10月21日(木) 晴れ 18時30分

 出発に先立ってホームではスタッフのミーティグが開かれていた。乗客達も物珍しそうにカメラを向ける者やビデオを回す人もいた。こんな所にも鉄道旅の乗客と乗務員の信頼性が覗われ、毎年多くのファンがリピーターとして帰って来る事になる。
 18時40分、アデレードを定刻に出発するともう日暮れ時だ。サンセットディナー組は食堂車へ移動して行った。ネイビーカードの私達は夕陽の射し込むラウンジカーでカフェやティーを各自で注いだ。そこへクルーから「おつまみ、春巻、シューマイ」の差し入れだ。やはりビールが必要で売店の缶ビールを買って上機嫌になった。ほろ酔い気分に列車がバックしている様に思えて、通り掛ったスタッフに「ホワイ」と尋ねると「何処から乗車」と聞いてきた。「フロム、シドニー」だと言うとにこにこ笑って「途中まで後戻りして西の線路に別れて入ります」と。なるほど納得!この事は乗車前から知っていたが、上機嫌な汽車旅で何時の間にか頭の隅から消えていた(笑)
 21時にムーンナイトディナーが始った頃は陽もとっぷりと暮れて車窓の外は真っ暗だ。2度目の夕食のメインディッシュはオージービーフ、3センチは有ろうか分厚いステーキだ。隣のラウンジカーでは食事の終わったマルーンカード組がCDセレクションによるアフターディナー音楽を楽しんでいた。
 食後は馴染みになったシドニーのタクシードライバー夫婦と一緒に喫煙室へ、彼等は後部に連結されたカーキャリヤーに自家用車を乗せていて、パースから大陸をドライブして戻る休暇旅行の往路だった。アメリカから来た青年はプロ野球ファンで松井選手も話題に上った。ニューヨークのご婦人はゆっくりタバコを吸いながら読書する楽しみで乗車していた。
 23時に個室に戻ると車両の端に設置してあるシャワールームの熱い湯でリフレッシュし、個室備付けの白いガウンに着替えて2晩目のベットに入った。

10月22日(金) 曇一時雨

 5時30分、目が覚めた時にはブッシュの中を走っていた。野性の生き物が居ないか目を凝らして眺めたが、まだ就眠の時間なのか全く発見することが出来なかった。
 6時20分にノックの音がする、クルーがモーニング・サービスにやって来た。暖かいコーヒーで眠気を弾き飛ばして今日のロングランが始ったのである。
ラウンジカーのタクシードライバー夫婦 喫煙室のアメリカのプロ野球ファン
 8時過ぎ、朝食のテーブルに就く頃から空模様が怪しくなって来た。窓ガラスに雨粒がパラパラと降りかかると大粒の水滴となった。しかし直ぐに止んだから豪雨ではない。広大な大地ではお湿り程度かなーと思われた。この時期には降雨が有るものかとスタッフに尋ねると「自分が乗務している時に出会った事がない」と云うからよほど珍しい事か。
 9時23分、窓の外に〔477.3KM START〕の看板が目の前を横切った。ここから世界最長のナラボー平原の一直線に入ったのだ。
(スライド)食堂車から眺める今日のナラボー平原は珍しい雨だった
 10時40分、クック到着は約1時間の遅れだった。ここは横断鉄道が出来た時に給水と乗務員交代の設備として開設された場所で人口4人、開通当時1970年代には村もあったが今はその名残しか残っていない。プラットホームの無い駅でクルーが用意したステップで車外に降り、約1時間の停車中に先頭まで行って、ただその目的だけの為に来た様な自分は、延々と地平線に伸びる2本のレールを感動して眺めた。
 11時35分、ブオーーと長い汽笛を鳴らしながら再びナラボー平原に乗り出した列車は遅れを取り戻す為かスピードを上げた。線路際の道路標識とストップウオッチを睨めっこして計測するとなんと時速110キロで走っていた。
 13時15分からもナラボー平原での昼食だ。オーストラリアの食事は毎回ボリュームがある。その所為か皆さん肥満とは往かないまでも体格が大きく健康的に見える。そしてウエイトレス達も通路狭しの身体でよく働いていた。
 14時30分に個室に戻った自分はサウンドシステムから流れる軽快な音楽を楽しみながら平原に飛ぶインディアン・パシフィク号のシンボルになっているウエッジ・テイル・イーグルを探した。すると窓の外には広げると翼が2メートルにも達する平原の王者が舞い上がって、走り行く私達の列車を歓迎してくれた。












 15時38分にカーブして直線478Kmの世界最長の線路は終わった。列車は時速78キロで西に向かって走っている。駱駝の親子3匹が車窓と平行に走っていた。ウエッジ・テイル・イーグルも10メートル近くに巣作りをしていた。
 17時27分にブッシュの中に入って行き、空を覆っていた雲も晴れ渡ってきた。18時30分にはサウンドシステムから「ナラボー平原は通過しました。これから西部標準時間に変更して時計は1時間30分戻します」とアナウスしていた。午後5時と云うことか。時間はたっぷりと有ったのでラウンジや喫煙室でオーストラリアの夕陽を満喫したのだった。 
 18時(西部標準時)からのムーンライトディナーは7度目のテーブルである。もう顔馴染みになった乗客たちは家族の様に寄り合って食堂車の椅子に着いた。美しい夕陽を余韻に最後の夕食は和やかだった。
 20時10分、とっぷりと暮れたカルグーリーの町に到着した列車は、石造りの駅舎があるプラットホームに滑り込んだ。この駅では2時間のオプショナルツアーで鉱山跡を見物できる為、駅前広場から2台のバスが出発して行った。私はオーストラリア内陸の夜の街並みを味わいたくて整然と区画された市内を散策したのだった。
 22時45分、夜の帳が降りて静かになった長いホームを後にステンレスの列車は闇夜の中を出発して行った。最後の寝台を愉しむ為に23時30分にはベッドに潜っていた。
 
10月23日(土) 快晴

 6時10分前に目覚めると、昨夜は一度も気付かずに熟睡していたことになる。今朝もクルーのモーニングサービスは暖たかい紅茶をテイクした。長旅の疲れもなく、降車の準備をしている間にサウンドシステムからは懐かしいナッキング・コールのだみ声の歌が流れていた。
 マルーン組が朝食を摂っている間、私達はラウンジで今日の朝刊を読んだり、最後の読書を楽しんだり又これからの旅行計画を立てる人も居た。英字新聞には九州大分で今年9番目に日本に上陸した台風トカゲが漁船を巻き込んで4人が行方不明になっていると、写真入で報じていた。
 8時からのサンライズブレックファーストの頃には太陽もすっかり昇って、食堂車のテーブルの上は明るい日差しで輝いていた。車窓からは葡萄畑が見える、オーストラリア西部の豊かな緑の大地が広がっていた。ラウンジカーの売店では「おみやげ」や「IP記念グッズ」の最後の販売が行われていて、4日間のナイス・ジャーニーの想い出に買って行く人も多かった。
 9時20分、インディアン・パシフィック号は東パース駅に予定通り到着した。ダイヤより10分遅れだが広い大陸や大らかなオーストラリア人では許容範囲である。
 乗客達は手荷物を提げてホームに下りる。降車口でスタッフに別れを惜しむ老夫婦、軽装で通勤でもする様に足取りの軽い乗客に混じって、ピクニック気分で乗車していた幼い兄と姉妹も降りてきた。そして長旅の余韻を残して快晴の美しいパースの町の中に消えていった。

2004年10日23日

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