どうにも体調が悪く、頭が痛い。あまりにも酷すぎる風景の中を走ってきたせいだろうか。 入り江の町・相生を過ぎ、さらにもうひと山越えて赤穂に至ったところで限界に達し、千種川の川原でぶっ倒れる。 どうやらこの2日間の無理がたたって風邪を引いたようである。しかし、今日はどうしても岡山まで行かねばならない。 絶え間なく襲い来る悪寒に耐えつつ、備前から2号線に戻り、無理やり岡山を目指して漕いでいく。 吉井川の土手に「岡山市」の看板を見つけたときは救われた気がしたが、そこから市街地までがめちゃくちゃ遠く、死んだ。 かなり熱があるみたいだがどうしようもなく、駅前の地下街でうどんをすすり、リポビタンを飲んで寝る。 その翌日。4日目。 もちろん熱は下がりきらない。 しかし、ここから来た道を戻ったとしても帰り着くまで3日はかかる。もうこのまま行くしかない。 12月末の朝の空気は冷たい。頭痛や悪寒がひどくなっていくのを感じる。 フラフラになりながら倉敷、そして笠岡へと這うように漕いで行く。 時流が澱んだような小さな集落をいくつも通り過ぎる。この辺りは古くからの凶悪犯罪多発地域である。 手毬唄や俳句、落武者伝説などになぞらえたいくつもの異常な殺人事件を思い出す。 岡山県の西端・笠岡は言わずと知れたB&Bの町である。 街角に佇めば、どこからともなく「おんど笠岡」が聴こえてきたような気がしたが、空耳だった。 福山を過ぎ、尾道まで来たところで日が暮れる。 尾道の駅前もこの十年ですっかり変わってしまった。時は全てを奪い去っていく。 …ゆっくり感傷に浸っていたいところだが、時間がなくなってきた。少しでも明るいうちに先を急がねば…と思う間もなく、 ほとんど真っ暗になってしまった。 尾道の町を外れると、糸崎までは何もない海辺を行かねばならない。 晴れた昼間なら海が見えるので走って楽しい道だろうと思うが、今は暗いし寒いし風はキツいし、最悪である。 何度もトレーラーに轢かれそうになりながら耐え忍び、命からがら三原まで来たが、ホンマに疲れた。 凍てついた身体をラーメンで温め、ボロホテルの一室で重い眠りに沈む。 |
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安芸ノ海 | 松山行フェリー |
阿賀港 | こんなにつらい 別れの時が… |
そして翌日、大晦日。5日目。 体調は相変わらず良くないが、今日は雨が降りそうにないのだけが救いである。 山越えの2号線を逃げて、呉線沿いに竹原へ向かう。それでもちょこまかとした坂が続き、しんどい。 今日の最終目的地は広島である。しかし、呉から松山に渡ってしまおうかとも思う。 今晩松山で泊まって、明日フェリーで柳井に渡ってしまえば、呉から柳井の間をほとんど走らずに移動出来るのである。 しかし、そもそもこの旅の原点は、山陽本線の車窓から見た岩国から柳井にかけての海辺を自転車で走ってみたいと思ったところにあるので、 フェリーに乗ってしまうと何のために老体に鞭打ってここまで来たのか分からなくなってしまう。 迷ったが、こんだけ体調が悪いとどうにもならんということで、結局堀江行きのフェリーに乗ることにする。 |
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謹賀新年 | 三津浜 |
正月の海 | やないみなと |
さらにその翌日、元旦。6日目。 松山はかつて何度も訪れたなつかしい街だ。 しかし、今回はゆっくりしているヒマが無い。ということで、夜明けとともに三津浜港に向かう。 余談だが、松山はJ太郎の故郷でもある(本当に余談で申し訳ありません)。 柳井行フェリーは12年振りで、月日の流れの速さが身に沁みる思いである。 それにしても、私のように志を持った者はともかく、こんな元旦の早朝から柳井に渡る客というのは、いったい何者なのだろう。 皆それぞれ事情があるのだろうが、全く想像もつかない。 フェリーターミナルのテレビで流れていた「♪50年〜50年〜テレビが50年〜」という歌が脳裏を離れない。 柳井港は小さいが、瀬戸内らしい風情のある良い港で、再訪の機会に恵まれたことを嬉しく思う。 ここから室津半島の根元を横切ると周防灘に出る。瀬戸内ののどかな表情からは一変して、波風の荒い鉛色の海が広がる。 下松までたどりついたところで雨が降り始める。 合羽を羽織り、灰色に沈む徳山のコンビナート群を目指して、ずるずると漕いでいく。 しかし、オレはいったい何のためにこんなことをしているのだろう。 年末年始は寒すぎて自転車の旅には全く向かないと改めて思い知る。 今日は防府に泊まることにする。 防府とは周防の中心を意味する地名だが、今や廃れ果てて何も無く、コンビニ弁当を食べてそそくさと寝る。 今年もロクなことがなさそうだ。 と、いうわけで、ここから先は 下関物語 、さらに先は 〜2003・冬、門司港〜 でお楽しみください。 |
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