東人の出戻り浜生活諸国点描広島広島(1)

原爆ドーム

 日曜に広島に移動した時、少し早くでかけて市電に乗って原爆ドームまで行ってみた。
 
 以前にも、しまなみ海道が開通した頃に原爆ドームと平和記念資料館に行ったことがあった。
 
 原爆ドームは平成8年に負の遺産として世界遺産に登録された建物であるが、無機質な廃墟という印象を与える。
 一瞬の内にこのような廃墟に変えた原爆の恐ろしさを知るには平和記念資料館と併せて訪れた方が良いだろう。
 

原爆ドーム

 昭和20年8月6日 史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島県産業奨励館の残骸である。
 爆弾はこの建物のほぼ直上約600メートルの空中で爆発し その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失われ、半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。
 この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため 国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し これを永久に保存する。
 
昭和42年8月6日  広島市
 

世界遺産 原 爆 ド ー ム

 
 原爆ドームのもとの建物は、チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により1915年(大正4年)4月に広島県物産陳列館として完工し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。
 館は、県物産の展示・即売、商工業に関する調査・相談などを業務としていましたが、美術展や博覧会など文化事業にも利用されました。
 その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、業務の拡大が図られていきましたが、戦争の長期化・激化とともに業務が縮小され、戦争末期の1944年(昭和19年)4月から、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等の事務所として使用されました。
 
 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が、人類史上最初の原子爆弾を投下しました。原爆は、広島県産業奨励館の南東約160メートル地点の上空約600メートルでさく裂し、建物は大破・全焼、館内にいた全員が即死しました。
 しかし、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、建物の壁の一部は倒壊を免れ、最上部に残った鉄骨により円蓋をもつ建物であったことがわかる程度の残骸となりました。 戦後、広島県産業奨励館の残骸は、最上部の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から、原爆ドームと呼ばれるようになりました。
 
 原爆ドームについては、当初、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありました。
 しかし、市街地が復興し、被爆建物が姿を消していく中で、保存を求める声は次第に高まりを見せ、1966年(昭和41年)、広島市議会が原爆ドームの保存を決議しました。
 これを踏まえて、保存工事のための募金運動が行われ、国の内外の平和を願う多くの人々の寄金のより1967年(昭和42年)、第1回目の保存工事が行われました。
 その後も、数回の保存工事が行われ、原爆ドームは被爆当時の姿を今に伝えています。 
 
 1996年(平成8年)12月、原爆ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として、世界遺産に登録されました。
 また、原爆ドーム周辺は文化財保護法による国の史跡に指定されるとともに、平和記念公園周辺を含む区域に緩衝地帯(バッファーゾーン)が設定され、原爆ドームの保護が図られています。
 
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広島城

 原爆ドームの北側に広島市民球場があり、そこを抜けてさらに進むと広島城の堀が見えてくる。
 

史跡 広島城跡
昭和28年3月31日 国指定
史跡指定地 本丸跡、二の丸跡、堀およびその周辺
別名鯉城・在間城
形状太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城
沿革
1589年(天正17年)毛利輝元 築城工事に着工
1591年(天正19年)毛利輝元 入城
1600年(慶長5年)福島正則 芸備49万石余を領し、翌年入城
1619年(元和5年)浅野長晟 芸備42万石余を領し、8月入城
1871年(明治4年)廃藩置県により本丸内に広島県の役所が置かれる。
1894年(明治27年)日清戦争時本丸内に大本営が設けられる。
1945年(昭和20年)原爆により天守閣、太鼓櫓、表御門などすべて崩壊
1956年(昭和33年)現在の天守閣再建

史跡広島城跡二の丸表御門(復元)
 
規模 桁行 7.64m、 梁間 4.85m、軒の出 1.27m、軒高 7.03m、棟高 10.61m
構造 木造脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺、軸部真壁、軒塗籠、両側面一間庇付

 表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの約350年間存続していました。
 現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。
 この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に見当し、焼失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によっって往時の姿をよみがえらせています。
 

史跡 広島城跡
二の丸跡

 
 この石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出しの機能を持つ郭で、全国の近世城郭の中で特異な配置であり、広島城の特徴とされています。
 この郭は、毛利時代(16世紀末)に建造されたもので、外側から内部は見えにくく、本丸からは内部が見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。
 郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが、原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城四百年を契機に、江戸時代の姿に復原整備したものです。    
広島市教育委員会
     
 

広島大本営跡


 明治27年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道(※現在のJR山陽本線)が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、明治27年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、大本営が設置された。
 明治天皇の広島滞在は明治27年9月15日から明治28年4月27日までの7ヶ月に及んだ。
 その後、建物は広島大本営跡として保存されていたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されています。
 
 

広島城天守閣

 
開館時間
  4月1日から9月30日まで 午前9時から午後5時30分まで
  10月1日から3月31日まで 午前9時から午後4時30分まで

休館日 
  12月29日〜1月2日まで

観覧料
 個人 団体(30人以上)
大人 360円 280円
小人 180円 100円

展示案内

第一層
   常設展示「広島城の成立と役割」

第二層
   常設展示「城下町広島のくらしと文化」

第三層
   武具・甲冑展示室

第四層
   企画展示室

第五層
   展望室
 

礎石について

 
 ここにすえ付けてある石は昭和33年天守閣再建に際して、もと、天守閣柱下の礎石を掘りおこして原型のまま移したものである。
 玉石排水溝の内側が天守台の大きさである。
 一段低くすえてある石はは今もなお天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示している。
 
 昭和44年7月
広島市教育委員会
 
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