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駅前の友元さん | 【新着】(2006/08/04) | |
縮景園は元和6年(1620年)広島藩主浅野長晟が別邸として築いた廻遊式庭園である 作庭者は茶人としても知られていた家老上田宗箇であるが後の天明の頃(1783年〜88年)藩主 重晟が時代の趣好に合うように京都から名工を招いて修造させ ほぼ今日の規模となった。 園の広さは約4万平方米 景観はどこらか眺めてもよく中国杭州の西湖に似ている 幾多の景勝を縮めて表現している点に本園最大の特色がある そのため縮景園の称が生じたと云われ古くは御泉水又は東邸とも呼ばれていた。 中央の大きな池は灌漑池中心をつらぬく石端は跨虹橋といい自然と人工の美の対照を示している その左右には十余の島々が浮かび周囲には かずかずの山渓橋 樹林 田園がたくみに配置され それぞれ雅名が付けられている 日清戦争のとき大本営副営となったことがある 昭和15年 浅野家から広島県に寄付され同年国の名勝に指定された 昭和20年8月6日 原子爆弾の投下により壊滅状態となったが広島県では鋭意復旧整備につとめ多くの方々から名勝庭園として親しまれ 今日に至っている。 昭和60年8月 広島県教育委員会
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この「折り鶴の碑」は、日本各地からだけでなく、外国からもヒロシマに寄せられるようになった無数の折り鶴にこめられた平和への願いを、広島の子どもたちが受け止めた証として建立されたものです。 1955年、広島市立幟町中学校一年の佐々木禎子さんは、突然発病した原爆による白血病のため。12歳の短い生涯を閉じました。級友たちはその死を悲しみ、全国の子どもたちに呼びかけて、1958年、広島の平和記念公園に原爆の子の像を建てました。 病床で生き抜く希望を折り鶴に託したサダコの物語は、やがて国の内外に広がり、多く折り鶴が広島に届けられるようになりました。 それら折り鶴の一羽ずつにこめられた願いを、わたしたちは大切に受け継ぎます。 そして、禎子さんの命日である10月25日には、ヒロシマの子どもの堅い意志をあらわすこの黒御影石の碑に折り鶴を置き、世界に平和を築く決意を明らかにします。 2000年3月 広島市幟町中学校 生徒会
設計・製作 前川 義春 |
幟町カトリック教会 Hiroshima Wold Peace Memorial Cathedral ローマ教皇 平和アピール(抜粋) 広島を考えることは、核戦争を拒否することです。 広島を考えることは、平和に対して責任を取ることです。 ローマ教皇 ヨハネ・パウロ二世
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(駅前の友元さん)
此の神社の由来は、慶安元年(1648)東照宮造営時、猿候川より使用資材の陸揚げ貯蔵と仕分け加工の場所、東松原町(現広島駅正面右位置)に安全を祈願し、当地に神社を祀り、銀杏の木を植樹したとされるが起源で、神皇産神、伊那弟伊那丹二柱の大神、泣澤女神、刺国若姫命、地代主神、そして此里を見守って下さる友元大明神、大正初期に友元明という人(毛利元就公の義弟)をご神体として迎えられ、七柱の神が祀られていました。 現神像は1931年(昭和6年)旧糸崎鉄道学校校長さんが京都の職人に彫像させたものです。 そして昭和20年原爆投下一ヶ月前に、信仰お守りしていたお祖母さんの根枕に神像が立たれ、疎開する様にお告げがあり、そして一ヶ月後町並の全てが破壊喪失しましたがこの大災難お免れになった幸運で強運の神様であります。 |