反射炉跡 |
反射炉の建造と集成館
アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたという情報は島津斉彬に大きな衝撃を与えました。
嘉永4年(1851)、薩摩藩主となった斉彬は、日本が西欧諸国の植民地にされるのではないかという危機感を抱き、海洋に多くの領地を有する薩摩藩こそ、「大砲と船」に象徴される軍備の近代化と産業育成に力を注ぐべきだと考えました。、
反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれたもので、嘉永5年に着工し、安政3年(1856)ようやく鉄製砲の鋳造に成功しました。また反射炉を中心に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備され、これらの工場群は「集成館」と命名されました。
生麦事件に端を発した文久3年(1863)の薩英戦争では、イギリス艦隊7艘を相手に、ここで造られた大砲が大活躍しましたが、その後解体され、現在は基礎部分だけがのこされています。
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