東人の出戻り浜生活近隣散策近隣散策(3)

明治天皇船橋行在所

  本町通りに面した千葉銀行船橋支店の前に「明治天皇船橋行在所」の碑があった。

 




県指定史跡
 
明治天皇船橋行在所

  

指定年月日 昭和9年12月18日
管理者  千葉銀行船橋支店

 明治天皇は千葉県に陸軍の演習や牧畜耕転事業などをご覧になるため、明治6年を初めとして明治45年までに10回、延35日にわたって在県された。最初のご来県は明治6年4月29日から5月1日まで、近衛隊演習をご覧になるための、大和田原へのお出ましのときである。
 この本県への最初のお出ましの第1日目に昼食をとられたのが、当時の船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在地)であった。
 その後、明治8年5月、第2回目のご来県の折、同月29日にはこの山口方に泊まられた。
 これは本県で最初に民間に宿泊された家である。
 その後も山口方をしばしばご利用になり、通算して宿泊10回、昼食5回、御小休2回に及び、本県で最も多く立ち寄られている。
 
 昭和23年6月29日、明治天皇に関する他の諸遺跡は全て指定を解除されたが、ここだけが継続指定されている。
 
 この碑の近くで、気になる文字配列のポストを見かけた。

不動院 大仏追善供養

  図書館の南東側に不動院というお寺があった。 

 



 不動院の前に石造釈迦如来座像と「大仏追善供養」の説明があった。
 市指定文化財として、ここにある石像に飯を盛り上げる行事が行われていることが書かれていた。


市指定文化財(民俗文化財)

指定年月日 昭和47年12月21日
管理者   船橋市漁業共同組合

大仏追善供養

 
 船橋浦は専猟場であったが、専猟場と入会の境については常に他村との争いが絶えなかった。
 特に文政7年(1824)の船橋村と猫実村(浦安市)との係争中、一橋家の侍を船橋猟師が殴打したため猟師惣代3名が入牢し、うち2名が死亡に至った。
 また、延享3年(1736)8月1日の津波によって溺死した漁夫ならびに猟師町住民多数の供養のため建立された石造釈迦如来座像である。
 供養式に大仏の肩から口にかけて白米の飯を盛り上げる程つけるのは牢内で食が乏しかったのを償うためのの口伝がある。
 船橋浦にまつわる争いによる2名の猟師惣代の供養と津波による溺死者との供養が重なり、文政8年(1825)正月28日(明治以降2月28日)より毎年欠かさず行う行事として遺った。

昭和57年3月31日
船橋市教育委員会
 

浄勝寺

   不動院の南西側に浄勝寺という大きなお寺がある。
 この寺は、江戸時代、幕府から朱印地を与えられた寺とのこと。

 


稲荷神社

   京成船橋駅の近くで小さな神社を見かけた。
 稲荷神社と書いてあったが、詳細についてはわからない。

 


西向地蔵尊

    本町通りを西に行った所に西向地蔵尊と書かれた、やや大きな地蔵 堂がある。

阿弥陀如来像、 聖観音像、地蔵5体などが納められているとのこと。

 


日枝神社

   西向地蔵尊から少し西に行った所、道路の反対側に日枝神社という神社があった。
 


日枝神社

 
 祭神  大山咋神(おおやまくひのかみ)
 
 常逢鳴尊 −  大己貴命  
 (大國主命)
 (大物主命)
 −大國御霊魂神
 −御年神
 −大山咋神 − 別雷神

          
 大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山水を司さどり、万物の成長発展、産業万般の生成化を守護し給う御神徳である。
 日枝神社の神使は神猿と云われ、夫婦円満、殖産繁栄の神とされ、特に安産子育に霊験あらたかであると云われる。    
 

神社運営審議会
 

日枝神社 御案内

 
  
1月1日 新年初詣
2月15日 例大祭
8月下旬(3年毎) 御神輿渡御大祭
11月15日 七、五、三、宮詣
12月31日 お篝火

          
 昔から山王様と呼称されて土地の人々には産土神であり信仰の中心であった。
 明治初年頃神仏分離令により日枝神社と改称され、明治43年には村社日枝神社となる。
 大正10年当時の在郷軍人会が中心となり社殿の大改築が行われ、昭和60年現在の社殿の様姿となる。
 

神社運営審議会